「イシュメルは、なにかした?」 『いいや? わたしはなにもしていない』 ルナはZOOカードに向かって言ったが、めずらしく返事がかえってきた。イシュメルが、ルナの隣に座っていた。 「のわも? うさこも?」 『すくなくとも、われわれは、なにもしていないよ』 「――そう? でも、おかしいよ」 ルナは言った。 「なんだか、おかしい」 四週間目には、アズラエルとグレンに連れられて、K33区に行って、原住民の子どもらと遊んでくるまでになった――ネイシャとピエトにくらべたら、まだ格段に身体は弱いが――運動をしても、無理をしなければ、熱も上がらなくなった。 たしかに、カレンとピエトにしたことと、同じことをした。完璧にとは言えないが、栄養バランスの整った食事を三食提供し、薬もちゃんと飲ませた。 だが、それだけで、ずっと抱えてきた、原因不明の難病が治った? 「……」 ルナのほっぺたはぷっくり。 つまり、納得していないのだった。 ピエトの場合は、あの当時、メリッサとタケルに対する反抗心から、薬をちゃんと飲んでいなかったし、食事も適当で、滋養のあるものを取っているとはいいがたかった。 二日か三日に一度、ジャガイモを数個、食べるだけ。母星で、一日、なにも食べない日もあったというピエトの食生活は、ひどいものだった。それを、L7系の一般人と同じレベルの食生活にしただけだ。 ルナはレトルトだってつかうし、外食だって行く。管理栄養士とはちがって、完ぺきではなかった。それでも、ピエトのいままでの食生活とは、格段にちがった。 ピエトのアバド病は、最初から、医者に、「ちゃんと栄養を取って、薬を飲めば治る」と言われていたものだ。そのとおりにしただけで、変わったことはしていない。 カレンも、たしかに毎日、ルナの愛情がたっぷりこもった、栄養バランスのいい食事はとっていたと思う。けれども、バランスのいい食事だけですべての病気が治るのなら、この世界に医者はいらなくなるし、難病もない。 「なんか――ひっかかるのです」 『それは、おまえがまだ真実に到達していないからだ』 意味深な言葉を残して、イシュメルは消えた。 (真実?) ルナはその日、また夢を見た。 遊園地で、こぐまの鳥かごを持って、大ぐまに追いかけられる夢を。 ルナはこぐまの鳥かごを持って、必死に逃げる。 大ぐまが、ルナを捕まえようと迫ってくる。 『さあ、わたしの息子をかえせ!』 ルナは、ふたたび飛び起きた。 「……ママ? どうしました?」 ダニエルまで起こしてしまった。ルナは今夜、ダニエルの、はにかみながらのおねだりに負けて、一緒のベッドで眠っていた。 時刻は、深夜をまわったばかりだ。 ルナは、「なんでもないよ」と言ってダニエルを寝かしつけ――そして、決意した。 もう、迷うのは、やめた。 納得はいかずとも、ダニエルが元気になったのは事実だ。 どんなに考えようが、分からなかろうが、ダニエルが屋敷にいるのは、あとひとつきだけ。 (あたしにできることを、してみよう) ルナは翌日、ダニエルを連れて、真砂名神社に来た。 シャイン・システムから出たとたんに、目に飛び込んできた異文化に、ダニエルは目を輝かせてルナに聞いた。 「――ママ、ここは、なんです?」 言ってから、ダニエルはしまったという顔で、頬を赤らめた。昨夜も、ルナをそう呼んだばかりだ。 ダニエルは、ここ最近、ルナの顔を見ては「ママ!」と声をかけてしまい、赤面する事態がつづいていた。 ママと呼ばれたルナは、締まりのない顔で「えへ……」と笑うので、気分を害していないことはだれの目にもわかった。 「ルナをママと呼ぶのはかまわねえが、ルナをムスタファにやる気はねえぞ」 ふくれっ面のアズラエルを見て、ダニエルは笑った。笑顔も、ほんとうに明るくなってきたと思う。 絶望的な笑みしか見せなかった子どもが。 ピエトとネイシャも連れてきてあげたかったが、残念ながら、彼らは学校だ。 鳥居からまっすぐ――ひとけのない、広々とした大路を、「広いですね!」と両手を広げて駆けたダニエルは、真ん中あたりまで走って、もどってきた。そして、ルナとアズラエルの手を取って、飛び跳ねた。 「行きましょう! あっちの、川のほうへ行ってみたい!」 「あまりはしゃぐと、また熱を出すぞ」 アズラエルの苦笑にも気づかず、ダニエルが、団子の暖簾を指さして叫ぶ。 「あれは――あれは、なんですか! パパ!」 ダニエルがアズラエルをパパと呼んだのに、一瞬動揺したルナだったが――夢のシーンがよみがえって。 ルナをママと呼ぶのは目こぼしされても、パパは危ないのではないかと、ルナは思った。 (セルゲイの予言のとおりになってる……!) セルゲイは、予言などしたつもりは毛頭なかったが、近い状況にはなっているかもしれなかった。懐かれるのは嬉しいが、ダニエルが、ルナたちと一緒に暮らすのを気に入り、ムスタファのもとへは帰りたくないと言いだしたらどうしようと、ルナは一瞬、思った。 しかし、アズラエルは、「俺はパパじゃねえよ」といつもどおり言った。あいかわらず、子どもにも容赦のない男である。 ダニエルは、すこししゅんとした顔をしたが、 「おまえのパパは、ムスタファだ。わかるだろ」 アズラエルに抱き上げられて、こくりとうなずいた。 「おまえを世界一愛してるパパだ。ムスタファ以外をパパと呼んじゃァいけねえ」 「はい……」 ダニエルは、素直にうなずいた。でも、アズラエルとルナと、手をつなぐことは、あきらめなかった。 「ナキジンさん!」 「おおーっ! ルナちゃん!!」 相変わらず派手なおじいちゃんがそこにいた。まぶしいくらい、黄色の蛍光色に、青い星柄のTシャツを着ている。 「いったい、あのデザイン、どこで売ってるんだ……」 網膜がやられそうな色彩のTシャツを、アズラエルは五秒も見つめていられなかった。 ルナはこっそり、ナキジンに耳打ちした。 「(おじーちゃん、ダニエルは、この階段のぼっても、だいじょうぶ?)」 「ほ?」 言われたナキジンは、ダニエルをまじまじと見た。 「(ダニーはね、難病なの。原因不明の不治の病を持ってるの)」 ルナは、ダニエルが不治の病を抱えているので、よほど前世の罪も大きいのではないかと思ったのだった。 ナキジンがダメだと言ったら上がれないが、上がっても大丈夫なら、いっしょにこの階段を上がろうとした――この階段は、前世の罪が浄化される階段である。 ダニエルが上がり切ったら、もしかしたら、病気も治るのではないかと思って――。 |