百七十六話 かごの中の子ぐま W



 

 事態が急変したのは、翌日の夕方だった。

 いままでにないくらい狼狽したムスタファの電話を受け取ったのは、ルナだ。

 

 「――大変だ! 助けてくれ――ダニエルが!!」

 

 ルナたちがムスタファの屋敷に駆け付けると、息も絶え絶えのダニエルが、ベッドに横たわっていた。

顔は赤黒く、主治医も狼狽をかくせない顔だった。

 「高熱が、下がりません」

 「なんてことだ――ダニー! わたしのせいか!? わたしが、君たちの屋敷から連れ出したから……!」

 「落ち着いてください、親父さん」

 アズラエルがなだめた。

 「君たちの屋敷にいたときは元気だった――帰ってきたときも、そりゃあ別れの後だったから、さみしげだったが――だいじょうぶだったんだ。元気だったんだ! だのに、急になぜ――」

 「親父さん、」

 「だんなさま……」

 イーヴォとアズラエルにささえられ、隣室に席をうつしたムスタファは、両手で顔を覆った。――絶望に。

 

 「ダニーはわたしの、たいせつな跡取り息子だ……!」 

 ムスタファは涙した。

 「これは、わたしに課せられた罰なのか? 教えてくれ――」

 

 「ダニー、しっかりしろ」

 ピエトは、ダニエルの手に、お守りをにぎらせた。ピエトがルナからもらった、真月神社のお守りだ。

 「おまえにやるよ――だから、がんばって」

 ピエトのほうが、死にそうな顔をしていた。弟のピピの姿と重なるのだろう。

 「死なないで……ダニー!」

 ネイシャも、涙をこらえながら、ダニエルを元気づけるように、その熱い手をにぎった。

 

 いますぐにでも、ダニエルをルナたちの屋敷へ移動させたがるムスタファを、イーヴォと主治医は、苦心してなだめた。

今は熱が高すぎて、動かすことですらあやういと。

 とにかく、ダニエルの寝室は大パニックだったので、だれも気付かなかった。

 セルゲイが、ダニエルの枕元にある薬を、ほんのちょっぴり、持参の小瓶に移し替えたことを――。

 

 

 

 「ムスタファさんに、階段を上がってもらうってのはどう」

 帰りのリムジンの中で、ミシェルが提案した。

 「どうしてそうなった」

 アズラエルが呆れ声で言い、ミシェルは、「だって、ムスタファさん、わたしの罪か? っていってたじゃない」と言った。

 「おまえも混乱してるのは分かってる」

 俺も混乱しそうだ、とアズラエルは言った。

 ダニエルは、本当に健康体だったのだ。つい先日まで。

病気は治ったと、中央区の医者も、主治医も、口をそろえてそう言った。だのに、ムスタファの屋敷に帰った途端に高熱がぶりかえし――。

 「宇宙船を降りたくない気持ちがそうさせたとか」

 ミシェルはさらに言ったが、アズラエルは否定した。

 「そうかもしれねえが、それにしたって極端だろ」

 「そうだね。……今まで、どんなに熱は上がっても、」

 クラウドは言いかけ、なにかを考えるようにやめた。

 ダニエルは、血まで吐いたのだ。ムスタファが狼狽したのは、そのせいだ。今までだって、熱は高かったが、血まで吐いたことはなかった。顔色も、尋常ではなかった。青白いを越えて、熱のために、赤黒く染まっていた。

 「やっぱり、セルゲイせんせが最初に言ってたとおり、べつの病気がかくれていたのかなあ……」

 ミシェルは、嘆息した。

 「でも、病院の先生は治ったって――う〜ん――病気の正体が分からないから、難病なんだろうけど――」

 アズラエルは、帰るはずの人間がひとり足りないことに気づいて、クラウドに尋ねた。

 「なあおい? セルゲイはどこ行った?」

 「調べたいことがあるからって、病院に直行したよ。シャインで」

 

 

 

 ルナは、ムスタファに懇願されて、ダニエルの部屋に残っていた。ピエトとネイシャもだ。ダニエルのそばで、心配疲れで眠ってしまった二人の子どもの髪を撫でながら、ルナの心中は、焦りでいっぱいだった。

 (いったい、なんなの……なにが起こったの?)

 ルナも泣きそうだった。信じられないくらい、ダニエルの手が熱い。

 「水……みず……ママ、あつい、あついよ……」

 「だいじょうぶだよ、ママはここにいるよ」

 ルナは涙を拭きながら、ダニエルの手をにぎった。水を飲ませても、飲ませたそばから吐いてしまう。どうしようもなかった。

 ルナは、水を含んだ真綿で、ダニエルの唇を湿らせてやりながら、必死で願った。

 

 (うさこ――うさこ、ダニーを助けて!)

 

 ボーン、ボーン、と時計の音が鳴り響いた。ルナがはっとして周囲を見ると、壁に、アンティークのハト時計が飾られていた。時刻が午後九時を指している。ひびくほどではない――遠慮がちな低い音が、九回鳴った。

 

 「――あ」

 ルナは唐突に、ひらめいたのだった。

 

 あわてて、屋敷の電話を借りて、屋敷に電話をした。出たのはバーガスだった。

 「バーガスさん!」

 『お、おお、ルナちゃんか。ダニーの具合は……』

 「お願いします! リビングの古時計を、持ってきてください!」

 

 ムスタファの屋敷には、ミシェルが時計を持ってやってきた。イーヴォがそれを受け取り、不思議そうな顔で、ダニエルの部屋にいるルナに、それを手渡した。

 「いったい、この時計は、どうされますので?」

 「す、すみません。あの、だいじょうぶです……」

 ルナはよくわからない返答をした。頭のなかは、夢のことでいっぱいだった。

 

 (ノワ、セプテンおじいちゃん)

 ルナは膝の上に時計を抱えて、願った。

 (あの夢を、スローモーションにして)

 

 ルナは、眠った。ダニエルのそばで、時計を抱えて――。

 



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