百七十七話 リハビリ夢の中 Ⅺ ~リサとルナ~



 

――母さん、どうしたの。そのお金なんなの。

――いいのよ。だいじょうぶ、全部だいじょうぶだからね。大丈夫だからね、早く乗って。

 

母のせわしない声は、決して大丈夫には見えなかった。おかしな話。母はいつから赤い猫だったのだろう? あたしは? あたしはピンク色のうさぎ。学校の制服を着たピンクのうさぎ。

ああ、これはいつも映像で見る風景じゃない。映像を他人ごととして見ているより、リアルだ。生々しいほどに、感覚すら蘇ってくる“記憶”だ。

過去の夢にしては、一番リアルで、実感が伴っている。

――近いのだろうか? そうだ。きっとこの夢は、あたしが「ルナ」として生まれる、直前の前世の夢だ。

 

怖いほどに強張った顔の母は、無理やりあたしを車に乗せた。白い小さな車。母の車。コーヒーの缶が後ろに転がっていて、窓の結露を拭くための、どこかの会社のロゴが入った薄汚れたタオルが放ってある。汚い、中古車。

あたしは学校帰りで、雪が降っていた。ここはL79。

 

……覚えている。

 

母の、何十万円もするブランド物のバッグの中に見えるタオルハンカチが、あまりに生活臭を醸し出して、バッグにそぐわない。もっとそぐわないのは安っぽいビニールケースに入った、見たこともないたくさんのお金。この袋はいつも生活費を入れている袋。

 

なにがあったの。母さん、なにがあったの。

 

あたしと母さんは貧乏なはずだった。家賃三万の、お風呂もついていないアパート暮らしで、こんなお金、持っていないはず。

 

――母さん、どこ行くの。

――逃げなきゃダメなのよ!

 

母は鋭い声でそう言った。濃い化粧が、すっかり崩れている。

母は近所のスナックで働いていた。浮気で父から離縁されたくせに、懲りずに男と恋をしては別れた。母は金持ちの男が好きだった。一週間前に恋人になった男はずいぶん羽振りがいい男だと、やっとあたしにも春が来たのだと、母は大喜びだった。このブランド物のバッグもそいつにプレゼントされたものだ。彼とうまくいったらあんたを大学に行かせてやれるかもと、母は上機嫌で言っていたが、あたしは本気にしなかった。

でもあたし、母さんは好きだった。派手で綺麗で、自由な人だったから。あたしにも自由な生き方をしろと言い、面倒は見てくれるけど、決してあたしにああしろこうしろとは言わない人だった。全部あたしに決めさせてくれる人で、いつでも明るくて、友達のような母だった。

 

――母さん、このお金。

 

母さんの目には、涙がたまっていた。

 

――あんたの大学貯金、ぜんぶ下ろしてきたのよ。

 

悲壮に、彼女は言った。母があたしを大学に行かせようとしていたのは、本当だったのだ。

 

――ダメだった。あたし騙されちゃった。

 

アイラインが真っ黒に、涙の筋になって線を引いた。

 

――あの男、借金だらけだったの。

 

羽振りがいいと見せかけて、借金だらけだった。母は言った。

「あたしの職場にも借金取りが脅しに来て、あたしとあんたを、一生男を取らせてやるって、身体で稼げって、そう言われたの」

あのバカ野郎は逃げた。母はそう言って、ハンドルに顔を突っ伏して号泣する。

 

――ごめんね、ごめんね、ごめんね……。

 

母の、謝る声。タヌキみたいな顔をした、あの男を思い出した。

 

――あんたまで巻き込んでごめん。

 

あたしは、頭がまっしろになったまま、言った。

 

――じゃあ、逃げよう母さん。

 

そうしなくちゃならないと思った。あたしが運転できたなら代わってあげなきゃと思うくらい、母の両手は震えていた。雪が降っている。逃げる、どこへ。どこへ逃げたらいいの。

車がさびれた住宅街を進んで大通りに出る。街を出ないうちに、ガソリン切れのランプがついた。

 

――ガソリン入れなきゃ。

 

母は呟いた。――そこの角曲がって、すぐにガソリンスタンドがあったわよね。

 

あたしはうなずく。ガソリン入れなきゃ。満タンにしなきゃ。どこに逃げよう。おなかがすいた。雪が降ってる。今五時半だ。

母が角を曲がったとたんに、大きなトラックが突っ込んできた。ブレーキの音、ヘンに車が滑って向こうを向いて、ものすごい衝撃。

 

あたしと母さんは、トラックにぶつかって、車ごとぺしゃんこになった。

 

 



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