百七十九話 裏切られた探偵 Ⅱ



 

俺は、今度こそ、裏切らない。

だれを? ――自分自身をだ。

 

今度こそ、かならず助けてやるからな、先生。

 

 

「――夢、か」

目覚めたミシェルは、ひとつ息をついて、けだるい身体を起こした。

 夢を見た朝は、いつも身体がだるい。まるで、極寒の土地から、急にあたたかいところへ瞬間移動したような心持ちだ。夏など特にそうだが、冬の、冷え切った部屋で目覚めても、夢のなかの極寒より、ましだと思える。

 ミシェルは、生まれも育ちも、L5系の都会で、つねに気候が安定した土地で育った。そんな極端な寒さを経験したことはないはずだった。

 毎回ながら、どんな夢を見たのか、覚えていない。

 ミシェルはそれでいいと思った。こんな夢見の悪い起き方をする夢など、ロクな夢ではない。

 

 船内はもうすぐ10月。

 朝と夜は冷えてくる季節だ。

 ミシェルは、寒さに震えながら暖房のスイッチをつけ、ひやりとした床をつま先立ちで歩きながら、洗面所に向かった。洗面台の蛇口から出てくる、どうしようもないつめたい水に嘆息する。あたたかくなるまで数十秒かかる。

 都会で育ったミシェルは、常に空調も気温も安定したマンションで育ち、暮らしてきた。

 床も室内も、夏は涼しく、冬は暖かく、水道から出る蛇口は、湯を選択すれば、まちがいなく待たずに湯が出てきた。

 安物のスーツを着る人間は、よくよく目を凝らして人間性を確かめないと危険だと言われて育った。まさか、自分が、その安物のスーツを着て、それすらも買い替えられなくなるとは思ってもみなかった。

 

 父は弁護士、母は文化財保護関連のNPO理事、兄は大企業のCEOを一時、任されたこともある。妹は、公認会計士――。

 自身も、公認会計士として、一点の曇りもない人生を歩んでいくはずだった。

 育ちの良さは、折り紙つきだ。

 そのせいで、リサを「田舎者だ」と罵り、ケンカになったことは数知れない。

 そんなミシェルの輝かしい人生が急転落したのは、ホックリーが逮捕されてからだった。

 

 (……ホックリーさん)

 

 ミシェルはホックリーを恨んでいない。恨んでもいいはずだった。すくなくとも、家族や、まわりの同僚たちはそう言った。

ホックリーが警察で、一回でも口にした名前が、ミシェル。そのせいで、ミシェルにも嫌疑がかけられて、公認会計士の職を辞さなければならなくなった。

 けれども、ミシェルは彼を恨めなかった。それどころか、ぜったいに助け出してやらねばという気持ちさえある。

 

 (ホックリーさんがクロだとか、シロだとか、有罪とか無罪とか、どうでもいいんだ)

 ミシェルは、そりのこしがないか確かめるため、鏡を見た。

 (ホックリーさんを、牢屋から出して、安全な場所に移動させる)

 

ミシェルは苦笑した。

バカらしいのは自分でもわかっている。

まるで、愛する女を助け出すような必死さだ。

うつくしいどころか、相手は、馬みたいに顔の長い、優しいが流されやすい、冴えない爺さんだ。本人は、悪い人間とはいいがたいのに、巻き込まれて「牢屋」にいる。

 

 ――もう、冷たい水にも慣れた。

 湯に変わるまえに洗顔を済ませて、ひげをそる。

快適な空間でしか住めなかった自分が、ずいぶん変わったと思う。かつてバカにしていた人間とも付き合うようになり、洗練されていない女を、「運命の相手」と信じ切っている。

公認会計士として、巨大なビルから、都市を睥睨していた時代には考えられないことだった。

ひとの環境の適応のはやさに、多少驚いている自分がいる。

 

ホックリーが、リサだったら、良かったのに。

 

 (それならまだ、恋に狂った男ぐらいで、すんでいただろうか)

 リサは、ミシェルのそのままを認めてくれる。

 ミシェルは、リサと付き合ってから知った。

 いままで、自分にくっついてきた女は、すべて殻付きの自分を愛していたことを。

 地位と金と、名誉と権力の殻付き。

でも、悪くはなかったのだ。

 自分もそんな恋愛に酔っていた。

 恋愛が、友情が、偽物だったとは思わない。あの世界では、それが常識で、それですべて、安泰なのだ。

だが、殻付きの人種は、殻をなくしたとたんに、むき出しの身を恥じるか、恐れる。

 

 自分の家族でさえそうだった。

 それらの殻があるのが当然で、それらのひとつでもなくしたとき、自分の家族は、おそらくなくした者を見捨てるだろう。

 殻をふたたびつけて彼らの目の前に姿を現せば、おなじ生き物だと認める。

 

 むき出しの身は、彼らにとって恥ずべきもので、慈しむべきものではない。

 だがリサは、殻ではなく、その身を愛した。

 いつでもだ。

 それはミシェルにとってははじめての恋愛で、年下の彼女に、幾度無様な身をさらしたことか。

 そんな恋愛を経験してしまった以上、もどれなくなるのは当たり前だった。

 リサの恋は、いつでも、殻からミシェルの生身を引きずり出す。

 

よくルナたちが、動物の話をしている。ライオンだのうさぎだのネコだの――ミシェルは、自分も家族も、ZOOカードに出てくるなら、殻付き貝なのではないかと思った。

(もしかして、サザエとかカキとか――アサリはあんまりだな。せめてハマグリで)

バカらしいたとえに苦笑し、まだ冗談を考える余裕はあると、安心した。

 

ミシェルはロイドと同じく、家族から見捨てられた身だ。

父と妹は、あっさり、ミシェルを見放した。兄は、「好きにさせてやれ」と放逐した。

けれども、家族に迷惑がかからないように、戸籍を抜くことだけは強調した。

 しかしそれも、わかる気がする。

 ミシェルは、自分がやっていることも、常軌を逸しているとわかっている。

 家族の説得を聞かず、勝手にやってきたのはミシェルで、縁を切らなければ家族に迷惑がかかる。

 それはまぎれもない事実で、もっともだから、ミシェルは、戸籍から自分の名を抜いた。

 さすがに母は、ミシェルを簡単に見捨てることはしなかったが、病院に連れて行こうとした。

 

 母は言った。

 『ミシェル、あなたの先生は、もう、いないのよ』

 その言葉が、きっかけだった。ミシェルが家族と決別したのは。

 

 ホックリーは生きている。先生は、生きている。ホックリーは。

ホックリーは生きている。

 アリサ・J・ホックリーは生きている。

 

 (“アリサ”は、まだ生きてる)

 

 「……?」

 ミシェルは、一瞬胸に浮かんだ名前に違和を感じたが、すぐに忘れた。

 ミシェルのことで、家族が崩壊しなかっただけ救いだと思っている。

 

 わからない――ミシェルをここまで動かすものはなんなのか。

 いつのころからか、ミシェルは哲学的に理屈をつけて、自分を納得させるようになった。

 優しいホックリーを巻き込んだ、ファッツオーク社の悪党どもが悪い。

 優しい先生を見捨てられない、正義感のつよい俺。

 

 そんなもので、周囲も、自分も、納得もしなければ、理解もできないことをわかっているはずなのに。

おまけに、ミシェルは死ぬ気がしなかった。

いままでも、何度もマフィアに狙われ、それでも一命をとりとめてきた。ケガもしていない。そのことが、ミシェルに、いらぬ余裕を持たせているのだろうか。

 

ちがう――余裕などではなく。

マフィアのことより、自分の命より。

ミシェルには優先させるべきことがあった。

(先生を、助けなきゃ)

ミシェルの頭には、それしかない。

 

――ミシェルの時間は、百三十年前から、止まっているといってよかった。

 

 



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