ルナは、ふらふらと、部屋を出た。それからピエトを呼んで――廊下に、呆然とたたずんだ。混乱して、頭がおかしくなりそうなのに、なにも考えられない。 (うさこ、うさこ、うさこ……) ルナは呪文のように、月を眺める子ウサギを呼び続けていたが、応答はない。 (うさこ) ルナの様子がおかしいのはピエトにもわかった。ルナの背を見つめながら、「どうしたの?」と、若干、緊迫した調子で、ピエトが部屋に入ってくる。 ルナとアズラエルと、離れ離れになることに、かなり神経質なピエトだ。この、「短い」別れを、重く告げてはならない。 「ピエト」 アズラエルは、ピエトを膝に乗せ、一度だけ、抱きしめた。 「ピエト、俺は、宇宙船を降りなきゃいけなくなった」 「えっ――!?」 ピエトの目が、まん丸くなった。 「ウソだろ!? なんで……」 「いいか、よく聞け」 アズラエルはピエトを興奮させないように、背を撫でた。 「ミシェルの話は聞いてるだろう」 ピエトは、こくん、とうなずいた。 「俺は、ミシェルのボディガードをするために、宇宙船を降りなきゃいけねえ。おまえは、宇宙船に残って、ルナのそばにいるんだ」 「……」 ピエトもまた、ルナと同じように、こくりと息をのむ。 「俺は、今回は地球には行けねえが、宇宙船役員になるための最低航路までは到達した。ミシェルのボディガードの仕事が終わったら、L55でおまえらが帰ってくるのを待つ。だから、おまえはここに残れ」 「な、なんで」 ピエトは、やっとの思いで言った。 「おまえを連れて行ってもいいが、ミシェルはマフィアに狙われてる。俺と一緒にいるより、宇宙船のほうが安全だからだ」 「ちがうよ!」 ピエトは叫んだ。 「どうして、アズラエルは降りるの?」 ピエトはごまかされない。アズラエルが今言ったことも嘘ではないが、アズラエルの本当の気持ちを知りたがっている。アズラエルはひとつ嘆息し――やがて、言った。 「俺がルナのそばにいると、危険だからだ」 「……!」 アズラエルとピエトの話は、一時間にもおよんだかもしれない。とにかくルナは、あまりにショックが大きすぎて、時間の感覚がなかった。ルナは一時間ものあいだ、廊下に立ち尽くしていたことになる。 部屋から、ピエトが出て来た。彼は神妙な顔をしていたが、泣いてはいなかった。ずいぶん、困惑した顔をしている。 それどころか、ルナの手を取り、 「アズラエルは、ぜったいもどってくる。ルナのところへ。だから、安心して」 とまるで導きの子ウサギのようなことをいうものだから、ますます、ルナはなにも言えなくなった。 アズラエルが説得しなければならない相手は、ルナとピエトだけではなかった。この屋敷の者全員が、「アストロスの任務」に関わっているからだ。 アズラエルは、食事のあと、大広間に皆を集めて、降船の意志を告げた。 皆が皆、反対すると思いきや、反応はさまざまだった。 「しかたのねえことだ、それは、アズラエルのいうことも一理ある」 バーガスは言った。 「アズラエルはミシェルの任務を先に請け負った。アストロスの任務より先にだ。任務のでかい小さいは関係ねえよ。最初に請け負った任務をまっとうすべきだ」 メフラー商社の傭兵ならな、と付け加えて。 「それに、話に聞けば、L20からだいぶでかい軍勢が来てるって話で」 レオナも言った。 「メフラー商社とアダム・ファミリーの連中が呼ばれたのは、たぶん諜報のためだよ。どう考えても、このあいだアストロスで見つかったメルヴァ軍より、L20の軍が多い」 セシルも、レオナがもらった任務要綱の用紙を見つめて言った。 「マクハラン少将の大隊が、エリアE002にあって、アズサ中将の隊まで、地球行き宇宙船の警備の補強に入って――もう一個、でっかい大隊がアストロス向けて出港したって。これじゃ、どう考えてもメルヴァに勝ち目はないし、アズラエルひとりがいなくても、戦況に変わりはない――だいじょうぶなんじゃないかな?」 もしかしたら、「宇宙船の特殊部隊」の出番はなく、メルヴァはあっけなく逮捕されて終わりかもしれない。 それが、傭兵組の意見だった。 「……ペリドットさんは、なんて?」 思いのほか、アズラエルを労わるような口調で聞いたのは、セルゲイだった。 「俺がそうしたいと思うなら、そうしろって」 アズラエルが正直に言うと、すこし考えるそぶりを見せ、「不安かい?」と聞いた。 「……おまえは、不安じゃねえのか」 苦笑いしたアズラエルに、セルゲイは、アズラエルも予想外の言葉を口にした。 「わたしは、君を疑ったことは一度もないよ」 それが、ペリドットの言葉と同じだったために、アズラエルは一瞬、うろたえた。 「夜の神もそうだ。どちらかというと、君の身を案じてる」 心を――とセルゲイは、口の中でつぶやいた。セルゲイとおなじく、痛みの共有をしているのだろうグレンは、めずらしくなにも言わなかった。 「……アズラエル、ルナちゃんを、置いていくの?」 ルナの頭を抱きしめ、めずらしく、悲しげな顔で抗議をしたのはジュリだった。彼女の口調には、非難があった。だいじな話のときには、素っ頓狂なことを言って引っ掻き回さないように、気を付けていたジュリだったが、今日は我慢できないようだった。 「ジュリ」 レオナが、ジュリの肩を撫ぜながら、言った。 「永遠の離れ離れじゃない。今回の任務が終わったら、ルナちゃんとアズラエルは、L55で会える。何年もかかるんじゃない。来年の内には会えるんだよ? そんなに心配しなくていいんだよ」 「……」 エレナとカレンとの別れを経験したジュリには、ルナとアズラエルの別れが、ひどく沈鬱に感じられたのだ。 ルナはぼんやりと、ミシェルがリサを励ましたときの言葉と似ているな、と思った。 「俺は反対だ」 頑として反対したのは、クラウドと、ミシェルだった。 「言ったじゃないか、アズ――この世界に、君とルナちゃんふたりだけじゃない」 「クラウド、」 エーリヒが止めたが、クラウドは言い募った。 「俺たちがいる。アズラエルが不安に思うようなことが起こったときは、俺たちが止められるって――」 「そうだよ!」 ミシェルも力説した。 「いくらグレンひとりでだいじょうぶな作戦だからって――ダメだよ! これは、あたしの直感だけど――アズラエルは降りないほうがいい!」 グレンからもなにか言って! とミシェルはグレンの腕を引っ張ったが、彼は、鼻を鳴らして立った。 「負け犬は放っとけ」 「なんだと?」 アズラエルのこめかみに、ビシリ! と青筋が立った。グレンは容赦なく言い放つ。 「腹の底からビビってるヤツが残ったって、役立たずなだけだ。とっとと降りろ」 グレンの言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。アズラエルが殴り掛かったからだ。当然、グレンは応戦した。 「やめろバカ! メルヴァと戦うまえにつぶしあってどうする!」 バーガスとレオナ、エーリヒ、クラウドと四人がかりで猛獣のケンカを止めたが、アズラエルは、バーガスの腕を振り払うと、足音もあらあらしく、出ていった――屋敷をだ。 「アズ!」 クラウドの声が追ったが、アズラエルはドアが割れんばかりの音を立てて閉め、姿を消した。 彼は、降船の日まで、屋敷にもどってはこなかった。 |