シェハザールは、吹雪がやんだ数分のあいだ――銀と白の世界である山岳の頂から、はるか広がる平野を見渡した。

 真冬の装丁である山岳に比べ、広がる平野は――草もほとんどない荒地ではあったが、雪などなかった。荒地の果てに、ここほど高くない山脈が見え、その向こうが、ガクルックスの街並みである。

 左手には、広い海がひろがっている。ジュエルス海だ。

 あの海のアクルックス側に、古代都市クルクスがある。

 (すべてがはじまった、古代都市クルクスが)

 シェハザールは、知らず武者震いし、自分の舞台になるであろう、平野を見下ろした。

 あの平野が、三日後には、血に染まるだろう。

 武者震いなどではない。

 それを思うと、シェハザールは、あまりの罪深さに、手の震えを止められないのだった。

 だが彼は、なにがあろうと、メルヴァについていくと決めていた。

 どんな悪しきことも、彼の代わりに背負う。

 後世まで、消えることない悪名を残そうとも。

 

 「シェハ」

 シャトランジの装置がある洞穴の真ん前にたたずんでいたシェハザールは、ツァオの声に、大地を見下ろしていた顔を上げた。彼は木の椀に、湯気を立てるスープを。片手には、彼のゲンコツほどもある、丸パンをふたつ、持っていた。

 「いつもすまんな、ツァオ」

 「いや。水はまだ、あるか」

 「まだある」

 シェハザールは、スープとパンを受け取った。零下の気温に、スープの熱がまたたくまに奪われてゆく。シェハは急いで口にした。熱い汁が、臓腑に沁みわたる。

 

 アストロス軍と、L20の軍隊が、メルヴァたちの、謎の食糧調達ルートに、さまざまな論議をかわしているところだったが、メルヴァたちにはわけもないことだった。

 メルヴァとシェハザール、そして八騎士のひとりで、ゆいいつの女性であるピャリコは、テレポテーションがつかえる。アストロスの各地にあるスーパーや量販店の倉庫から、失敬して来ればすむ話であった。

 おまけに、調査隊が見た「大軍勢」というのは、ただの幻である。

 この山岳に、シェハザールをふくめて、たった15人しかいないことを知ったら、彼らはどうするのだろうか。怯えて、彼らを逮捕しにこなかったことを悔やむのだろうか。

 メルヴァに付き従い、南の都市サザンクロスで、現地民に紛れて暮らしている50人ほどの王宮護衛官たちと、宇宙船の操縦を学んでE353に待機している30人ほどの軍勢が、メルヴァ軍総勢だと知ったら、彼らは、歯がみどころの騒ぎではないはずだ。 

 たった100人ほどの軍隊に、何十万人単位の軍隊が、翻弄されていることになる。

 

 メルヴァは、原住民たちをことごとくL系惑星群へ置いてきた。

 大軍勢を従えようとするラグ・ヴァーダの武神を「あざむいた」。

 まずはアストロスから。

 少人数でアストロスを全滅せしめ、メルーヴァ姫をこの手に。

つぎにラグ・ヴァーダへ。

三千年前、ラグ・ヴァーダの武神が成し遂げられなかった制覇を成し遂げようと、煽ったのだ。

 そう説得し、最小限の人数で動いた。

 ――犠牲者を、増やさぬために。

 

 (あなたと――いうひとは)

 メルヴァは優しい。だれよりも優しく、ひとを傷つけることを嫌がる人間だった。

 なにも変わっていない。

 彼は、なにも。

 ラグ・ヴァーダの武神をその身に宿してすら、本質は、変わらない。

 

 食事を終えると、ふたたび風が強くなってきた。シェハザールはツァオとともに、洞穴内に入った。

 エタカ・リーナ山岳には、自然の洞穴がいくつもあり、風雨や雪がしのげないというわけではない。だが、食糧はまったく期待できない。動物もいなければ、木の実もないし、山菜と呼べるべき草もない。

 ひとが入りたがらないのは当然だった。

 

 二人の目の前には、シャトランジの装置がある。

 シェハザールの腰ほどの高さの、円柱型の宝石である。巨大な宝石を、そのままくりぬいて作られた形だった。いったい、何の鉱石でできているかは知らない――まるで宇宙を思わせるかのような、群青色の石柱だった。

 星々がきらめくかのごとく、気泡がちりばめられ、夜、月の光が洞穴に差し込んだときなどは、魂を奪われるほどのうつくしさを表した。

 おなじ石でできた座席が、円柱の後ろにある。

 ツァオは、この石柱に、不吉な美しさを感じると言った。彼は、ここに来てから、一度もこの石にはさわらない。怯えているのだ。まるで、ひとの命を吸い取って、かがやいているようだと。

 ツァオだけではない。ほかの皆も、この洞穴へはあまり、近寄りたがらなかった。

シェハザールにも、彼らの気持ちはわかった。

 

 円柱の台には、星守りをはめ込む穴があって、八つの穴には、星守りがすべてはめ込まれていた。

ユハラムに送らせた玉をはめ込むまえから、すでに夜の神の玉である黒い星守りが一個、入っていた。最初からはいっていた黒い玉が「シャー(王)」の玉、つまりシェハザールの玉だ。

のこりの七つの穴に星守りをはめ込むと、真砂名の神の玉がひとつあまった。

 

それは、メルヴァが持っていった。

「わたしが“ジャマル(ラクダ)”となる」といって。

 

シェハザールも、これが、むかし文献で読んだ、名の通りのペルシャのチェス「シャトランジ」ではないことは、わかっていた。

地球時代のしろものではない。

穴があるのは、「ルフ(戦車)」がふたつ、「ファラス(馬)」がふたつ、「フィール(象)」がふたつ、「シャー(王)」と「フィルズ(将軍)」がひとつずつ。

 

「シャー(王)」にして、「アリーヤ(棋士)」がシェハザール。

「フィルズ(将軍)」がツァオ。

「ルフ(戦車)」がラフラン。

「ファラス(馬)」がジリカとピャリコ。

「フィール(象)」がボラとペリポ。

 

「ルフ(戦車)」となるべき人材が、ひとり足りないが、エミールをのぞく「メルヴァの八騎士」と呼ばれる人材が、ことごとくそろっていた。

「ハイダク(歩兵)」8基には、ほかの王宮護衛官がおさまっている。

合計15人。山中にいる人数だ。

このシャトランジの起動のために。

 

(ハイダクは、星守りはいらんのか……)

ハイダク(歩兵)のために、星守りを埋める穴はない。

 シェハザールは、この石柱の仕組みをこの数ヶ月、調べてきたが、まったく理解できなかった。占術に詳しいピャリコも、どう構築されているのか、さっぱりわからないと言った。

 千年前のサルディオーネがつくったものとはいえ、文献にもほとんど出ていない「いまわしき占術」。

 

 (幻のサルディオーネよ……)

 彼の名すら、のこっていない。

 (いったいなぜ、こんな恐るべきものをおつくりになったのか……)

 

 ツァオは、石柱から目をそらしつつ、言った。

 「いつも思っていたが、このシャトランジというゲームには、対局者がおらんな」

 ふつうなら、盤の向こうには、対局者がいるはずである。これがシャトランジだというのなら――。

だが、この洞穴にしか、装置はなかった。北のエタカ・リーナ山岳にこれがあるのだから、南のサザンクロスにもあるかもしれないと探したが、結局見つからない。

 

 「おそらく、地球行き宇宙船内にあるのではないか」

 シェハザールは、そうつぶやいた。

 「わたしの対局者は、決まっている。――“賢者の黒いタカ”だ」

 シェハザールは、まるでひとりごとのように、むかし話をした。幼いころからともにあったツァオも、聞いたことがない話だった。

 



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