「昔のことだ。そうだな――二十年も前になるか。わたしが10にもならんころだ」

 

 その日、6歳のシェハザールは、王宮にいた。

 幼いころから、神童の誉れ高かったシェハザールは、10歳にも満たない子どもでありながら、王宮への出入りが自由だった。家が上級貴族だったこともあり、――目こぼしされていたかもしれない。

 だが、ふつうは、貴族の子どもと言えど、出入りできない王宮に、自由に入ることが許されていた――それだけでも、シェハザールが特別な子供だったということが伺える。

 

 その日、シェハザールは、分厚い文献を抱えて王宮を走り回っていた。水盆の占いをするサルディオーネを捜していたのである。

 彼女は、子供好きなので、シェハザールに親切だったし、いつも彼の疑問を解き明かしてくれた。今日も、書物の中にわからない言葉があったので、シェハザールは王宮まで赴いたのである。

 広い回廊に、サルディオーネはいた。だが、ひとりではなかった。彼女は、ひとりの若い軍人と相対していた。

 当時は、L03とL18の仲は、目に見えて険悪ではなかった。王宮内に、L18の軍人がいることは、そうめずらしいことではない。だが、シェハザールは、その日はじめて、軍事惑星の軍人というものを見た。

 

 「そなた、毎日がつまらぬであろう」

 軍人は、サルディオーネにどうやら、呼び止められたらしかった。

 ひと気もない広い回廊では、サルディオーネの声は、離れたシェハザールのもとまで届いた。

 「そなたには、すべての者が愚か者に見える。皆が阿呆で、理不尽で、無駄足を踏んでいるように見える――だが、そなたは、世界がそのようなものでできていることも、知っている」

 軍人は驚くほど無表情で、サルディオーネの話を聞いていた。だが、立ち去らないのは、彼女の言葉に興味を覚えているからだということは、シェハザールにもわかった。

 「そなたのつまらぬ日々は、ずっと続く――今世生きておるかぎり。だが、いつか、地球行き宇宙船に乗ったときだけ、そなたの日々が色彩あふれたものになるだろう」

 

 「地球行き宇宙船」

 はじめて軍人が喋った。おどろくほど、クセのない共通語だった。

 「そなたの英知で、どうにもならなくなったときに、その道がひらかれる」

 ますます、軍人は興味をしめしたようだった。無表情のまなこに、爛々と、かがやきが灯っている。

 「わたしの英知で、どうにもならないときが、来るというのかね?」

 それはまるで、そのことが信じられないとでもいわんばかりの言葉だった。つまり彼は、彼の中で、解決しえないことなどいっさいなかったわけである。

 

 「そうだ。地球行き宇宙船には、そなたがゆいいつ、かなわない人間がいる」

 「なるほど。奇跡を起こす宇宙船かね――可能性も、なくはない」

「おどろくほどちっぽけな、ピンクの、子ウサギがな」

 「ピンクの子ウサギかね!」

 軍人は驚きに声をおおきくしたが、表情は変わらなかった。

 「そう――その子ウサギが、そなたに、あたらしい世界を見せてくれるだろう」

 

 軍人は、シェハザールもおどろくほど真剣に聞き、やがてサルディオーネの手を取った。そば仕えの者が慌てふためいたが、サルディオーネが制した。

 「ありがとう。うるわしき貴女に、祝福を」

 あろうことか、その軍人は、サルディオーネのしわがれた手の甲に口づけさえした。

 

 「ババ様!」

 軍人が去って行ったあと、シェハザールがサルディオーネに駆け寄ると、彼女は嬉しそうにしていた。

 「一生結婚もできぬ身。わかい男に口づけられるなど、何十年ぶりかのう」

 「ばばさま、嬉しいの?」

 「おうよ。嬉しいともさ、シェハ。さまざま禁じられた身じゃが、真砂名の神も、これくらいは大目に見てくれるじゃろうて」

 シェハザールは、回廊の向こうに去っていく軍人の背を見つめた。

 「おまえも同じよ、シェハ」

 「え?」

 「でもそなたは、あやつほど、退屈を持て余すことはないじゃろう――メルヴァがおるゆえな」

 「はい! ばばさま、わたしは、メルヴァ様を一生お守りいたします!」

 サルディオーネはシェハの頭を撫でながら言った。

 「“忠誠を誓う青ウサギ”よ。そなたの真名は賢者。よくおぼえておけ、賢者など、めったにおるものではない」

 「けんじゃ?」

 「だが、哀れなことに、そなたは忠義高き人間として生まれかわった。そのたぐいまれなる英知は、そなたの本望とは、ちがうところにつかわれるであろう」

 「……ばばさま?」

 シェハザールには、意味がわからなかった。彼女の憂い顔の意味も。

 「賢者と賢者。いつかそなたと、あやつは、どこかで対決することになる」

 

 

 

 「ばば様が、そうおっしゃられたのか……!」

 ツァオは初耳だ、と唸った。

 「そうだ。だれにも言ったことはなかった。メルヴァ様にも」

 

 あの軍人は、黒い軍服だった。

 彼が、L18の心理作戦部隊長、エーリヒ・F・ゲルハルトだと、シェハザールが気づいたのはいつだったか。

 

 ツァオは、寒さのためか、興奮のためか、よくわからない震えを身にまとい、声高に言った。

 「ルフ(戦車)の駒になるべき、最後のひとりは、まだ分からんのか」

 「うむ……」

 シェハザールは、石板を見つめながら思案しつつ、つぶやいた。

「いざとなったら、エミールを、メルヴァ様のもとから呼ぼう」

 

メルヴァは、「いずれ現れるからだいじょうぶだ」と言ったが、どう考えても、八騎士でかためるのがふさわしいのではないか――と、ツァオも思っていた。

だが、エミールは八騎士のなかでも、メルヴァへの心酔度合いが高い。それはもはや、盲目的ともいえた。幼い頃からメルヴァとともに暮らしてきたシェハやツァオとは、ちがった形の盲愛だ。

彼はラフランと同じく、平民出でありながら、王宮護衛官に抜擢された経歴の持ち主。

メルヴァの口添えによって、だ。

メルヴァがいなければ、飢え死んでいたであろう彼らは、その若さもあって、メルヴァを盲信していた。

エミールは、とくに、メルヴァの影武者をつとめ、L18に逮捕されてから拷問にも耐え抜き、さらにその後、メルヴァに助け出されてからは、ますますメルヴァから離れなくなった。

なにがあってもこの身を持ってメルヴァ様をお守りすると、毎日言い続けているエミールは、メルヴァ隊を動かない。

 

「ハイダクの中に、ふさわしい武人はおらんか――」

言いかけ、ひとの気配を感じて、ツァオは口をつぐんだ。

 

 ザク、とかたい雪を踏みしめる音がした。

 シェハザールは、瞬時に悟った。

 

 ――ああ、最後の、「戦車(ルフ)」が来た。

 



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