バーダン・シティの十八番街、あまり裕福ではない層が暮らす街に、ライアンたちは潜んでいた。ベンは彼らが居住する、はす向かいのアパートに仮宿を設け、彼らの様子を探った。 ベンの任務は、アンダー・カバーの暗殺から、グレンを守ることである。 グレンになにごともなく、アンダー・カバーに変わった動きのない状態で、地球行き宇宙船がアストロスを出航するまで、ベンは彼らを見張り続けなければならない。 (さて、このメルヴァとの戦いの厳戒態勢のなかで、ヤツらはどう動くのか) アンダー・カバーのメンバー三人は、これといって、代わり映えのしない日々を過ごしていた。 ライアンは、バスに乗って、五つ目の停留所で降りたところにある、青果市場へ毎朝働きに出て、午後三時あたりにはもどってくる。メリーは、同じ街のベーカリーで、販売員のバイトを、午後から夜遅くまでやっていた。 休日ともなると、車いすのルパートを散歩に連れ出したり、スーパーへ日用品を買いに行く姿が見られた。 ごくたまに、ライアンが近所の酒場へ飲みにいったりする以外は、ほとんど外出のない地味な暮らしだ。 調査をはじめて、二週間が経過した。そろそろ地球行き宇宙船がアストロスに到着するころだと、ベンがカレンダーを確認した朝、彼らの動きに、ついに変化が見られた。 ライアンとメリーは、陽が上がり切らない霧たちこめる早朝、ふたりでアパートを出た。ふたりのバイトのシフトは、てんでバラバラであり、ふたりがそろって外出するということは、まずなかった。 不審に感じたベンは、後を追うことにした。 ベンはアパートを出て、ふたりが消えたほうへ向かう。 (霧が濃いな……) 見失いそうだった。だが、一定の距離を保たなければならない。早朝過ぎて、道路にひと気はまったくない。ベンは、銃を構えたまま、ふたりを追った。 ライアンとメリーは、小路から小路へ、足早に移動する。 (しまった) 入り組んだ小路で、ベンはふたりを見失った。このあたりの小路は、迷わないように、アジトを発見した時点で道順を覚えていたはずだった。さっき曲がったとき、逆の方向へ来てしまったか――。そう思ったベンが、もどろうと踵を返したとき、めのまえにライアンがいた。 はっとしたときは、すでに遅かった。 ベンは、衝撃を感じた。後ろにはメリーがいる。ベンは、遠くなる意識の中で、自分の失策を悟った。 「すみません、忙しいところ」 「いやいや、だいじょうぶ。それより、ピエトが、アズラエルを迎えに行ったって?」 セルゲイとアントニオは、K19区の遊園地にある、「シャトランジ!」のアトラクションまえにいた。 任務のために東奔西走しているアントニオを、ここに呼びつけたのは、セルゲイだった。 真夜中――宇宙には、巨大な群青色のうつくしい宝石が輝いている。 あの星に、明日の朝、降り立つのだ。 「そうなんです。ほんとうに帰ってきてくれるかはわからないけど、……ルナちゃんがね」 「……」 セルゲイがつらそうにうつむいた。セルゲイにとってつらいのは、ルナの泣く姿が痛々しいという想いなのか、もはや、自分では、ルナを癒せないと思っているからなのか。 「そうじゃないんですよ」 セルゲイは、アントニオがなにも言っていないのに、首を振った。 「今日呼んだのは、ルナちゃんのことじゃなくて。……そのことにも関係があるかもしれないんですが、作戦を変えたほうがいいかもしれないって、提案です」 「え?」 アントニオは、目を丸くした。 「こんなギリギリで、なに言ってるんだと思うかもしれませんが」 「い、いや――もしかして、夜の神がなにか?」 セルゲイは、ちいさくうなずいた。 「じつは、ほんとに、さっきのことなんです。俺は、夜の神に、ここまで招かれて――アントニオさんが、船内にいてよかった」 アストロスに彼がいたら、この話はできなかったかもしれない。 「作戦っていっても、全体的なものじゃなくて、俺とアントニオさんと、カザマさんの立ち位置です」 「どういうことです?」 セルゲイは、胸に手を当てた。このことを言おうか言うまいか、すこしためらいを見せてから、彼は、言った。 「このあいだ、アズラエルが『宇宙船を降りる』といったときに、ぜんぶ分かったんです。ここが。――ああ、ほんとに、終わったんだなって」 「……」 「俺の中には――夜の神の想いには、アズラエルを恨む気持ちも、グレンを憎む気持ちも、なにひとつない。あのとき、俺の中にあったのは、むしろ――アズラエルがかわいそうで――抱きしめてあげたい気持ちだけだった」 「……しなかったでしょうね?」 「してたら、いろいろこじれてたでしょうね」 ふたりは、嘆息した。さまざまな意味を込めて。 「……ルナちゃんへの想いも、なんだか逆に吹っ切れたんです。俺だけじゃない、グレンもだ」 グレンは、ルナに拒絶されたことを、傷ついてはいなかった。グレン自身も、それが不思議だと、セルゲイに語った。 そこにあったのは、あまりにも不思議で、複雑で、彩り豊かな想いの結集だった。 想いが、掻き消えていったわけではない。塗り替えられたといったほうが、正しいかもしれなかった。 『しょうがねえなあ。今は、アズラエルに譲ってやる』 グレンの言葉には、負け惜しみも、つよがりも、なにもなかった。 本当にそう思っているのだ。 彼が――アズラエルだけが。 この繰り返しの生のあいだ、ルナとしあわせな「結末」を経験していないから。 「とにかくまあ――なにを言いたいのかというと、終わったって、ことなんです」 セルゲイは、うまく説明できなくて困っているようだったが、苦笑しつつ言った。 「だから、たぶん、夜の神は“暴走”しない」 「――!」 セルゲイの言わんとすることを、アントニオは受け取った。 「月の女神を奪いに来るラグ・ヴァーダの武神に対して、荒れ狂ったりはしない」 「それはつまり――」 アントニオは、やっと言った。 「俺とミーちゃんが、夜の神をおさえる必要はなくなったと。そういうことですか?」 「はい」 セルゲイはうなずいた。 最初の計画では、メルーヴァ姫を、ラグ・ヴァーダの武神から、そして、「シャトランジ」の脅威からクルクスを守るために、夜の神の力を発動させる計画になっていた。 だが、妹神をうばいにくるラグ・ヴァーダの武神に対して、怒りのあまり、夜の神の力が暴走しかねない危険があった。夜の神は、一度世界を滅亡させたこともある神である。 このあいだの、白ネズミの女王の一件にしても、妹神がかかわると、夜の神は大暴走する危険性があるのは、たしかだった。 その危険がなくなった、とセルゲイは言っているのだ。 夜の神みずから、そう言った。 ほんとうは、夜の神がその絶大なる力を持って、ラグ・ヴァーダの武神を滅ぼしてもよい。じつをいうと、ラグ・ヴァーダの武神などは、夜の神、太陽の神の敵にもなりはしない。 だが、それだけの力が発動されると、アストロスが壊滅する。 アストロスの武神も同様である。 アストロスを、アストロスの兄弟神と、ラグ・ヴァーダの武神が戦い続けるリングにしてはならない。 三千年前の戦いを、そっくりそのまま再現すれば、これもまた、破滅の危機だ。 それゆえに、神の力を配慮した、ふくざつな計画を立てたのだ。 アストロスが破壊されないよう、太陽の神と真昼の神の力で、夜の神をおさえる計画になっていた。 「では――おさえなくてもいいとなれば――」 アントニオは思案したが、セルゲイは言った。 「ですが、夜の神は、計画は、最初の計画通りに進めたほうがいいと言いました」 「計画は?」 「ええ。でも、夜の神をおさえる必要はない、と」 「……」 「太陽の神の発動と、真昼の神の発動は必要だそうです」 セルゲイは、「見てください」といって、ふたりで、「シャトランジ!」のアトラクション内に入った。 アントニオは、真向かいの壁面一面に映し出された画像に目を見張った。 「これは――!」 「驚いたでしょう、俺もです」 |