百八十六話 鍵 Ⅲ



 

「く、は……っ!」

クラウドは、今朝からなにも食べていなくてよかったと思った。胃液だけが逆流し、喉を焼いた。

点滅している画面は、無情にも、まだ三分の二以上あることを知らせている。

頭が割れそうに痛い。クラウドは用意していた頭痛薬と、脳を休ませる薬と、活性化させる薬を同時に飲んだ。

「クラウド、なにかわたしにできることはあるかね?」

エーリヒは今のところ、まったくもって役立たずだった。エーリヒに支えられて、クラウドは椅子にもどった。

「たすかったよ、君がいてくれて――水を持ってきてくれ、頼む」

「承知した」

エーリヒはすぐさま、部屋を出た

(がんばれ――あと、すこしだ――)

 

クラウドは自分に言い聞かせて、画面をにらんだ。そのとたん、ぐらりと視界が揺れた。

床に血の滴が落ち、それが自分の鼻から出た血だと気付いたときには――クラウドの視界は逆転していた。

彼は椅子から転げ落ち、天井を見上げていた。

(ちくしょう――!)

クラウドは、白目をむいたまま、意識を失った。

 

(――クラウド!)

マリアンヌは、エタカ・リーナ山岳の風雪にさらされながら、クラウドの祈りを聞いていた。そして、――彼がついに、倒れてしまったことにも涙を流しながら。

(クラウドお願い! がんばって――どうか、)

マリアンヌは、出ない声をふりしぼり、ZOOカードを起動した。

 

「“ディフェンサ”(防御)――“フトゥロ”(未来)――“ブエナ・スエルテ”(幸運)」

ラグ・ヴァーダの武神から身を守る、ありったけの呪文を唱えた。

「“クリシス”(危機)――“生き字引のライオン”」

マリアンヌの術を邪魔するかのように、ラグ・ヴァーダの武神の黒いもやが、次々と襲いかかってくる。だが、マリアンヌを守る虹色の光が、それを弾いた。

「クラウド・A・ヴァンスハイト――リカバリ、“オリヘン(原初)”――“生き字引のライオン”!」

銀色の閃光が、マリアンヌのZOOカードから、地球行き宇宙船めがけて、ほとばしった。

 

 

 

クラウドは、はっと飛び起きた。彼の名を呼んでいたのは、エーリヒだ。

「だいじょうぶかね、クラウド!」

(――エーリヒじゃない)

たしかに、いま、クラウドの名を呼んでいたのはマリアンヌだった。

 

「血が、止まってる……」

クラウドは、鼻に手をやった。血は止まっていた。

頭痛がない。弾けそうだった頭の痛みが、すっかりなくなっている。

不思議だった。

もう「容量がない」状態だった脳のスペースが、無限大にひろがった気がした。いままで、地球クラスの容量だったものが、銀河系くらいのスペースに拡大されたように。

 

「――これなら、入る」

脳内の広大な銀河系図書館のなかに、マリアンヌの日記は、書籍一冊にも満たない。

「もうだいじょうぶなのかね!?」

エーリヒの言葉も聞こえず、クラウドは、画面にかじりつくように椅子に座り、再生キーを押した。

 

クラウドは、生まれ変わったように、頭を押さえてうずくまることもなく、鼻血を出すこともなく、画面を見続けた。

すさまじいスピードで流れる文章を見ていたエーリヒのほうがくらりときて、頭を振って頭痛薬を飲むしまつだった。

クラウドはもはや、一時停止のパスはつかわなかった。

文章はあっというまに流れては消えていく――クラウドの脳内に、彼の眼球を通じて、データの移送が行われていた。

そして、最後から、二番目の話に突入したとき、クラウドの表情が変わった。

 

彼はここで、最後の、一時停止キーを押した。

停止されたので、その画面は、エーリヒも見ることができた。

 

童話の一話一話に、マリアンヌが描いた絵の表紙がある。

最後から二番目のこの表紙は、いままでで一番、登場人物が多かった。

ライオンにトラ、ネコにウサギ、犬たちが、軍服を着て、校舎のまえで記念写真を撮っている絵だった。

そして、その校舎の門には、はっきりと、「アカラ第一軍事教練学校」の文字が。

 

「これは」

エーリヒが、つぶやいた。

「これは、アカラの、」

 

「――そういうこと、だったのか」

 

クラウドは、ようやく理解した。

滅びの予言などは、やはり、一文たりとも日記にはなかった。けれども、クラウドが見たものは、たしかに――ドーソンの滅びを確定させるものだった。

マリアンヌが見せたかったのは、おそらく、この最後から二番目の童話だったのだ。

――「第二次バブロスカ革命」の童話。

(長かったな)

あまりにも長く、壮大な物語だった。――しかし、一瞬であったような気も、した。

 

クラウドは、ふたたび再生した。

 読み進めるうち、頬を涙がつたっていくのを、クラウドは止めることはできなかった。

 そこには、かつてのクラウドの存在もあった。いまと同じ名前を持ち、いま、そばにいる仲間とともに、生きた記録が。

 

(終わった)

 

ディスクは最後まで再生された。

クラウドが最後に読んだ話は、先日ルナが夢に見た、リサが母親だったとき、タヌキのような詐欺師に騙され、逃げる途中で事故にあって死んだ、という内容だった。

ディスクの再生が終わり、画面はプツリと、かすかな音を立てて切れた。

 

「終わったのかね」

エーリヒの目も、充血していた。ふたりは、ほとんど丸二日、寝ていない。

「エーリヒ」

クラウドは、流れ落ちる涙を止めることもなく、言った。

「ユージィンにすべてを告げるまえに、しなきゃならないことがある」

「なにかね?」

「グレンを呼ばなきゃ」

 

 



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