「く、は……っ!」 クラウドは、今朝からなにも食べていなくてよかったと思った。胃液だけが逆流し、喉を焼いた。 点滅している画面は、無情にも、まだ三分の二以上あることを知らせている。 頭が割れそうに痛い。クラウドは用意していた頭痛薬と、脳を休ませる薬と、活性化させる薬を同時に飲んだ。 「クラウド、なにかわたしにできることはあるかね?」 エーリヒは今のところ、まったくもって役立たずだった。エーリヒに支えられて、クラウドは椅子にもどった。 「たすかったよ、君がいてくれて――水を持ってきてくれ、頼む」 「承知した」 エーリヒはすぐさま、部屋を出た (がんばれ――あと、すこしだ――) クラウドは自分に言い聞かせて、画面をにらんだ。そのとたん、ぐらりと視界が揺れた。 床に血の滴が落ち、それが自分の鼻から出た血だと気付いたときには――クラウドの視界は逆転していた。 彼は椅子から転げ落ち、天井を見上げていた。 (ちくしょう――!) クラウドは、白目をむいたまま、意識を失った。 (――クラウド!) マリアンヌは、エタカ・リーナ山岳の風雪にさらされながら、クラウドの祈りを聞いていた。そして、――彼がついに、倒れてしまったことにも涙を流しながら。 (クラウドお願い! がんばって――どうか、) マリアンヌは、出ない声をふりしぼり、ZOOカードを起動した。 「“ディフェンサ”(防御)――“フトゥロ”(未来)――“ブエナ・スエルテ”(幸運)」 ラグ・ヴァーダの武神から身を守る、ありったけの呪文を唱えた。 「“クリシス”(危機)――“生き字引のライオン”」 マリアンヌの術を邪魔するかのように、ラグ・ヴァーダの武神の黒いもやが、次々と襲いかかってくる。だが、マリアンヌを守る虹色の光が、それを弾いた。 「クラウド・A・ヴァンスハイト――リカバリ、“オリヘン(原初)”――“生き字引のライオン”!」 銀色の閃光が、マリアンヌのZOOカードから、地球行き宇宙船めがけて、ほとばしった。 クラウドは、はっと飛び起きた。彼の名を呼んでいたのは、エーリヒだ。 「だいじょうぶかね、クラウド!」 (――エーリヒじゃない) たしかに、いま、クラウドの名を呼んでいたのはマリアンヌだった。 「血が、止まってる……」 クラウドは、鼻に手をやった。血は止まっていた。 頭痛がない。弾けそうだった頭の痛みが、すっかりなくなっている。 不思議だった。 もう「容量がない」状態だった脳のスペースが、無限大にひろがった気がした。いままで、地球クラスの容量だったものが、銀河系くらいのスペースに拡大されたように。 「――これなら、入る」 脳内の広大な銀河系図書館のなかに、マリアンヌの日記は、書籍一冊にも満たない。 「もうだいじょうぶなのかね!?」 エーリヒの言葉も聞こえず、クラウドは、画面にかじりつくように椅子に座り、再生キーを押した。 クラウドは、生まれ変わったように、頭を押さえてうずくまることもなく、鼻血を出すこともなく、画面を見続けた。 すさまじいスピードで流れる文章を見ていたエーリヒのほうがくらりときて、頭を振って頭痛薬を飲むしまつだった。 クラウドはもはや、一時停止のパスはつかわなかった。 文章はあっというまに流れては消えていく――クラウドの脳内に、彼の眼球を通じて、データの移送が行われていた。 そして、最後から、二番目の話に突入したとき、クラウドの表情が変わった。 彼はここで、最後の、一時停止キーを押した。 停止されたので、その画面は、エーリヒも見ることができた。 童話の一話一話に、マリアンヌが描いた絵の表紙がある。 最後から二番目のこの表紙は、いままでで一番、登場人物が多かった。 ライオンにトラ、ネコにウサギ、犬たちが、軍服を着て、校舎のまえで記念写真を撮っている絵だった。 そして、その校舎の門には、はっきりと、「アカラ第一軍事教練学校」の文字が。 「これは」 エーリヒが、つぶやいた。 「これは、アカラの、」 「――そういうこと、だったのか」 クラウドは、ようやく理解した。 滅びの予言などは、やはり、一文たりとも日記にはなかった。けれども、クラウドが見たものは、たしかに――ドーソンの滅びを確定させるものだった。 マリアンヌが見せたかったのは、おそらく、この最後から二番目の童話だったのだ。 ――「第二次バブロスカ革命」の童話。 (長かったな) あまりにも長く、壮大な物語だった。――しかし、一瞬であったような気も、した。 クラウドは、ふたたび再生した。 読み進めるうち、頬を涙がつたっていくのを、クラウドは止めることはできなかった。 そこには、かつてのクラウドの存在もあった。いまと同じ名前を持ち、いま、そばにいる仲間とともに、生きた記録が。 (終わった) ディスクは最後まで再生された。 クラウドが最後に読んだ話は、先日ルナが夢に見た、リサが母親だったとき、タヌキのような詐欺師に騙され、逃げる途中で事故にあって死んだ、という内容だった。 ディスクの再生が終わり、画面はプツリと、かすかな音を立てて切れた。 「終わったのかね」 エーリヒの目も、充血していた。ふたりは、ほとんど丸二日、寝ていない。 「エーリヒ」 クラウドは、流れ落ちる涙を止めることもなく、言った。 「ユージィンにすべてを告げるまえに、しなきゃならないことがある」 「なにかね?」 「グレンを呼ばなきゃ」 |