ルナがテントから出たのは、午前五時半――霧が濃かった。 だまって立っていると、凍えそうな寒さだった。ルナは手袋をした手をポケットにつっこみ、足踏みをした。 潮のかおりがする。ここからは見えないが、もう少し歩けば、海が見えてくるはずだ。 ――ジュエルス海が。 荷物を整理したカザマが、テントから出てきて、ルナの肩に手を置いた。 「なつかしい――気がしませんか」 「します」 ルナは、うなずいた。 アストロスに降り立ってから、ずっと、そんな感じがしていた。 かつてルナは、メルーヴァ姫として、この星で暮らしていた。 地球から来た神と呼ばれたアントニオ――当時は、地球外に居住区を見つけようとしていた、天文学者だった彼と、この星の女王だったカザマの娘として。 兄弟神と呼ばれたアスラーエルとアルグレンは、幼馴染みだった。 メルーヴァ姫の記憶なのだろうか。 三千年前とは、あまりにも様変わりしている風景のはずなのに、この大気が、空気が、ルナに、郷愁を思い起こさせる。 昨夜、ついに第二次バブロスカ革命のリハビリが為された。 (うさこは、最後のリハビリだって言ってた) 第二次バブロスカ革命の時代は、ルナの前世で、新しい方から数えて二番目だ。いちばん近い前世は、リサが母親だったときの、あの夢。 (みんな、終わった) あたしは、ロメリアで終わった。 アズラエルも、アシュエルで終わった。 セルゲイも、アレクセイで終わった。 グレンは、グレンの名を持って、終わった。 三千年前よりずっとまえ――太古から背負い続けてきた、四人の悲しい宿命が。 (ああ――今度こそ) ルナが目を閉じ、朝霧の匂いを吸い込んだとき、サンディ中佐の声がした。 「おはようございます」 出発の時刻が来たらしい。 「これから、海を渡り、クルクスに入ります」 彼女は、白い息をはきながら、腕時計を見た。 「七時半には、クルクスに入れると思います。市長がご用意されているとのことでしたので、朝食はそちらで」 ルナたちは、海岸まで歩いた。だんだん、霧が晴れてくる。 塵となった水気が去るのと同時に、風景も、はっきりと見えてきた――濃い群青色の海が、めのまえにひろがり、しずかな波の音が聞こえる。 そして、彼方に、ジュエルス海の沿岸をおおうように建てられた、長い城壁の姿が、うっすらと見えた。 (メルーヴァ姫が、あそこで待ってる) 風光明媚な海には似合わない軍事用の船に、ルナたちは乗った。寒いから中に入った方がいいと勧められたが、ルナは鼻の頭を真っ赤にして、甲板に立っていた。 クルクスの城壁が、徐々にはっきりと、形を成してくる。 ふた柱の、巨像の姿も。 「不思議だな――わたしも、ここからの風景に覚えがある気がする」 セルゲイは、当時、ドーソンの名を持ち、地球の軍を率いてこの地に降り立ったのだ。 カザマもセルゲイも、ルナとともに、不思議なほどなつかしい、この海の光景を、飽きることもなく見つめていた。 ジュエルス海を越えると、すぐに、二柱の巨像が立つ、クルクスの玄関口についた。 ついに、アストロスの古代都市、クルクスに到着した。 ルナたちは、甲板から、陸地へ降りた。 観光地化されている周囲の街並みからは、すっかりひとの気配は失せていたので、ルナは人にも自動車にも気兼ねすることなく、ひろい道路のど真ん中で、巨大な二神の像を見上げた。道幅も、けっこうな広さだった。 (こっちがアスラーエルで、こっちが、アルグレン……) ルナにはすぐに分かった。アズラエルとグレンそっくりの、ムキマッチョ兄弟神は、鎧を着て、険しい顔で、空を見据えている。刃を下に向けた刀剣を地に立て、柄をにぎって。 彼らの頭は、雲の中にかくれるかどうかというくらいの高さだ。 (ひゃくめーとるの石像っておじいちゃんがゆってたけど、ほんとだ) ルナは、アスラーエルの足元に来て、ルナの頭より大きい小指を見つめた。 (じつは、アズの小指にもいたずらがきをしたのです……) ルナは、一瞬しょげた顔をしたが、もう、泣きはしなかった。アズラエルが出て行ったときの悲しみは、もうどこにもなかった。 (アズ、ごめんね) いたずらがきをしたことにではない。 アズラエルの悲しみに、気づいてあげられなかったことを――ルナは、詫びた。 (アズ、震えてた) ルナを嫌いになったなんて、思う方が間違いだった。アズラエルははっきりといったではないか。 ――おまえを傷つけるかもしれないことのほうが、怖いと。 (もうだいじょうぶだよ、アズ) もうぜんぶ終わったんだよ。 アズがあたしを、その手にかけることは、もうないんだよ。 そして、誓うように、つぶやいた。 あたしも、この地でがんばる。みんなと一緒に、ラグ・ヴァーダの武神から、アストロスを守るために。 「ぜんぶが終わったら、」 ルナは、雲に隠れて見えない、アスラーエルとアルグレンの顔に向かって言った。 「今度はあたしが、迎えに行くからね」 ――あたしは生きて、アズラエルを迎えに行く。 「われわれは、ここまでです」 気づけば、サンディ中佐が、ルナたちに向かって敬礼していた。クルクスの街の方から、おおきな自動車がやってきて、止まった。 「え?」 「迎えが来ています」 自動車から、スーツ姿の人間が、五人出てきた。いちばん最後に後部座席から出てきた、メガネをかけた細身の中年男性が、帽子を取って挨拶をした。 「市長の、ザボン・A・MJH・サルーディーバです」 彼は、微笑んだ。 「クルクスへ、ようこそ」 兄弟神が、「おかえり」と言ってくれたような気が、ルナにはした。 サンディ中佐に礼を言って、ルナたちは自動車に乗り込んだ。 クルクスは、兄弟神の巨像がある玄関口こそ、ひと気がなくなっていたが、街の中に入ると、おどろくほどたくさんの人間であふれていた。 革命家メルーヴァの到来にそなえて、非常事態宣言が出ているので、店はほとんど閉まっていたが、だれもが家に閉じこもっているというわけではなさそうだ。 「ここは、いっぱいひとがいるね」 ルナたちが通ってきたケンタウル・シティの街並みからは、完全に人が消えうせていた。ところどころに軍が駐屯している区画があっても、ほとんどは無人。だれもいない街並みを、ルナたちは抜けて来たのだ。休憩のために、コンビニエンスストアや、駅などにも寄ったが、自動販売機はあっても店はどこも開いていなかった。 ルナたちは、市長の秘書が運転するリムジンに乗って、古代都市クルクスの「サルーディーバ遺跡記念公園」まで、向かっているところだった。 「こんな非常時でなければ、あちこちご案内できたのですがね――このあたりは、おいしいお店や、女の子が好きな雑貨店もたくさんありますよ」 ザボン市長は、ルナたちの緊張を解すように、やわらかな口調で声をかけてきた。 「ケンタウル・シティはすっかり、だれもいなくなっていましたね。みな、ジュセ大陸のほうへ?」 セルゲイが聞くと、ザボンはうなずいた。 「そうですね――ジュセ大陸へは、ガクルックスとサザンクロスの住民が多いかな。アクルックスと、ケンタウル・シティの住人は、裕福な層が多いので、ほとんどがE353か、マルカまで出たかもしれません」 アストロスからE002までは、星からの避難便が出ますし、と彼はつけくわえた。 |