――だいじょうぶ、ではなかった。

 標高が高ければ高いほど、零下はマイナスを深めていく。海側からエタカ・リーナ山岳に入ったとたんに急低下した気温に、まつげさえ凍りつき、息をするのも苦しくなってきたスタークは、「ごめんヤバい」と素直に言った。

 このままでは、助けに行く前に自分がまずい。

 「我々は、マイナス五十度からプラス五十度までは、裸でもヘイキ」

 「天使ってなんなの……化け物なの……」

 フィロストラトの心配は当たり、スタークは、もう突っ込む気力もなく、マルコのマントの中で凍えていなければならなかった。うれしいのはマルコだけで、スタークは生死の境をさまよっていた。

 北極海域など、まさしく人の住める地域ではない。

 天使たちは、スタークのためにも、急いで、エタカ・リーナ山岳の裏側から、表側に移動しようとした。

 

 「うわっ!!」

 いきなり、黒いもやが現れて、フィロストラトの足を巻き取ったのを、スタークも見た。

 「フィロー!」

 「平気だ!」

 フィロストラトは、黄金色に輝く剣で、黒いもやを断ち切った。

 

 「な――なんだ、あれ」

 マルコの胸に顔を埋めていたスタークは、やっと、目だけ、懐から出した。

 「気づかなかった。こコは、ラグ・ヴァーダの武神の墓碑だ」

 マルコは舌打ちした。

 「マジで!?」

 例の、剣が封印されたという場所か。

 黒い瘴気は、フィロストラトの剣に切られ、生き物のようにうねりながら、墓の中へもどっていく。スタークは、どうひいき目に見ても、気持ち悪いと思った。あんなものとは戦う気すらしない。

 「あれは本体ではない。本体は、メルヴァといっしょにいるはずだ」

 「フィロ! フィロ、剣にさっきの黒いのついてる!」

 スタークが必死で指摘した。

 フィロストラトは、黒い瘴気がコールタールのようにまとわりついた剣を、雪の中に突っ込んだ。ジュッと音を立てて、禍々しいもやは、雪にドス黒いあとを残した。

 「うげェえええ……」

 スタークが吐きそうな顔をする。

 

 「もうすぐだ。――まずいな。声が、ちいさくなっていク」

 天使たちは、吹雪のなかを飛び続けた。

 「あれは」

 スタークは、だれかが塔のようなものにくくりつけられているのを見た。

 女の子だ。彼女を守っている虹色の光が、黒いもやに浸食され、いまにも消えかかっている。

 

 ――助けて。

 

 女の子のかすかな声は、スタークにも聞き取れた。マルコが叫んだ。

 「フィロー!」

 「承知した!!」

 フィロストラトが女の子を助けに向かうと、彼女を襲っていた瘴気は、黒い花弁を咲かせた形になり、一斉にフィロストラトを向いた。

 

 「こっちだ――声は、こっち!」

 マルコが、中腹を急降下していく。木々をよけ、重力に従うようにものすごいスピードで。

 「ぶおおおおおおお」

 スタークは、もはや擬音しか出せなかった。

 スタークの頭頂がはげそうなくらいの猛スピードで降りたマルコが、スタークの後頭部が凍るまえに、雪の上に足をつけた。

 

 そこには、雪があるだけだった。護衛官たちは、すっかり埋まってしまったのか。スタークは、ここだと言われた場所を、犬よろしく、素手で必死に掘った――なにかに、手がぶつかった。マルコも手を貸した。スタークの倍は大きな手で、雪をかき上げていく。

 やっと、ひとの顔が見えてきた。

 「ヒュピテム! ――ダスカ!?」

 スタークは、いっしょうけんめい掘り進んだ――ふたりとも体格がいい上に、鎧など身に着けているので、マルコがいなければ、もっと掘り出すのに時間がかかっていたかもしれない。マルコは体格がひとまわりちがうので、易々と、ふたりの王宮護衛官を雪の中から引き上げた。

雪の中にいたのは、ふたりだけだった。

「ふたりだけ!? モハは!?」

「……雪の中に埋もれていたのはふたりだ。あとは、“生きているものの”気配はない」

 マルコは耳を澄ませて、そう言った。

 「マジかよ……」

 どこか離れた場所で、雪に埋もれて亡くなったのだろうか。

 

 「うわあ!」

 フィロストラトの悲鳴が上がった。

 「おおう!!」

 スタークの真後ろに、剣が突き刺さってきた。スタークはあやうく避けたが、それは、フィロストラトの剣だった。

 黒いもやが、巨大な男の形を成している。あれがラグ・ヴァーダの武神だと、スタークにもわかった。武神は、フィロストラトの全身を、両手で締め上げにかかっている。

 「うああああああ!!!」

 「フィロー!」

 マルコが飛び立ち、剣を振りかぶり、一閃すると、雪の上に光の直線ができた。白金色の火が燃える。雪の壁にまっすぐ亀裂が起こり――中腹から下に、氷河が音を立てて崩れ落ちていく。

ラグ・ヴァーダの武神の腕が、氷河とともに真っ二つになった。

 

「ウッヒョー!! カッケー!!」

スタークは、ほんのちょっとだけ――一瞬だけ、マルコの嫁になってもいいかなと思った。

マルコが切り離したところから、白金色がジワジワと浸食していく。黒いもやでできたラグ・ヴァーダの武神は、形を保てなくなっていく。

マルコの一閃で力をなくした武神は、木々のすきまを吹き渡る吹雪のような声をあげて、墓碑の方ではなく、サザンクロスの方めがけてもどっていく。

もやから切り離され、雪上に尻もちをついたフィロストラトの全身も、瘴気がまとわりついている。マルコは雪で、悪しき力を払い落としながら言った。

「だいじょうぶカ、フィロー!」

「平気――それより、女の子を助けないと、」

天使たちは、くくられていた女性を見上げ、――それから、はっとして、目を見張った。

 

 

 

「ど、どうしたんだよ、なんで置いてきたんだ!」

天使ふたりが、塔からマリアンヌを降ろし、雪の上に寝かせて、――それから、しばらくそこにいた。スタークは行こうか行くまいか悩んだが、意識のないヒュピテムたちをここに放り出すこともできなかった。

彼らが速足でもどってくるなり、スタークは、そう叫んだ。フィロストラトが言った。

「彼女は、もう死んでいたよ」

「――え?」

「だいぶ――だいぶまえに。二年前くらい」

「はあ!?」

スタークはわめいた。

二年前?

たしかに、さっきまで生きていたではないか。動いて叫び、助けを求めていたはずだ。

 

「とにかく、ここを離れまス。すぐ、さっきの武神のカケラ、もどってくるかもしれない」

フィロストラトは、ヒュピテムとダスカを軽々、両脇に抱え上げた。マルコは、スタークを抱え、剣を手にしたまま、用心深くあたりを見渡した。

「本陣にもどるより、クルクスがちカい。あそこはいま、この星の中でどこよりも安全だ。そこへ行きます」

マルコは言い、飛び立った。

「あの女の子、置いていくのか。――ちょ、立ってる! 立ってるよ、俺たちに手を振ってる!!」

マリアンヌは、まるで、助けてくれてありがとうとでもいうように、スタークたちに手を振っている。

「見るな!」

マルコの鋭い叱責に、スタークは目をしばたたかせ、怒鳴った。

「生きてるじゃねえか!!」

「おまえの目に見えるものは、ラグ・ヴァーダの武神に生かされタ、哀れな骸だ!」

「――え?」

「忌まわしいものを、見てはいけない」

マルコはそっと、スタークのまぶたに、手のひらをかざした。

 

 



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