百九十二話 シャトランジ Ⅱ



 

 なにが起こったのか、エマルは分からなかった。

 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……。

 自分の、小刻みな呼吸の音だけが聞こえる。エマルは、黄金の壁に手と背を限界まで張り付けて、やりすごした。悲鳴は喉に張り付き、声も出せなかった。

 あと一センチでも前に出ていたら、自分はおしまいだったかもしれない。

 いいや、一センチも一ミリもない。確かに、自分の頭上にも、「あれ」が降ってきた。

 どうして、自分だけがつぶれていないのか、エマルはわからない。

 

 黄金でできた光の膜がゆっくりと降りてきて、地面に敷かれた。それが、二日ほど前だったと思う。市松模様の盤であることに気づいたのは、ずっとあとだ。

光の膜は、マス目を区切るように、下から上へと壁をつくった。エマルは、巨大なマス目のひとつに閉じ込められたのだ。

 周囲の軍人たちがパニックになり、壁を叩いて、わめきはじめた。

エマルは、サスペンサー大佐の本隊から離れた位置にいたため、本隊にはもどれなくなった。デビッドは、サスペンサー本体を挟んで、正反対の位置にいる。携帯はつながらない。デビッドの無事は確認できない。

 

 光の膜は、黄金色ではあるが、まるでフィルムのように薄く、向こうが透けて見える。黄金のフィルターがかかっただけのように、ずっと遠くまで見渡せた。

 隣のマスにいる人間とも会話ができる。

 パニックがいったん落ち着くと、あちこちで、壁を突き破って脱出しようとする試みが行われた。

 エマルも、おなじマス目に取り残された軍人たちと、脱出を試みたが、ダメだった。

 触れれば破れそうなくらいの薄膜は、強化ガラスのように、なにをやっても壊れなかった。マシンガンでも、大砲でも。

上も左右前後も、壁に覆われている。あとは、土を掘って抜け出すしかないのだろうが、黄金の盤は想像を絶するほどひろい。どこへ出たらいいのかも皆目、見当がつかなかった。

 

 エマルたちだけではなく、あちこちで、あきらめの嘆息とともに、座り込む人間が増えた。

 昼が過ぎて、夜になった。夜は二度来た。通信は通じない、時計は動いている。ひとの声も聞こえる。だが、この壁から外には出られない。

 

 エマルは、持参していたレーションを小分けにして、近くにいた仲間と分け合い、救助を待った。水は何とか間に合った。天幕のあるマス内はいいが、ここでは、用を足すのに多少困った。

そもそも、救助など来るのか。この黄金幕はなんなのか。

 これが、アントニオの言っていた、「シャトランジ」というものなのか。

 だとしたら、エマルは皆を助けなければならないのではないか。

 だが、アントニオからもらったオレンジ色の玉守りは、なにもエマルに教えてはくれなかった。

 

 『たぶん、いちばん想像を絶する激戦が繰り広げられる場所でもあります。いいですか、どうか、おふたりはその星守りをぜったいに離さないでください』

 アントニオの言葉を思い出す。

エマルは、あのときと同じように、星守りを握りしめた。

 『“戦える用意ができたら”かならずおふたりが、メルヴァの軍から、皆を守ってください。……おそらく、L20の本隊が無事でいられるかは、おふたりにかかっています』

 

 (戦える用意ってのは、いつだ)

 エマルは、一瞬たりとも、そのチャンスを見逃すまいと、気を張り詰めさせた。

壁からの脱出はあきらめたが、緊張状態は続く。

一睡もしていなかったエマルのもとに、悪夢が到来したのは、黄金の壁が出現してから二日後――エマルが一瞬、意識を失いかけたときだった。

 となりのマス目に、巨大な岩――いや、岩ではない。小型の宇宙の結晶のような石が――巨石が、降ってきたのだ。

 マス目をすっかり覆いつくすほどの巨石である。

 巨石は、降ってきたかと思ったら、いなくなった――なくなったのではない。前のマス目に、進んだのだ。

 

エマルは思わず目をそらした。

巨石が降ってきたマス目の地面は、真っ赤に染まっていた。

だれもかもが、悲鳴をあげることすら許されなかった。

悲鳴も音もなく、地面に消えた。

 

 エマルは、自分の視界が宇宙色に染まるのを感じた。巨石が、頭上にあった。

 ――つぶされた、と思った。

 ぎゅっと瞑った目を、恐る恐るあけたときには――すでに、宇宙色の駒は、次のマスへと進んでいた。エマルは、地面を見ることができなかった。だが、視界には入ってくる――ずっと向こうまで。

 

ひとの血に染まった、真っ赤な大地が。

 

 さっきまで話していた軍人たちは、無残な屍となっていた。

 はじめて、彼女は恐怖した。

足が、知らず、ガタガタと震えた。

 なにが起こったか分からない。何が起きたのか――なぜ、自分だけが助かったのか、わからない。

 黄金の壁の向こう――ずっと向こう――さっきまで、数秒前まで、肉眼で確認できていたサスペンサー隊の天幕は、もうなかった。つぶされて、地面に埋め込まれていた。だれもいない。

 エマルがどれほど遠くを見渡しても、エマルと同じように立っている人間は、ひとりもいなかった。

 

 デビッドは、だれもいなくてよかったと思った。傭兵人生をやってきて、血の匂いで吐いたのははじめてだった。なにも入っていない胃から胃液だけが逆流する。

 たまらない臭いだ。立っていることさえできない。

悪夢だ。悪夢でしかない。

 デビッドは、なぜ自分だけがつぶされなかったのか、分からなかった。理解できなかった。

たしかに、巨大な「宇宙」は上から降ってきた。でも、自分はつぶされてはいない。デビッドのとなりにいた人間が、肉塊となって地面に埋もれているのに、デビッドは無事だ。

三十分も経って、ようやく、「なぜなんだ」と考えることができた。

思考能力は、まったく役立たずになっていた。

――エマルは無事か。

 デビッドは、直視したくない光景を振りかえることもできず、岩のあいだに吐きつづけた。

 

 サスペンサーは、自隊の天幕の向こうに、宇宙色をした巨石が進んでくるのを、視界で捉えた。砂地を引きずるようにして、まっすぐ、こちらへ進んでくる。

 全容が捉えきれないほど近くまで来た。

ふっと、巨石は消えた。めのまえから。

 サスペンサーは、急に暗くなったと思った。そして、自然と上を見上げた。

視界が宇宙に染まったとき、自分の死を悟った。

(――ミラ様、フライヤ、)

彼女には、託す宣言を考える時間も、与えられなかった。

 

 



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