ルナは、すさまじい勢いで、キーボードを打っていた。ZOOカードボックスが、パズルの術式をあつかうときの仕様になっている。けたたましいともいえる勢いで、カチャカチャと動くルナの小さな手は、たまにピンクのうさぎの手になったりもした。 ――やっと、せわしない指の動きが、止んだ。 「ムンド(世界)」 ルナの口から、月を眺める子ウサギの声が飛び出した。 フライヤは、石板に異変を感じた。 シャトランジの金色盤を塗り込めるように、銀色の光がクルクスから放たれた。それは、シャトランジを上回るスピードで広がり、ナミ大陸全域を覆いつくした。 「今度は――今度はなに!?」 石板を見ていたサンディが不安げな声で叫んだが、メリッサは、喜びの声を上げた。 「メルーヴァ姫様が動かれました!」 とたんに、天使隊とアノールから歓声が上がった。 おりしも、軍議の真っ最中だった。軍議ともいえない――手の尽くしようがない現実の前で、彼らはただ、石板を見つめるのみであった。 アストロスの陸、海、空軍の幹部と、クルクスの市長ザボン。そしてL20からは、フライヤ総司令官とサンディ中佐、バスコーレン大佐に、L20の陸軍幹部、そして仲介役のメリッサ、天使長ヴィクトルと二名の天使、アノール族の代表、タロを含む三名、オリーヴとベックが、特別に同席していた。 軍議は、軍議にならなかった。 ひろいテーブルに置かれた石板を、皆で見つめるほか、軍人たちにはすべがなくなっていた。 そこへ、石板に大きな変化が起きたので、みなが集中したのだ。 「外に出ましょう」 フライヤは思い切って言った。彼女の言葉に、だれも反対するものはなかった。というよりも、彼女以外の人間は、提案すら出せなかったのだ。 幹部たちはいっせいに外へ出たが、すでに、外に待機している軍人たちは、口々に前方を見つめて、騒いでいた。 フライヤたちもそれを見て、理由が分かった。 ハイダクが迫ってきたのではない。 めのまえに広がる平野には、なぜか、遊園地が現れていたのだ。 「なんなの――これは」 サンディのつぶやき。観覧車にジェットコースター、城にメリーゴーラウンド――シャトランジ盤の中にそびえたつ遊具の数々を、フライヤたちは呆然と見つめた。 真砂名神社の奥殿にいるアンジェリカとペリドットも、ルナが動いたことに気づいた。ふたりのいる部屋に、アストロスの地図が表示され、銀色の光が広がるとともに、K19区の遊園地が、ホログラムとなって浮かび上がる。 「ルナがムンドを!」 アンジェリカの顔に笑顔がもどった。 「カルタ(手紙)が来てるぞ」 ルナからの通信だ。ペリドットとアンジェリカは、手紙をひらいた。ふたりの顔が、不敵な笑みに変わっていく。 「――よし、アンジェ、回帰術のまえにひと仕事するぞ」 「はい!」 ふたりのまえのカルタ(手紙)は、用を果たしたとばかりに燃え上がった。 アンジェリカが先に起動した。 「白ネズミの女王からの“カルタ(手紙)”を受け取れ、子孫たるアノールの民たちよ――」 アンジェリカは唱えた。 「回帰――“オリヘン(原初)”――アノールの魚たちよ、海の王者よ、――目覚めよ」 やんやの歓声を送り、太鼓をドンドコ叩いていたアノール族が、急にしずまりかえった。 「ど――どうしたの」 オリーヴのとなりにいたアノール族の男たちも、ふらふらと、遊園地のほうへ向かっていく。 「“マール(海)”」 ルナが唱えると同時に、アノール族の向かう方角が、一面の海に変わった。 フライヤたちはおもわず目をこすったが、まぎれもなくあれは海だ。いきなり、陸地に海が現れた。数メートル向こうは、白い波がさざめく岸辺になっている。 軍人たちは、目を疑った。千を超えるアノールの男たちの姿が変化していく。 ある者はシャチに、ある者はクジラに、ある者は、サメに――。 彼らは、尾びれを揺らして、人魚のように次々と海に飛び込み、完全なる魚となった。 大海原を、シャチやサメ、クジラが大挙して、遊泳していく。 「な、なんだよ、あれ――」 ベックの言葉も、無理もなかった。ザボンも、めのまえの光景に、ただただ、息をのむことしかできなかった。 「うわあ! こんな広範囲のムンドは初めて見た!」 アンジェリカは、その雄大さにはしゃいだ。千を超すイルカやシャチ、サメ、潮を噴き上げるクジラ、ペンギンや巨大な魚の群れが、シャトランジの海を自在に泳ぎ回っている。 アストロス全域が、幻の海と化した。 今度は、ペリドットの番だ。 「“オリヘン(原初)”に回帰――翼を持つ使徒たちよ――海の生き物たちともに救援に向かえ」 ペリドットの口上とともに、司令部に残っていた天使たちが、ヴィクトルを抜かして全員、大きな鳥となって羽ばたいた。シャトランジの壁などものともせず、突き抜け――天空を泳いだ。 「見ろ! シャトランジの壁を越えていく!」 だれかが叫んだ。皆の声色に、希望がよみがえった瞬間だった。 ムンドがナミ大陸に広がったのを見たラグ・ヴァーダの武神は、ますます強力にクルクスの門を叩いたが、夜の神はビクともしなかった。シャトランジの膜も、ついにクルクスを避けて広がりはじめた。 |