百九十四話 アストロスの武神



 

 ルナは、すさまじい勢いで、キーボードを打っていた。ZOOカードボックスが、パズルの術式をあつかうときの仕様になっている。けたたましいともいえる勢いで、カチャカチャと動くルナの小さな手は、たまにピンクのうさぎの手になったりもした。

 ――やっと、せわしない指の動きが、止んだ。

 

 「ムンド(世界)」

 ルナの口から、月を眺める子ウサギの声が飛び出した。

 

 フライヤは、石板に異変を感じた。

シャトランジの金色盤を塗り込めるように、銀色の光がクルクスから放たれた。それは、シャトランジを上回るスピードで広がり、ナミ大陸全域を覆いつくした。

「今度は――今度はなに!?」

 石板を見ていたサンディが不安げな声で叫んだが、メリッサは、喜びの声を上げた。

 「メルーヴァ姫様が動かれました!」

 とたんに、天使隊とアノールから歓声が上がった。

 

 おりしも、軍議の真っ最中だった。軍議ともいえない――手の尽くしようがない現実の前で、彼らはただ、石板を見つめるのみであった。

アストロスの陸、海、空軍の幹部と、クルクスの市長ザボン。そしてL20からは、フライヤ総司令官とサンディ中佐、バスコーレン大佐に、L20の陸軍幹部、そして仲介役のメリッサ、天使長ヴィクトルと二名の天使、アノール族の代表、タロを含む三名、オリーヴとベックが、特別に同席していた。

 

軍議は、軍議にならなかった。

ひろいテーブルに置かれた石板を、皆で見つめるほか、軍人たちにはすべがなくなっていた。

そこへ、石板に大きな変化が起きたので、みなが集中したのだ。

「外に出ましょう」

フライヤは思い切って言った。彼女の言葉に、だれも反対するものはなかった。というよりも、彼女以外の人間は、提案すら出せなかったのだ。

幹部たちはいっせいに外へ出たが、すでに、外に待機している軍人たちは、口々に前方を見つめて、騒いでいた。

フライヤたちもそれを見て、理由が分かった。

ハイダクが迫ってきたのではない。

めのまえに広がる平野には、なぜか、遊園地が現れていたのだ。

「なんなの――これは」

サンディのつぶやき。観覧車にジェットコースター、城にメリーゴーラウンド――シャトランジ盤の中にそびえたつ遊具の数々を、フライヤたちは呆然と見つめた。

 

 

 真砂名神社の奥殿にいるアンジェリカとペリドットも、ルナが動いたことに気づいた。ふたりのいる部屋に、アストロスの地図が表示され、銀色の光が広がるとともに、K19区の遊園地が、ホログラムとなって浮かび上がる。

 「ルナがムンドを!」

 アンジェリカの顔に笑顔がもどった。

 「カルタ(手紙)が来てるぞ」

 ルナからの通信だ。ペリドットとアンジェリカは、手紙をひらいた。ふたりの顔が、不敵な笑みに変わっていく。

 「――よし、アンジェ、回帰術のまえにひと仕事するぞ」

 「はい!」

ふたりのまえのカルタ(手紙)は、用を果たしたとばかりに燃え上がった。

 アンジェリカが先に起動した。

 

 「白ネズミの女王からの“カルタ(手紙)”を受け取れ、子孫たるアノールの民たちよ――」

 アンジェリカは唱えた。

 「回帰――“オリヘン(原初)”――アノールの魚たちよ、海の王者よ、――目覚めよ」

 

 やんやの歓声を送り、太鼓をドンドコ叩いていたアノール族が、急にしずまりかえった。

 「ど――どうしたの」

 オリーヴのとなりにいたアノール族の男たちも、ふらふらと、遊園地のほうへ向かっていく。

 

 「“マール(海)”」

 

 ルナが唱えると同時に、アノール族の向かう方角が、一面の海に変わった。

 フライヤたちはおもわず目をこすったが、まぎれもなくあれは海だ。いきなり、陸地に海が現れた。数メートル向こうは、白い波がさざめく岸辺になっている。

 軍人たちは、目を疑った。千を超えるアノールの男たちの姿が変化していく。

 ある者はシャチに、ある者はクジラに、ある者は、サメに――。

 彼らは、尾びれを揺らして、人魚のように次々と海に飛び込み、完全なる魚となった。

 大海原を、シャチやサメ、クジラが大挙して、遊泳していく。

 

 「な、なんだよ、あれ――」

 ベックの言葉も、無理もなかった。ザボンも、めのまえの光景に、ただただ、息をのむことしかできなかった。

 

 「うわあ! こんな広範囲のムンドは初めて見た!」

 アンジェリカは、その雄大さにはしゃいだ。千を超すイルカやシャチ、サメ、潮を噴き上げるクジラ、ペンギンや巨大な魚の群れが、シャトランジの海を自在に泳ぎ回っている。

 アストロス全域が、幻の海と化した。

 今度は、ペリドットの番だ。

 

 「“オリヘン(原初)”に回帰――翼を持つ使徒たちよ――海の生き物たちともに救援に向かえ」

 

 ペリドットの口上とともに、司令部に残っていた天使たちが、ヴィクトルを抜かして全員、大きな鳥となって羽ばたいた。シャトランジの壁などものともせず、突き抜け――天空を泳いだ。

 「見ろ! シャトランジの壁を越えていく!」

 だれかが叫んだ。皆の声色に、希望がよみがえった瞬間だった。

 ムンドがナミ大陸に広がったのを見たラグ・ヴァーダの武神は、ますます強力にクルクスの門を叩いたが、夜の神はビクともしなかった。シャトランジの膜も、ついにクルクスを避けて広がりはじめた。

 

 



*|| BACK || TOP || NEXT ||*