「“キャスリング”」

 

ルナが唱えると、d-1にあったキングの駒と、a-3にあったルークの駒が入れ替わった。

「バカな! キャスリングはチェスのルールだ!」

しかも、ルークとキングの間に駒がなく、ルークもキングも、敵の駒にピンされていない状況下でしかつかえない。キングの撤退のためにつかわれるルールで、序盤に使用するなどありえない。

シェハザール――ラグ・ヴァーダの武神は激怒したが、ルナの操るキングとルークは、たしかに入れ替わった。

 

ボリスは、目を瞑った。ついにa-4に入り込んできたハイダクが、ボリスをつぶすために侵撃してくる。

 

「キングを、a―4へ」

ルナが唱えた。

 

ボリスは、いつまでたっても身体に衝撃が訪れないので、恐る恐る目を開けた。

滑り落ちてきて、ボリスを轢きつぶすはずだったハイダクは、銀色の巨大な手につかみ締められていた。城のような大きさのハイダクを、手のひらにつかめるほどの巨大な手。

ボリスに分かったのはそれだけだ。

大きな手は、ハイダクをつかみつぶした。宇宙の結晶を飛び散らせ、ハイダクは、大きな男の手の中に、くだけた。

ボリスは口をぽっかりあけて、巨大な手のひらが降ってくるのを見つめた。

今度は俺が握りつぶされるのか――。

だが、恐怖は感じなかった。

大きな手は、ボリスをつかみつぶさないように慎重に手のひらに乗せた。そして、空を飛んでいる飛行機――いや――白馬が引いた、空飛ぶ馬車に乗せた。

「災難だったな! 兄さん」とおじいさんに話しかけられたボリスは、ついに「うわーっ!」と叫んだ。

「なんだこりゃ!?」

(メルヘンはまっぴらだよな。分かるよ)

巨人から、アズラエルの声がした――気がした。

ボリスはあまりのことに、そりの上で失神した。

 

グレンは、隣からアズラエルがいなくなったのに、気づいた。

「あれ? どこ行きやがった、アイツ」

数秒前に、こぶしを突き合わせていたはずなのに。

 

「インボカシオン、解除」

ルナの声とともに、キングは「アスラーエル」から「シップ(宇宙船)」にもどった。それと同時に、銀色のチェスの駒が、すべて消えた。

「ああっ!」

フライヤたちは、失望の声を漏らした。

「まさか、これきりしか動かないの」

サンディの不安げな声に、メリッサは首を振った。

「まさか! ですが、地球行き宇宙船でなにかあったのでしょうか」

メリッサの表情にも、はじめて不安が現れた。太陽のように燃え続けている宇宙船――まさか、なかでシャトランジのアトラクションが燃えてしまったのでは?

メリッサは、船内と連絡を取るために、席を外した。

 

「やあやあ、みなさん、おつかれさん」

だれもが、口を開けた。そうするほかなかった。白馬の馬車に乗った、赤いキャップのおじいさんが降臨してきたのでは――。

「お届け物だ」

後部座席――すなわち荷台から、大勢の軍人たちが飛び降りてきた。

「これで全員だ。もう、シャトランジ内に取り残されているひとはいないよ」

「ほんとうですか!」

彼の言葉に、フライヤの顔は輝き、ほっとしたように肩を落とした。

さきに助かっていた軍人たちと固く抱き合う様子と、なんで空を飛んでいたのか分からない白馬を、呆気にとられた顔で交互に見――オリーヴは、最後に降りてきた軍人を見て叫んだ。

 

「ボリス!!」

軍人の一人に背負われて、医務室へ向かおうとしているボリスに、オリーヴとベックは、駆け寄った。

「ボリス! ボリスっ!!」

「マジかよ! ボリス――!!」

「良かった――知り合いかい? マルメント山地の麓にいたんだ」

ボリスを背から降ろしながら、軍人は言った。

「仲間なんだ」

「恋人なの!」

ベックとオリーヴは同時にいい、顔をくしゃくしゃにして無事を喜んだ。

「びっくりして気絶してるだけだ。ケガはあるけど、治療すればだいじょうぶ。命に別状はないはずだよ」

彼はふたりを安心させるようにつぶやき、

「あんなものを見ちゃ、失神するのも無理ないさ……」

その場で見ていた彼ですら、信じられない光景だった。鎧を着た武人の姿をした銀色の駒が、ボリスをたすけ、ハイダクを手でつかみつぶしたのだ。

じっさい、ボリスが失神したのは、空飛ぶ馬車を見てからなのだが。

「あり――ありがとう!! じいさん!!」

涙まみれのオリーヴが叫んだときには、もうおじいさんは、海の向こうに消えていた。

 

 「さあ、救助は終わったわ」

 ルナの膝の上に、月を眺める子ウサギが現れては消えた。

 「千転回帰がはじまったら、ムンドはもうつかえない。それまでの勝負よ、ルナ」

 (うん!)

 ルナはうなずいた。

 「さあ――全力で止めるわよ。シャトランジの盤がこれ以上広がらないように」

 ルナの言葉とともに、シャトランジの拡大は、ピタリと止まった。

 

 

 

 ヤーコブは、意識を失いかけていたところを、目覚めさせられた。意識はあったが、彼は自分の身になにが起きているか、もはや分からなかった。すでに両目はつぶされ、指の骨をすべて折られた手では、太陽神アンスリーノの刀剣もつかえない。

 天使隊では、マルコに次ぐ実力者であった彼である。その彼が、なすすべもなかった。

 さっき、アンリとシュバリエの悲鳴を聞いた。

 「やめろ」と叫びたくても、口からあふれるのは血流のみだ。

 彼は、助けを呼ばなかった。ヴィクトルや仲間を、これ以上ここに来させるわけには行かない。天使隊総勢でかかっても、この怪物には勝てない。

 (甘かった)

 天使隊がそろって、北のエタカ・リーナ山岳にある武神の墓碑を破壊しに行こうとしても無駄だっただろう。

これが、三千年を経ても滅びなかった武神のちからだ。

 (なんという――)

 

 ――むかし、おまえのような愚か者がいた。

 

 ラグ・ヴァーダの武神の声を、ヤーコブは聞いた。ギリギリと搾り上げられ、全身がきしむ痛みのなかで。

 

 ――力もないくせにわたしを殺めようとし、あらゆる策略を仕掛けてきたが、どうにもならんので、ついに自分が剣を取った弱者だ。

 

 武神はあざ笑った。

 

 ――今のおまえのようにして殺してやった。最後には、骨しか残らなかったが。闘技場に骨のかけらが転がってなァ。ふっと吹いたら、どこかへ飛んで行ったわ。

 

 たいして美しくもない女のために、わたしに立ち向かった勇気だけは褒めてやるが、無駄骨というやつだ。

 

 ヤーコブは怒りのために頭が弾けそうになった。アノールの祖である、アリタヤ宰相を殺したときのことを言っているのか。

せめて一矢報いたかったが、そのまえに絶命しそうだった。

 

 (ここまでか)

 ヤーコブが、薄れゆく意識のなかで覚悟したとき、ふっと身体が軽くなった。なにか、温かく大きなものに、掬い上げられた気がした。

 いよいよ、自分は死んでしまったのかと思いきや、アンリの声がした。

 「ヤーコブ! ヤーコブ」

 まさか、ふたりが武神を? いや、無理だろう。とうにシュバリエの声がない。目が見えないヤーコブには、なにが起こっているのか分からない。

 身体の感覚で、アンリに抱かれて飛んでいることは分かった。

 「アン――アンリ、シュバリエは?」

 「シュバリエは死んだ!」

 アンリは涙声だった。

 「われらを助けてくださったのは、アルグレン将軍だ!」

 

 



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