アンリが見たのは、いまにもヤーコブの身体がまっぷたつにねじ切られそうになった、そのときだった。

 ラグ・ヴァーダの武神の両腕を「素手」で断ち切り――大地に叩きつけられるところだったヤーコブを、手のひらにすくい上げた武神の姿を。

 

 銀色の炎をふきあげる巨大な武神は、短い髪で、まとう炎と同じ銀色の髪をしていた。おまけに、両耳にピアスをたくさんつけている。

巨大な軍神は、ラグ・ヴァーダの武神の胸倉をつかみあげ、クルクスの方めがけて投げ飛ばした。

 (武神よ……!)

 声にならなかった。武神は一度だけ、アンリを見つめ、「行け」と言ったような気がした。

 アンリは、地面に置かれたヤーコブたちを抱きかかえ、飛び立った。

 

 ――今度は、兄より先に、俺がてめえをぶっ倒してやる。

 

 アルグレンの雄叫びが、咆哮が、アストロス全域を震わせた。

 

 「――なに」

 総司令部のだれもが、アクルックス方面から、強烈な風が吹き付けてくるのを感じた。

 魂を震わせるような雄たけびを聞いた気がした。

 だがそれは、ラグ・ヴァーダの武神のように、恐怖をあおるものではない。

 すべてに竦んでいた皆の魂に、強靭な息吹が与えられたようだった。

 

 奮起されるような、つよさと勇気を。

 

 シャトランジから戻ってきたアズラエルは、数秒前に拳を突き合わせていたはずなのに、となりにグレンがいないことに気づいた。

 「アイツ、どこ行きやがった」

 この、大事なときに。

 

 フライヤたちは、彼方から、真っ赤な鳥が、こちらへ飛んでくるのを見た。彼が遠くで着地し、こちらへ歩いてくるにしたがって、その全容が知れて、だれもが口を覆うか、立ちすくんだ。

 アンリの白いマントは、血みどろだった。

 「ヤーコブ!!」

 天使たちが、ボロボロのヤーコブを受け取った。大きすぎて常人の担架には乗せられないので、軍人たちが大勢で、慎重に運んだ。想像を絶する大ケガだった。両目はなく、指の骨がすべて折られ、片足がなかった。

 だが、まだ生きていることを証明するように、かすかな呼吸があった。

 

 「シュバリエは――」

 ヴィクトルが聞くと、アンリは首を振った。そして、懐に抱きかかえていたものを、そっと出した。

 「きゃあ!!」

 医療班の軍人が悲鳴をあげた。――それは、シュバリエの首だった。

 「ラグ・ヴァーダの武神は、おそるべき――」

 

 ヴィクトルが血まみれの首を受け取ると、ごふっとアンリが血を吐き、そのままくずおれた。軍人たちの悲鳴が轟いた。ビシャリと、アンリの身体から血が噴き出したのだ。彼の足元には、濃い血だまりができた。彼のマントの中には、大きな空洞があった。

 怯んだ医療班をさえぎり、メリッサがアンリの脈をとった。

 「生きてる!」

 「ええ!?」

 「生きてる! はやく運んでください! 治療すれば間に合う!!」

 身体に大穴が開いて生きている人間などいない。

 「天使の皆さまは、わたしたちの数倍は、身体が頑丈です! 処置を早く!!」

 「アンリ、しっかりしなさい!」

 テッサがアンリを抱きかかえ、治療室に運んでいく。ヴィクトルは痛ましげに、アンリを見送り、首だけとなったシュバリエの額にキスをした。

 

 「ああ――ハイダクが!!」

 無残な天使たちの姿に、パニックになりかけた総司令部は、今度は地が揺れる音で、足がすくんで、だれもが動けなくなった。

 ズズ、ズズズ……。

 ハイダクがすべてを轢きつぶし、進む音が大きくなる。ハイダクが進むごとに揺れる大地、みるみる、大きくなるハイダクの姿。

宇宙が、前方に迫っていた。

 

 「うわあああーっ!!」

 だれかが叫んだのを皮切りに、皆々が半狂乱になって逃げだした。だが、総司令部の建物のすぐ後ろがマス目の壁だった。

 もはや指揮系統も意味をなさない。指揮すべきバスコーレンたちも、最期を感じて、宇宙色の駒を見上げるしかなかった。

 「助けてくれ!!」

 「だれかあーっ!!」

 「なんとかして!」

 

 失神したボリスに付き添っていたベックとオリーヴは、総司令部内の医務室の窓から、ハイダクが迫ってくるのを見た。

 「――今度は、三人一緒だ」

 「うん」

 もう、ボリス一人置いて、逃げはしない。

 オリーヴとベックは手をつなぎ、ボリスの手をにぎった。

 後ろには、ハイダクが迫るなかでも逃げずに、天使たちに治療をほどこす軍医と看護師たちがいる。

 

 フライヤは息をのんで、迫りくるハイダクを見上げた。

 「みんな、なるべく、わたしのそばに集まって」

 なぜか、そんな言葉が出てきた。これは、「最期」ではない。フライヤには、なぜか、そんな確信があった。

 

 ルナが、メルーヴァ姫の部屋で、一枚のカードを召喚していた。

 「終生を、ノワに守られしペガサスよ――」

 それは、フライヤのカードである、「幸運のペガサス」だった。

 「“見えない”ペガサス――幻の生き物、ペガサスよ。その姿は幻想、見えるものにしか見えぬもの」

フライヤのカードが、くるくると回転し、大きな布を被ったペガサスの姿に変わった。

「みなを守れ、仲間を守れ――“幸運のペガサス”回帰――“オリヘン(原初)”――“布被りのペガサス”」

 

 逃げ惑う軍人たちのあいだから、フライヤのほうに、まっすぐ、向かってくる男がいる。フードを被り、マントを羽織り、黒いタカを肩に乗せた――。

 (ノワ)

 フライヤには、すぐに分かった。

 彼は、フライヤに微笑みかけて、ふっと消えた。

 

 「なんだ――!?」

 最初に気づいたのはザボンだった。

天から、巨大なペガサスが舞い降りてくる――総司令部すべてを覆いつくすようなほど、巨大なペガサスが。そのペガサスは透けていて、青空がくっきりと向こうに見える。

 ペガサスは、大きな布を被っていた。

 ペガサスは翼を広げ、さらに被っていた布を広げ――総司令部全域を覆い隠した。

 

 「きゃああああ」

 「わあああああ」

 

 もはや言葉にならない悲鳴がフライヤの方にも聞こえてくるが、フライヤは石板から目を離さなかった。メリッサも、ザボンも、バスコーレンも、サンディも――ヴィクトルも、息をのんで石板を見ている。

 ハイダクが進む。こちらへ進んでくる。

 音と振動が大きくなるにつれ、オリーヴとベックも、ボリスにかぶさった。

 医者と看護師は、処置の手を止めなかった。

 医務室の窓の外を、ハイダクが進んでいく。

 



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