――ハイダクは、総司令部をすり抜けた。 石板でも、総司令部のあるマスを、ハイダクが進んでいった。総司令部が透明になったのか、ハイダクが透けたのか、わからない。とにかく、だれもつぶされなかった。 悲鳴がじょじょに少なくなり、やがて、静寂がおとずれた。 ハイダクは、次のマスに進んでいた。 大きな透明のペガサスにつつまれた、総司令部は、何の音もしなかった――せわしない呼吸の音だけが、あたりに響いた。 フライヤは、こぼれ落ちてきた額の汗を、思わずぬぐった。 サンディが、フライヤの腕をつかみしめて、ぎゅっと目を閉じていた。フライヤがだいじょうぶだというように彼女の腕に手を添えると、サンディの目が開き――それから、涙があふれた。サンディがなにも言わず抱き付いてきたのを、フライヤも無言で抱きかえした。 ペガサスはまだ消えていない。 総司令部にいる皆を守るように、翼と布を広げている。 あちこちで、腰を抜かして座り込んでいるもの、泡を吹いて失神しているもの、抱き合って泣いているものであふれている。 あのバスコーレンですら、ついに腰を下ろした。ザボンは天を仰いだまま微動だにせず、ヴィクトルはシュバリエの頭を抱えたまま、ペガサスに向かって胸に手を当てていた。 フライヤは、タロがいないことに気づいた。 「タロさんは?」 メリッサが、石板を指した。 ふたたび、大勢のアノール族が、海の生き物となって、シャトランジ盤ギリギリの端で、ハイダクの歩みを止めようとしていた。 アントニオが発する太陽の火を「あっちい!」と避けながら、燃え尽きた一枚目の予言の絵のあとに、大急ぎで描き上げた絵を設置したミシェルは、この絵は、なんとなく二十分も持たないのではないかという気はしていた。 なにしろ、描くのにかけた時間が短すぎる。 (それでも――すこしでも、持てば) すでにラグ・ヴァーダの女王の絵は消え、一番したの、一枚目の予言の絵と似た図柄の絵が出てきた。 これが最後の「一枚」だ。 (どうか――間に合って) ミシェルは、切実な思いで願った。 「なんてことだ――!」 ようやく、K19区の遊園地に着いたエーリヒたちは、めのまえの光景に息をのんだ。 遊園地が炎につつまれている。 エーリヒは、タカたちが、身を挺して入り口をふさぎ、エーリヒを中に入れなかった理由が分かった。もしエーリヒが最初から遊園地にいたら、さいしょの炎上で、火に包まれていたかもしれない。それを容易に分からせるほどの火勢だった。 入り口も、あちこちから発火して、なかに入れるものではない。だが、ソフィーが、車に積んでいた消火器で消し止めた。 「君はほんとうに、最高の担当役員だよ!!」 消火器を常設している役員など、そうあるものではない。エーリヒが手放しでほめると、ソフィーは悪くない顔をした。 「変人扱いされても、消化器くらい持っておくものね」 なんとか遊園地には入れたが、街と変わらず、あちこち火勢が上がっている。 「こっちだ!」 エーリヒとクラウドは、まっすぐに「シャトランジ」のアトラクションへ向かった。ソフィーとフランシスもあとを追う。 「うわっ!!」 焼け崩れ、崩壊してきた美術館の柱が、夫婦とエーリヒたちをへだてた。燃える柱は、通路をふさいでしまった。 「君たちは入口へもどりたまえ!」 エーリヒは叫んだが、炎の向こうから声がした。 「そういうわけにいかないわ! わたし、あなたの担当役員なのよ!」 「ソフィー、フランシス、俺たちには役目がある! だが、君たちは逃げてくれ、どうか、頼む!」 クラウドの声に、しばしの沈黙のあと、フランシスが「分かった! 気をつけろよ」という声がした。 「ここまでありがとう!!」 「君たちには、ほんとうに感謝する!」 「生きて帰ったら、今度こそ、お茶でもしましょう!」 ソフィーが炎の向こうで叫んだ。 「もちろんだ!」 クラウドとエーリヒは、煤だらけの頬をぬぐいながら、先を急いだ。 「やっと来た! こっち、こっち!!」 「アルベリッヒ!!」 サルーンを肩に乗せたアルベリッヒが、「シャトランジ!」の手前で手を振っていた。サルーンは、ソフィーの自動車がK19区の遊園地まえに横付けされるのを見てから、まっしぐらに遊園地の中へ飛んで行った。 「アルベリッヒ、君には礼のしようがない! どうあっても、わたしの命の恩人だよ!」 君とサルーンがいなかったら、わたしはここでとっくに炭になっていた。 エーリヒは彼の手を取ったが、そこで気づいた。「シャトランジ!」アトラクションの周辺だけが、鎮火している。 「ああ、これね。みんなにがんばってもらったんだ」 なんと、たくさんのタカたちが、ホースをクチバシで支えて放水している。 「わたしは消火器のつかいかたは分からないし、こういう施設にはちゃんと鎮火するシステムが着いていると思ったんだけど、なにぶんにもとても古い遊園地みたいで、消火システムが作動しなかったようだ」 「そうだったのか」 「わたしは機械のことはまったく。だが、サルーンが水源を見つけた。水源の蓋は、わたしとサルーンで開けて、あとはみんなで」 アルベリッヒはたくましい腕をまくりあげて、にっこり笑った。彼の顔は、煤だらけだった。 「助かったよ――君がいなかったら、アトラクションには入れなかった。君はもしかしたら、アストロス、いや、世界を救ったかもしれないな」 クラウドは、心底、感嘆を込めて、そう言った。 「おおげさだな」 アルベリッヒは苦笑したが、じっさいのところ、彼がいちばんの功労者かもしれない。 「アルベリッヒ、じつは」 「アルでいいよ、サルーンもそう呼ぶ――どうした?」 エーリヒは言った。 「じつは、アル。この先で、われわれの友人が火に包まれているかもしれない。助けに行ってやってくれ。それで、できれば安全なところまで誘導してほしい」 「わかった」 アルベリッヒは真剣な顔でうなずいた。 「逃げてくれと言ったが、この有り様のなか、避難もせずに、だれか取り残された者はいないか駆けずり回っていた彼らだ。おそらく、逃げずにわれわれがもどってくるのを待っているかもしれない」 「そりゃまずいな」 この遊園地は、消火システムが作動しなかったこともあって、ほかの建物より火勢が強い。遊園地の外へ出たならいいが、なかにいるのは危険だ。 エーリヒの予想は当たっていた。ソフィーとフランシスは、水源や消火システムをさがしながら、ふたりがもどるのを待っていたのである。 「ふたりを救出したら、いっしょに外へ出ていてくれ」 クラウドが言うと、アルベリッヒは首を振った。 「君たちをここへ置いて行けって?」 「だいじょうぶだ。われわれがここから出るときは、すべてが終わったときだ。そうすれば、太陽の神の発動も終わるから、火はなくなる」 エーリヒの言葉に、アルベリッヒは黙ったが、やがてうなずいた。 アルベリッヒとタカの仲間たちがソフィーとフランシスを救助しに向かうと、クラウドとエーリヒは、シャトランジの扉を開けた。 いざというときのため、扉は開けはなしたまま。 「これが、改造後のシャトランジ! か」 クラウドが、感慨深く、眺め渡した。 地面に敷かれた市松模様の盤と、対局者席はそのままだが、対局者席から見える壁に、デジタルの対局表がある。 エーリヒが対局者席に座り、持っていたピンク色の星守り――月の女神の星守りをはめ込むと、電源が着いた。 対局表が光をともし、市松模様の盤に駒が現れた。 「いよいよ、本番か」 エーリヒは、シャツの袖をまくり上げ、真剣な顔で手元の対局盤を見――そして。 「!?」 人生史上最大級――もう、どんなことが起こったとしてもこれ以上おどろくことはないくらいの――三オクターブは裏返った声を上げた。 それはエーリヒとしてもあまりな失策だったし、クラウドに聞かれてしまったことも彼にとっては致命的だった。 エーリヒの無表情顔から、眼球が飛び出した。 「チェスじゃなくなってる!?」 |