――メルヴァさま。

 

 エミールは、どんどん遠くなっていくメルヴァの背に手を伸ばした。もう息がつづかない。ヒッ、ヒッ、ヒッという引きつった呼吸音が、自分のものではないように聞こえる。

 視界をおおう暗闇。夜なのか、昼なのか分からない。どこにいるのかもわからない。目印は、メルヴァの背だけだった。

 

 エミールはどこまでもお供します。足が折れても心臓が破れても――この命つきてもお供いたします。

 だから、わたしを置いて行かないでください。

 

 無情に遠ざかっていくメルヴァの背。

 エミールたちは、もう何日、走り続けているのか分からなかった。エミールは、メルヴァの背だけを追い続けている。もう、他の仲間がどうなったかなど知る由もない。

 じっさいのところ、メルヴァの姿をその目で捉えているのはエミールだけだった。ついてきた50人の精鋭は、エミールをのぞいて、もはや走ることは叶わず、道々で倒れ伏していた。

 

 ノーリの街を出てすぐに、メルヴァの姿に異変があった。走る速度が、おそろしく速くなったのだ。それはもはや、ひとの足が駆ける速度ではなかった。それに加え、メルヴァを黒雲が包み込んだ。

 エミールは恐怖を感じたが、メルヴァに着いていく以外に、彼に選択肢はなかった。エミールだけではない、皆がそうだった。どこまでも、メルヴァに着いていくと誓った仲間だった。そのときまでは、まだみんなで、メルヴァを追いかけていた。

 ひとり、またひとりと仲間が欠落していく。

 エミールは、もはや、仲間たちを気遣うことはできなかった。

 朝が来て、夜が来て、朝が来た。いつだっただろう。そのエミールにも限界が来た。いいや、とうに限界は越している。

エミールは死んでいた。ほかの仲間のように。走りつづけ、いつか肉体は限界を迎えて倒れていた。けれども、魂がメルヴァを追っていた。

 

 メルヴァは、黒いすい星のように走り続ける。

 クルクス目指して。

 ――アクルックスを。

 

 

 

 ついに、エマルの駒をピンしていたファラスが動いた。地球の星守りを持ったジリカの駒だ。

 馬に乗ったジリカが、大斧を振り下ろす。

 だが、エマルの駒は砕けなかった。振り下ろされた斧を、コンバットナイフで受け止めたのである。

 その様子に目を見張ったのは、シェハザールだけではない。ふたたび、数分間の攻防の末、取りに来たジリカを撃退したのは、エマルの方だった。

 「わあああああ!!!」

 総司令部は手に手を取り合って叫んだ。サンディの顔にも、ようやく笑顔が浮かんでいた。

 

 「取りに来た駒を撃退するなんてことがあるのか……!」

 クラウドがつぶやき、エーリヒは、納得したように言った。

 「星守りの働きと優先順位、そして持ち主との相性、駒の働き、駒となった本人の強さが、すべて作用するようだ」

 エーリヒは、改めて、駒となった者たちの強さに感服していた。

 「ついでにいえば、個々の士気もね」

 シェハザール側も、メルヴァの八騎士をそろえてきたのは伊達ではない。本人たちが強いからだ。

 

 月の星守りを持ったピャリコのファラス(馬)と、地球の星守りを持ったベッタラの「剣士(ソードマン)」の対決は、数十分にも及んだ。取りに行ったのは、ベッタラの方だ。

 息詰まる攻防――馬に乗ったピャリコは、女性であり、女神である月の神とは相性がいい。地球の星守りの影響にくらべたら、アストロスで発動している月の女神のほうが、加護としては、力が上だった。

 だが、勝ったのは、ベッタラの方だった。長引いた戦闘は、持久力のあるベッタラに軍配があがった。

 「ベッタラ! ベッタラ! アノールの戦士、ベッタラ!!」

 アノール族から、地を震わせるような大歓声が上がった。

 破壊された駒から、ピャリコの魂が消えていくのを見つめ、ベッタラは、瞑目した。彫像となった顔は、微塵も揺らぎはしなかったけれども。

 

 アストロスの星守りを持つフィール(象)のペリポが、キングを守る「守護者(ガーディアン)」たるイシュメルを破壊しに向かったが、一刀のもとに倒された。

 「なんだと!」

 さすがに、これはシェハザールにも想定外だった。

 惑星の星守りの中では、アストロスがいちばん、影響力が強い。なぜなら、決戦のこの場が、アストロスだからだ。

 確実に取れると思ったシェハザールの当ては外れた。

 どんな星守りの影響も受けないイシュメルの「守護者(ガーディアン)」は、アストロスの地にありながら、もっとも影響力の高い星守りをも持つペリポの駒を、一撃で粉砕した。

 

 「ルフを、a-3へ!」

 太陽の星守りを持つラフランのルフ(戦車)が、昼の女神の星守りを持つデビッドの弓騎士(アーチャー)の真ん前まで来た。

 戦車に乗った戦士の姿は、太陽の炎をまとい、敵駒の中で二番目に大きく、じつに強そうだった。

 『あ、やべェのが来た』

 デビッドも、さすがに冷や汗をかいた。

 

 「これは、取られるな」

 エーリヒも、感づいた。

 次の手で、デビッドがラフランを取りに行っても、太陽の神と真昼の神では勝負あったようなものだった。太陽の神が確実に勝つ。ふた柱の男神の力は絶大だ。たとえこのままスルーして、さらに次の手でラフランが取りに来ても、同じことだ。さっきのエマルのように、防衛はできない。

 (と、なると)

イシュメルの「守護者(ガーディアン)」を動かすか否か。

 このラフランは、さすがに太陽の星守りを持たせられただけあって、フィルズのツァオの次に強そうだ。

 イシュメルは、どの星守りの影響も受けない代わりに、どの神の加護も受けることはできない。さっきは防衛したが、この「守護者」という名称からしても、イシュメルの駒は、防衛に力を発揮するのかもしれない。

 この場合、どちらが勝つか分からない。

 イシュメルが負けたら、キングは「シャー・マート」だ。すなわち、「チェックメイト」である。

 

 「ううむ」

 エーリヒは唸った。

 あとは「暗殺者(アサシン)」を動かすしかない。

 だが、ノワであるアサシンのルート上には、フィルズがいる。

 ノワの駒はもともと「ビショップ」。斜め方向にはどこまでも行けるという駒である。ナイトとは違い、他の駒を跳び越すことはできない。

 (ある意味、賭けだが)

 夜の神の星守りを持ち、「暗殺者」と名付けられたノワの駒。

 ノワが、新月――ルナ・ノワであるならば、もしかして――。

 

 エーリヒとクラウドは、悩んだ。なぜなら、彼ら二人には、ノワの駒が見えているからだ。

ふたりの思案に反して、シェハザールにも、フライヤたちにも、アマンダたちにも、だれにもノワの駒の存在が見えていなかった。

 シェハザールは、ようやく違和感に気づいた。盤内に、駒が一基、足りない。

 (アサシンは、どこにいる?)

 

 「暗殺者(アサシン)を、a-3へ!」

 エーリヒは、やけくそで言った。ふつうならばビショップは駒を跳び越せない。そこで、途中にあるフィルズにぶち当たっても、同じ夜の神同士、力は吸収されてしまう。駒は、フィルズの手前で止まる可能性が高い。

 だが、ルナ・ノワは、フィルズの駒をすうっとすり抜けた。

 「……!!」

 エーリヒは思わず立ち上がってガッツポーズを決め、クラウドとハイタッチをした。エーリヒの人生で、だれかとハイタッチをする日が来るとは思わなかった。

 

 シェハザールはなにが起こったか分からなかった。いいや――勝負を見ていたすべての者が。

突如、駒が出現したのだ。盤上にはなかった駒が――。

 

 「バカな!!」

 叫んだが、遅かった。

 ラフランの隣に、突如現れた、タカを肩に乗せた僧侶の駒は、錫杖で、横からラフランの駒を破壊した。

 不意をつかれたラフランは、自身の腹に突き刺さった錫杖を見た。一瞬のことだった。いきなり盤上に現れた「暗殺者」は、名のとおり敵を暗殺し、ふたたび盤上から消えた。ラフランの腹から、バキバキと音を立てて、宇宙色の駒が崩壊していく。

 ――メルヴァ様!

 ラフランの断末魔を、シェハザールは聞いた。

 



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