百九十七話 逢瀬の霧



 

 サルーディーバは、目覚めた。

 彼女の永久の眠りを妨げたのは、焦げ臭いにおいでもなく、やたらやかましいヘリコプターの音でもなく、炭となった、真月神社の肌守りだった。

 サルーディーバは、重すぎる腕を起こし、指先で、真っ黒な炭となったそれに触れた。着地したヘリコプターからの風圧が、彼女の命の恩人を、彼方に吹き浚っていく。

 (生きている)

 サルーディーバは、あちこち痛む身体に目を配ることもできず、仰向けに寝そべったまま、空を見上げた。

 (わたしは、生きているのか)

 地球行き宇宙船も無事だ。なぜなら、気象部が写しだす人工の青空が、眼前にひろがっているからだ。

 (なんて身体が重いのだろう)

 今までできていた、神秘なる力が完全に失われていた。サルーディーバは、腕の筋肉をつかってしか、体を起こすことができなくなっていた。今は、それすらも、できそうにない。

 

 「サルーディーバ様! ご無事ですか」

 「……シグルスさん」

 ヘリコプターから駆けてくるのは、ララの秘書であるシグルスと、救急隊員だった。サルーディーバは寝そべったままだった。だが、さっそく彼女を担架に乗せようとした隊員たちを、さえぎった。

 「そこまで、なさることはありません」

 サルーディーバは、隊員のひとりに肩を貸してもらい、立ち上がった。ところどころ、軽いやけどはあったが、重症とはいいがたい。まったく無事であった。

 (月の女神よ)

 サルーディーバは、己を守ってくれた月の女神の肌守りが消えて行った方角へ、深々と、礼をした。

 

 

 カルパナとセシルは、支えあって、海から上がった。もはや火は、あとかたもない。あちこちから煙が上がっていたが、砂地を走り、水面を焼いていた火は、もはやなかった。

 海は一気に温度が上昇したが、高熱になることはなかった。火が引いていった直後から、本来の水温にもどりつつある。

 「まるで、温泉プールだったわ」

 冗談をいう気力もあった。

 ふたりは岸辺に上がって、仰向けになり、空をながめた。

 「よく、無事にすんだものね……」

 「セシルさん、ほんとうにがんばったわ」

 セシルは、きらびやかな太古の呪術師の姿は失せ、ジーンズ姿にもどっていた。カルパナのスーツもところどころ焼け焦げ、ストッキングは破れ放題だった。彼女はいつの間にか脱ぎ捨てていたヒールを見つけて、拾ってきた。

 彼女愛用の、ブルーのハイヒールは、溶けてひしゃげていた。

 「残念! これが一番、履きやすかったのよ」

セシルは笑い――荒れ果てたK25区の海岸を、ふたりで見渡した。

 打ち上げられた流木も、すべて炭化していた。遠くに見えるホテルも――ルナがここへ来たとき、アズラエルと泊まったホテルも、無残に焼けつくされていた。

 「セシルさん、歩ける?」

 「え、ええ――」

 「いちばん上の大通りまで出ましょう。ララ様の救助隊が来るはず――セシルさん?」

 セシルが、ホテルの方を見て、目を見張っていた。彼女は、ホテルを見、自分の手のひらを見、それから、三百六十度、あたりを見回した。

 そして最後に、カルパナを見た。

 「……見える」

 「え?」

 「目が見える! 目が――」

 カルパナにも、ようやく分かった。かすかな薄青を灯していたセシルの眼球は、濃い黒と青の輝きを取りもどしていた。

 「セシルさん!!」

 カルパナは、喜びに目を潤ませ、口を覆い、それから、セシルを抱きしめた。

 おそらく、完全に見えなくなるだろうと、マミカリシドラスラオネザにも言われていたセシルの視力は、完全に戻っていた。いや、セシルは生まれたときから目が悪かった。

 こんなにもはっきりと、様々なものが見えたのは、はじめてだった。

 「カルパナさんの顔が、はっきり見える!」

 セシルは、泣きながら――それでも、目を見開いて、カルパナの顔を見ようとした。

 「カルパナさん、ほくろがあるのね、おでこのところに、ちいさな――」

 カルパナも泣き笑いしていた。

 「そうよ! はやく、ネイシャちゃんの顔もしっかり見てあげて」

 「ええ――」

 「セシルさんに、カルパナさんですか!」

 大通りのほうに、救急隊員がかけつけていた。

 

 

 「クラウドの、生の声が聴きたい」

 マミカリシドラスラオネザは、指先にした、ほんのちょっぴりの火傷の手当てを受けながら、ため息交じりにそう言い放った。

 ピンピンしていたのは、彼女一人かもしれない。

 K33区に来たララの救助ヘリに乗っていた救急隊員は、あちこちで倒れ伏している神官たちの手当てをしている。

 「クラウドが、ずっと私のそばで名を呼んでくれていたなら、わたしひとりで宇宙船を火から守ったものを」

 そば仕えの者は、はげました。

 「きっと、ご褒美に、またクラウド様が呼んでくださいますよ」

 「ふむ」

 マミカリシドラスラオネザは、当然のようにうなずいた。

 

 

 そのクラウドは、エーリヒとともに、しばらく対局席に座っていた。すでに、どの画面も消え、ブラックライトだけが、ひかえめに、クラウドとエーリヒの足元を照らしていた。

 「……生きてるね」

 「すくなくとも、死んではいないと思うが――ほかの人間に会うまでは、信用しかねる」

 「俺たちは、お化けだって?」

 クラウドの苦笑に、エーリヒは肩をすくめることで返した。

 「……みんな、だいじょうぶかな」

 「それは、犠牲者は、少ないほうがいい」

 ふたりは、真っ暗な天井を仰いだ。

 「喉が渇いたな」

 「そうだね。できれば、マタドール・カフェのミルク・セーキか、ショコラを」

 「このボロボロのときに、そんなクドそうなものを?」

 「ならば、ストロベリー・ソーダ」

 「それなら、賛成」

 ふたりは、シャトランジ! のアトラクションから、ようやく出た。クラウドが放出した水は、あまり意味をなしていなかった。彼は水源の蛇口を止め、ゆっくり歩きだした。

 火はない。だが、どこもかしこも、炭になっていた。廃墟らしかった遊園地は、今度こそ、完全に廃墟になっていた。

 ラグ・ヴァーダの武神との決戦が終わった今、この遊園地の役目は終わった。ついに、新しく建て直される日が来るのかもしれない。

 考えるより先に、この乾いた喉を潤すほうが先だった。

 「りんごの建物に自動販売機が――」

 「いや、クラウド」

 エーリヒが、上空を見上げていた。白い外装に、金色の派手な龍の模様がついたヘリコプター。ララの私用機にちがいなかった。

 「救助が来た」

 

 

 「ナキジン!」

 「しっかりせえ、ナキジーン!」

 さすがに、100年分も寿命をあたえたナキジンは、もはや寿命が尽きたかに思われたが、元気そのものの二百六十歳は、いきなり起き上がった。

 「おお! びっくらこいた」

 彼は、愛用の麦わら帽子を被りなおした。

 「100年分も寿命塔にやっちまう夢を見たわい」

 「「「「現実だよ!!」」」」

 周りにいた全員が、もれなく突っ込んだ。

 「だ、だいじょうぶなんか。ナキジン!」

 「おう? ヘーキじゃ」

 ナキジンは、たしかにピンピンしていた。それ以上年を取った気配も、若返った気配もない。

 「あんたに、100年以上も寿命が残ってたってことがおどろきだよ」

 バグムントも呆れ声で言った。

 

 商店街の惨状は、すさまじかった。階下から見る限りでは、真砂名神社も、半分が焼け焦げていた。

 「ミシェルちゃんがいないわ」

 ヴィアンカが気づいて慌てたが、カンタロウが「心配いらん」と言った。

 真砂名神社の拝殿では、仰向けにたおれて意識を失っているアントニオを、イシュマールたちが助け起こしたところだった。

 「みんなあーっ! 無事か!」

 拝殿から、イシュマールの声が聞こえた。

 「だいじょうぶじゃー!!」

 だれよりも元気な、ナキジンの声が、大路に響いた。そこへ、ララの救助ヘリが、盛大な音を立てて着地した。

 「ご無事ですか――船内に残っていた方々は、全員、ここに集まっておられると聞きましたが、」

 「ええ。間違いないわ」

 ヴィアンカが言った。

 「けが人の救助を優先に――急げ!」

救急隊員は、すぐさま、階段の側面を上がっていく。

 大路に、黒いリムジンが横付けされた。

 そこから降りてきた、黒服の男たちの姿に、ヴィアンカの顔が強張った。

 全員が、黒いスーツに革靴、フロックコート。特徴のないシンプルな黒いサングラスをかけ、黒いホンブルグ・ハットをかぶっている。背格好もほぼ同じで、まるで見分けのつかない五人の男が、まっすぐにこちらへやってくる。

 「――“イノセンス”が、どうしてここへ」

 

 



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