ザボンは語った。 “逢瀬の霧”。 それは、エタカ・リーナ山岳の神の恵みであり、農作物を豊かに実らせる恩恵だが、それに加え、伝承がある。 この霧がジュエルス海から南を覆う日は、メルーヴァ姫と、兄神アスラーエルが出会っている日なのだと。 三千年前、メルーヴァ姫とアスラーエルは愛し合っていた。だが、三つ星のきずなを結ぶために、メルーヴァ姫は、ラグ・ヴァーダの武神を夫に迎えることになった。 姫と兄神は、互いの想いを振り切ったのだが、結婚のあと、あきらかになったラグ・ヴァーダの武神の本性。 ラグ・ヴァーダの武神は、メルーヴァ姫と生まれたイシュメルを、ラグ・ヴァーダ星に連れて行こうとした。 ついに、離れ離れになってしまう兄神と姫。 哀れに思ったエタカ・リーナ山岳の神が、最後の、ふたりの逢瀬の場をつくるために、深い霧で国を覆った――。 「それが始まりとされています」 逢瀬の霧が出たときは、家に閉じこもること。姫と兄神の逢瀬を邪魔してはいけない。霧の中、そとをうろついて逢瀬を邪魔すれば、エタカ・リーナ山岳の神の怒りを買う、と。 「伝承ではありますが、じっさいに、この霧は半端でないほど深くて、まったく身動きが取れなくなるんですよ」 ホワイトアウトとほとんど同じ状態です、とザボンは言った。 「……」 この霧が出るのは、一年に一度。その日は、アストロスのナミ大陸、全機能がストップするほどであると。 「飛行機も飛べませんし、車も出せません。ナミ大陸の住民が、外に出ない日なんです」 説明を受けている間にも、霧はますます濃くなってきた。 「たしかに、これでは、身動きが取れん」 バスコーレンも嘆息交じりではあったが、納得したようだった。すでに、めのまえのフライヤの顔も、ザボンの顔も見えないのだ。 だれの顔も確認できなくなるほど深い霧の中、おどろくほど正確に、メリッサがフライヤの居場所を捉えた。 「フライヤ様」 「は、はい!」 「ただいま、宇宙船のペリドットから連絡がありまして、こちらへ来ているとのことです。わたくしは、そちらに合流します」 「分かりました!」 フライヤは、見えない中で、メリッサと握手をした。 「いろいろと、ありがとうございました!」 「いいえ。こちらこそ。あらためて、ごあいさつに伺います。それでは」 メリッサも、会釈して、その場から消えた。 アズラエルとグレンも、天使たちに抱えられて、クルクスに向かっていた。 「ものすごい霧ですね」 アズラエルを抱えていたマルコが言った。 「でもおまえは、位置が分かるんだろ?」 テッサに抱えられていたグレンが、嘆息した。さっきまで、天使を手のひらに乗せるほどでかかったというのに、これだ。もとにもどったら、天使にお姫様抱っこされて浮遊しなければならない悲しい現実であった。 どちらにしろ、アズラエルもグレンも、ずいぶん疲弊していたので、この臨時タクシーは非常に助かった。 「ええ。クルクスの位置は分かりまス」 クルクスに近づけば近づくほど、霧は深さを増してくる。ふいに、アズラエルが身を起こした。 「どうしました? お義兄さン」 なぜかマルコは、さっきから、アズラエルをお義兄さんと呼ぶ。百八十歳の弟をもった覚えはなかった。この天使は、共通語の発音がアヤシイから、アズラエルを「兄神」という呼び方をしているのかもしれないとアズラエルは勘違いした。 「そのお義兄さんっていうの、なんだか気になるからやめてくれ――あのな、クルクスの手前で降ろしてくれ」 「え?」 「中に入らねえのか」 グレンも言ったが、アズラエルはまっすぐ、ふた柱の武神を見つめていた。 「おお、武神像だ」 テッサが、顔を輝かせた。 クルクスの門を守るようにそびえたつ武神の胸元が、霧のすきまに見えた。 「では、ここで降ります」 「ああ」 マルコとテッサは、アズラエルの指示通り、門の手前に降りた。 ふた柱の巨像の足元は、黒い泥土に浸食されて、腐食していた。商店街も、崩壊しているようだ。 「――ルナ!」 最初に見つけたのは、グレンだった。深い霧の中、ルナが、門の向こうに座っている。ルナひとりではない。彼女が膝を貸しているのは、体格のいい男性だ。 仰向けになった男性は、身動き一つしない。 「なんだ――アレは、もしかして――」 「――メルヴァ?」 天使たちが身を乗り出したのを、アズラエルが止めた。 「待て」 「なんだ? 今さら、怖気づいたのか?」 グレンがからかうように言った。 「今さらルナに会わせる顔がねえとか――」 「そんなんじゃァ、ねえ」 アズラエルは、首を振った。 「待て、と言ってる」 「だれが」 「“アスラーエル”が」 ルナは知っていた。“逢瀬の霧”のことを。 ケンタウル・シティから、ジュエルス海沿岸に行くまで、ルナたちは、何度か小休止で、コンビニエンスストアや給油所、スーパーなどに寄った。そのとき、アストロスのパンフレットをいくつかもらってきた。 車内で読んだそれには、“逢瀬の霧”のことが書いてあった。 メルーヴァ姫と兄神アスラーエルのために、エタカ・リーナの神様がつくってくれた、逢瀬の時間。 年に一度おとずれる、深い、深い、霧の帳。 それを読んだとき、なんともロマンチックな伝承だと思ったが、ルナは自分がメルーヴァ姫だということに気づいて、うさ耳をぴこたんと揺らしたのだった。 スイートルームで、休息を取っていたときも、テレビの天気予報で、「今年の“逢瀬の霧”はまもなく来るだろう」とあった。 ルナがメルーヴァ姫だったころ。 アスラーエルと、最後に、ふたりきりで会ったひととき。 (エタカ・リーナの神様) ルナは願った。 (どうかメルヴァと、アンジェにも、逢瀬の時間をください) |