「メルヴァ……メルヴァ」 アンジェリカは、かつて抱え込めるほどちいさかったメルヴァが、こんなにも大きくなっていたことに驚いた。頭しか、抱え込めない。 メルヴァは、シェハザールのように、大きく凛々しい、おとなの男になっていた。 最後に会ったのはいつだったのか、アンジェリカにも、もう思い出せない。 アンジェリカの記憶にあるのは、自分と背も体格も変わらない、ちいさな少年だった。 (メルヴァ) 顔は、ひどく安らかだ。 左ほおに、一直線に走ったキズと、ボサボサの白髪が、メルヴァのここまでの道程を、アンジェリカに思い知らせた。 アンジェリカはそっと、メルヴァの唇にキスをした。 昔、飛び上がって喜んだ彼。 だれもが醜いと言ってはばからなかった自分とのキスを、天に舞い上がるかのように喜んだメルヴァ。 唇が触れるようなキスを、たった一度だけ。 ――唇は冷たかった。 だけれども、彼は少し、微笑んでいる気がした。 錯覚でもいい。 見たときから、メルヴァの顔は、安らかだった。 それだけで、よかった。 「おかえり、メルヴァ」 アンジェリカは、やっと、言えた。 「メルヴァ……」 サルーディーバが、アンジェリカごとメルヴァを抱きしめて、泣いていた。 「よく――頑張りましたね。よく――ここまで」 先は、言葉にならなかった。 そのまま、アンジェリカは、メルヴァの胸に顔を埋めて号泣した。迸るように、彼女は泣いた。ルナも、泣いた。 アンジェリカの慟哭を、白い霧がつつんでいく。 白い世界に、ふたりの――いや、三人の、ちいさなすすり泣きと、泣き叫ぶ声がつづいた。 天使やペリドットたちが見守るなか、霧は晴れていく。 サルーディーバもアンジェリカも、メルヴァから離れようとはしなかった。だが、逢瀬の時間は、永遠ではなかった。 ずいぶん――ずいぶん長い時間が経ったようにも思えたし、十分ほどしか経っていない気がした。 ルナは、視界に、L20の軍人が立っているのをとらえた。 ルナも驚くほど小柄で、軍人らしからぬ女性だった。L20の軍服を着て、部下を従えている。身分の高い軍人に違いなかった。ルナはどこかで、この女性を見たことがあると思った。 「L20陸軍メルヴァ――いいえ、ラグ・ヴァーダの武神討伐隊総司令官、フライヤ・G・メルフェスカです」 彼女は言い直した。だれもがおどろいた。彼女の言葉から、敵視されているのがメルヴァではなく、ラグ・ヴァーダの武神だと、わかったからである。 それに、彼女は、それほどまでに、「総司令官」といういかめしさとは、対照的だった。 「革命家メルヴァの身柄を、お預かりします」 「いや、やだ――メルヴァ! メルヴァ!!」 アンジェリカは泣きすがったが、メルヴァは、担架に乗せられ、シートをかぶせられて運ばれていく。 「アンジェ」 サルーディーバも泣きながら、アンジェリカを引き留めた。だがフライヤは、ふたりに向かって、思いもかけないことを言った。 「メルヴァの遺体は、礼を持って、埋葬したいと思います。わたしの意見が通るか分かりませんが――できるかぎりのことは」 フライヤの言葉に、ルナも目を見張った。 「ご同行、なさいますか?」 フライヤは、サルーディーバとアンジェリカに聞いた。なんと、このL20の総司令官は、メルヴァとの別れの時間を、つくってくれると言っている。 全世界指名手配の革命家だ。遺体ですら、どんなあつかいをされるか、分かったものではなかったのに。 メルヴァが運び込まれていくジープの荷台に、サルーディーバとアンジェリカも乗った。メリッサもだ。 「ルナ」 アンジェリカが、ジープに乗る前に、涙まみれの顔を上げて微笑んだ。 「ありがとう……」 ルナは、それを見送った。 フライヤは、なにか言いたげに、ルナのほうを見ていた。彼女は、先ほどまでの毅然とした態度がウソのように、戸惑った様子を示し、やがて、ルナに声をかけようとして――バスコーレンに呼ばれてしまった。 フライヤは、ルナを二度ふり返り、会釈をし、あわてて、バスコーレンのほうへ向かった。 「……」 ルナは、尻もちをついた姿勢で、ぽつねんとひとり、門に取り残された。 霧はすっかり晴れた。 L20のジープが、ひろい道路を、クルクスの奥向かって、何台も走っていく。 ルナは、役目を終えたことを悟った。 足がフラフラしたが、ようやくしびれも失せて、立てるようになった。涙を拭き、パンパン、とスカートのすそを叩き、城にもどろうと、顔を上げたときだった。 アズラエルが、立っていた。 ルナは、信じられないものを見たように、口をぽっかりあけ――それから、「あじゅ?」と首をかしげて言った。 「おまえ、すごいアホ面してるぞ」 再会の、第一声が、これとは。 ルナのほっぺたは最大限に膨らみ、それから――しぼみ、くしゃくしゃに歪んだ。 「あじゅ!」 今度はルナが、アズラエルに飛びついた。アズラエルはしっかりと受け止めた。 「ルゥ」 アズラエルの口から、久方ぶりに、ルナの愛称がこぼれた。ルナは、涙が止まらなくなった。 「ルゥ」 「あじゅ」 「ルゥ――離れて、悪かった」 アズラエルが抱きしめる。ルナは、しっかりと、アズラエルの背に腕を回した。 グレンが苦笑し、天使たちはニコニコと笑っている。 “逢瀬の霧”は、メルーヴァ姫とアスラーエルが出会える日だった。 ほんとうだったと、ルナは思った。 でも、この逢瀬は、最後ではない。 もう、二度と離れないのだ。 メルーヴァ姫とアスラーエルは、霧が晴れた今、そう誓うのだ。 今日からは、きっと“誓いの霧”になる。 「あじゅ、あじゅ、あじゅ――」 肘に、うさぎのいたずらがきをしてごめんね。 ルナは号泣しながら謝った。鼻水と涙まみれの顔を拭いてやりながら、アズラエルは笑った。 「なんでもねえさ」 「足の小指に、ライオンかいて、ごめんね」 「まだ許せるな」 「かかとに、トラさんを描いて――」 「てめえ、いくつラクガキしてんだ!!」 「ぴぎっ!」 さすがにアズラエルは怒り、ルナは襟首をつかまえられたうさぎになったが、すぐに機嫌は直った。 「やれやれ……なんつう逢瀬だよ」 姫と騎士の逢瀬にしちゃ、あまりに色っぽくねえ。 呆れ声のグレンに、「ほんと、そうだね」と大魔王の声が重なったので、グレンは飛び上がった。 「セルゲイ! おまえ、どこから出てきた」 「起きたら、ジュエルス海にぷっかり浮いてた俺の気持ちなんて、だれにもわからないよ」 セルゲイは、全身びしょぬれだった。ラグ・ヴァーダの武神にとどめを刺した、夜の神の最終形態がそれである。 「気の毒に……」 すくなくともグレンは、海に浮かんでいるなどということはなかった。 「セルゲイ! グレン!!」 アズラエルに抱えられていたうさぎが、ようやく気付いてくれた。 「よお、ハニー。弟神と密会しようぜ」 「ここは、月の女神と夜の神の逢瀬も必要だろ」 今回ばかりは、セルゲイも譲らなかった。なぜなら、ふたりもがんばったのだ。ここはお姫様からの祝福が必要だった。 アズラエルは唸った。 「俺に譲るんじゃなかったのか、今世は!」 「ねぎらいくらいあったっていいだろ」 「そうだよ。これじゃ、びしょぬれになった意味がない」 セルゲイは、黒いシャツを脱ぎ捨てて、絞りながら言った。 「みんな、がんばったのです! それからあたしも、がんばったのです!!」 ルナの宣告に、セルゲイとグレンは、かわるがわるうさぎの髪の毛にキスをした。便乗して天使たちも、「メルーヴァ姫」さまに祝福しようとするのを、アズラエルは威厳をもって止めなければならなかった。 ペリドットとシグルスが、苦笑気味にその様子を見ているのに気付いたルナが、今度はふたりに飛びつくまで――あと、数秒。 |