フライヤたちを城の外から見送ったルナは、部屋に戻ったとたんに、うさ耳をぴこーん! と立てた。

 「今日は忙しいうさ耳ね」

 夕食時も過ぎて、午後八時過ぎである。ミシェルが呆れていったが、ルナの耳はせわしなく揺れ出した。

 ミシェルはルーム・サービスのメニューを手にしている。

 「グレン、夕ご飯食べないの」

 「ああ、今から行かねえと、十時の約束に間に合わねえ」

 グレンは腕時計を見ながら言った。ケンタウル・シティのスペース・ステーションで、スタークと待ち合わせる予定だ。そのスタークはもうとっくに出ている。さっき、フライヤを迎えに来たサンディが、連れ帰ったところだった。

 ルナとフライヤの話は、予想以上にはずんでしまったのだった。

 

 「クルクスの外の、ガクルックスの空港から行けば、すぐ――」

 ルナのぷるぷるしていたうさ耳アンテナは、ついにピタリと停止した。

 「サルーディーバさんが、いる」

 「――は?」

 「サルディバさんがいる! グレン、一緒に来て!!」

 「へ? あ、おい!!」

 ルナは、グレンの手を引いて、走り出した。

 「決戦から、ルナちゃん、絶好調だな」

 クラウドも感心して、後ろ姿を見送った。

 

 「ったくよう――もう、間に合わねえじゃねえか」

 グレンは坂道を降りながら、スタークに電話をした。九時になってしまった。いまからでは間に合わない。

 グレンを引っ張ったルナは、やっと城から出てきたところだった。ルナは勢いよく飛び出したはいいが、低速は変わっていなかった。

 アーチ状の門のところに、震えながらうずくまっているサルビアを見つけたのは、グレンが先だった。

 

 「……サルーディーバさん?」

 細い肩が、びくりと揺れた。

 「わ、わたくしは、もう、サルーディーバでは……」

 「なら、サルビア」

 グレンは手を伸ばした。

 「そこから出て来い」

 グレンは不機嫌だった。予定は台無しだ。ケンタウルのスペース・ステーションに行く予定だったのに、ペットうさぎが、いきなり外に連れ出すものだから――。

 

「……!」

サルビアも、目を見開いた。そんな物言いをされたのもはじめてだった。そもそも、この男は、がさつで粗雑で、ひとに命令するのに慣れた男なのだ。軍事惑星の頂点に立つべき一族の嫡男として、そう育てられてきたのだから。

 サルビアは、屈辱に震えた。

たしかに、わたしはひととなったが、下等におとしめられたわけではないのだ。

 

彼女が動かないので、グレンは嘆息した。

 「そっち泥だらけだから、行きたくない。俺は革靴を汚したくねえんだ」

 「命令など――しないでください!」

 「え?」

 「わ、わたくしは、わたくしは、たしかにサルーディーバではなくなりましたが、あなたに命令される筋合いは、ありません!!」

 

 グレンの眉が上がった。こめかみに青筋が立つ寸前の顔だった。

 「あァ!?」と怒鳴らなかったのは、サルビアのそれが、虚勢だとわかっていたからだ。

彼女の身体も声も震えている――あわれなほどに。

 

 「めんどくせえ女だな……」

 盛大なため息とともに、泥だらけの区域に、一歩足を踏み入れたグレンだったが、うしろからすさまじい頭突きを食らって、見事に倒れ込んだ。滑ったのだ。あまりな不意打ちだった。

 顔面まですべて泥だらけになったグレンは、叫んだ。

 「なにしやがるルナ!!」

 「めんどくない! めんどくないのです!!」

 

 このちびウサギ、どうしてやろうか。

 青筋だらけのグレンは、めんどうな女がもうひとりいることを思い出し、うさぎのほうは、あとで尻っぺたでも引っぱたいてやろうと思っていた。

 グレンは、泥だらけの袖で顔をぬぐい、ますます泥だらけになって、しかたなくあきらめた。そして、やっと坂道の裾にいるサルビアのもとまで行って、手を出した。サルビアは、うずくまったままだ。

 「わたしは――」

 「グダグダ抜かすな。俺は、腹へってんだよ」

 ケンタウルへ行かないのなら、このまま部屋に戻って、あたたかい食事をとりたい。

 「きゃあ!?」

 有無を言わさず抱き上げられたサルビアは、まだ震えていた。

 「なんだこりゃ? どこですっ転んだんだ」

 サルビアも、泥まみれだった。

 「こんな――わたしもあなたも、泥まみれで」

 「しょうがねえだろ、好きでそうなったんじゃねえ」

 

 サルビアは、グレンの腕の中で必死に身を固くした。けれども、グレンのセーターを、こぶしに筋が浮くほどのつよさで握りしめていた。

 彼女の頬は、泥と、涙に濡れていることに、グレンはようやく気付いた。

 そして、サルーディーバであった彼女が、たったひとりで、知らない街を歩いていたことの、奇妙さにも。

 彼女の衣装が、サルーディーバのものではなく、ふつうの洋服だったことにも、やっと気づいた。

 

 サルビアの目は、どこも見てはいなかった。

 これがあの、サルーディーバだろうか。

 真砂名神社でグレンを庇い、守り人たちを諭して引き取らせたあのときの。

 地獄の審判のときに現れて、皆を勇気づけていった、あのサルーディーバ。

 

 ちがう。

 あのサルーディーバが偽物だったとはいわない。だがグレンは、「サルビア」を見ていた。ずっと見ていた。

 「サルーディーバ」として作り上げられていった、あわれな少女の姿を。

 

 「わたしは――わたしは、ここにいるの?」

 「あン?」

「わたしは、ここにいるのですか。ほんとうに? わたしは――」

 

サルビアは、震えながら、グレンの胸に顔を埋めた。心細さが、グレンの胸を突いた。彼女は、本当の意味で、「ひとり」になってしまったのだ。

もはや、サルーディーバという彼女を縛る鎖も肩書もなく、荒野に、ひとり取り残された、人間の女。

グレンと同じ。

頑強な壁に囲まれたプリズンからいきなり解放されて、途方に暮れている、人間だ。

眼前にひろがっている自由は、身の置き所がないほどに、あまりに広くて――。

 

「おまえがここにいなかったら、俺が抱いてるのはなんだ。泥人形か?」

グレンは、泥だらけの手で、サルビアの髪を撫でた。

「泣け」

サルビアの目に、大粒の涙が浮かんだ。

「泣けなくても、泣け。――赤ん坊は、泣くんだってよ。自分がここにいるって、主張して」

 

――城から出てくる際に、ルナがひとりごとのように叫んだ言葉だった。

 

「ふ、ううっ……うえ、……うあ、」

迸るように、サルビアの口から声が出た。涙がこぼれた。嗚咽が、あふれるように漏れた。身体を震わせて泣く――グレンの胸で。

 

サルビアはベベ(赤子)。今日から赤ちゃん。

もう「迷える子羊」はおしまい。

赤ちゃんは迷わない――ゼロから、自分の人生を生きていくの。

 

「ふべっ!!」

グレンとサルビアが会ったことをたしかめ、先に城へもどろうと、坂道をもどっていたルナは、メルーヴァ姫のリカバリがほどけた瞬間に、転んで顔面からいった。

(グレンを泥まみれになんか、するからよ)

メルーヴァ姫が呆れ声でいったが、ルナはすっくと立ち、意気揚々と城に入っていった。

「サルビアさんのお洋服を、用意しなくっちゃ!」

それから、美味しいルーム・サービスと、あったかい紅茶も。

 

グレンに抱きかかえられて城にもどるサルビア。そして、ZOOカードボックスを抱えて、こちらにもどってくるアンジェリカ。

ルナのまんまるい後ろ姿を見て、メルーヴァ姫は微笑んだ。

 

――可愛いわたしの子どもたち。

どうか、しあわせに、生きてね。

 

 



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