「オグオ……ブヘホ……オボエエエ……」

アニタは、階段に手をついた。泣きすぎか二日酔いかどちらか分からないけれども、吐きそうだった。しかし、ここに来るまえ、トイレで盛大にリバースしてきたので、余分がまったく残っていない。

昨夜の失恋から、なんだかいろいろと踏みにじられるような思いばかりしている。

(やっぱり、いいことがつづくと、悪いことも起きるよね……)

これでもアニタは、クシラが好きだったこともあるのだ。クシラがゲイだと知るまえは、親切なお兄さんだと思っていた。いつも励ましてくれ、愚痴を聞いてくれ、からかわれもするけれど、本気で困っているときは寄り添ってくれる――そんなクシラが好きだったが、彼はアニタを女というか、恋人には見てくれない。

アルベリッヒも優しかった。優しくしてくれた人間がすぐ好きになってしまう自分もよくないと思うが、好きな人同士がくっついてしまうことのショックを――どう表現したらいいのだろう?

アニタは正直、胸がつぶれそうなくらいせつなかった。

 

(くっそめんどくせえ……)

こんな階段、とっとと上がって、今日一日は悲しみに打ちひしがれたい。それで明日には立ち直って、K33区の取材をつづけなければ。ベッタラは放っておいて、バジさんがいるからいいし、やることは山ほどある。

(あと、半分だけじゃん……)

 上がりたくない。めんどうくさい。つらい。こんな階段上がってどうするんだ。早く降りて、つめたいジンジャーエールが飲みたい。

 (――おかしい)

 こんなのあたしじゃない。それはたしかに、「前世の罪が裁かれる」階段だって聞いたときは驚いたけど、リサちゃんもキラちゃんも、みんな上がった。ちょっとつらいだけだって言ってた。

 そうだ。たしかに、ちょっとつらいだけだ。こんな状況よりつらい日は、たくさんあった。

ただ、階段を上がればいいだけじゃない。キラちゃんは山登りっていったけど、これはただの階段だ。登山よりはずっと楽。それなのに、どうして力が出ないの。どうしてこんなに、やめてしまいたいの。

 あと半分よ、半分だけじゃない。

 上がればいいだけだ。

 これより長い階段を、アニタは上がったことがある。

 (――あと、半分)

 アニタの目が、ギラリと光った。

 

 「おお、“転換”した」

 上から眺めていたクシラが、アニタの表情が変わったのを見て、口角を上げた。

 「転換?」

 拝殿で真砂名の神に、階段を上がり切ったこと、罪を減じてもらったことに対して、リュナ族の礼をしてきたアルベリッヒは、クシラの隣に立ったところだった。

 「“転換”だ。アニタの“第三層”がはがれた」

 「――え?」

 

 階下では、ちょうどルナが、シャイン・システムから黄金の天秤を持って飛び出してきたところだった。

 「夜の神さま! てんびん!! てんびんもってきたよ!!」

 「いったい、なにがはじまるの」

 「アニタさんが、階段を上がっていらっしゃるのですか」

 ちょうど屋敷で行きあったのか、サルビアとアンジェリカも一緒だった。ルナが天秤を差し出すと、天秤は勝手にルナの手を離れ、階段の下に置かれた。

 それを、ロイドとキラたちが、口をあけて見つめている。

 

 「ほ?」

 ルナを右手に抱え、左手にルナのZOOカードを持ち、紅葉庵の外のベンチに腰掛けたセルゲイこと、夜の神――。

彼が指を鳴らすと、ZOOカードがセルゲイの手を離れ、空中で、宇宙色に輝きだした。

 ルナの銀色のZOOカードボックスが、黒曜石になり、星々の輝きをちりばめた小宇宙の箱になる。

 

 「わあ……!」

 セルゲイの膝上のルナも、アンジェリカたちも歓声を上げた。ロイドだけが、「!?」という顔でそれをながめている。メンズ・ミシェルが、「そろそろ慣れろよ」とロイドの肩を叩いてそう言った。

 

 セルゲイの指の動きにまかせて、箱は展開した。カードケースは虹色だ。純黒の外箱に対して、ずいぶん華やかな色あいだ。

カードの世界は、ちいさな宇宙。真っ黒な世界で、鈴が鳴るような音とともに、たくさんの銀河がはじけている――銀河から、一枚のカードが飛び出す。

「パンダのお医者さん」のカード――セルゲイのカードだ。セルゲイの長い指がピタリとカードに突きつけられると、パンダの上に王冠が現れた。

「パンダのお医者さん」が、一時的に「ZOOの支配者」になったのだ。

 セルゲイIN夜の神は、パンダのカードの横に、もう一枚、カードを呼び出した。

アニタの、「元気な白ツル」のカード。

 

『いま、アニタが背負って上がっているのは、三千年前、アストロスで生まれた人生の、ひとつまえの前世の罪のためだ』

 

セルゲイが指を鳴らすと、「パズル」の画面が表れた。

階下のみなは、アニタそっちのけで、ZOOカードを囲んでいた。夜の神は、起動したパズルの画面に首を傾げ、

『リーブロ・イルストラード(絵本)』

と唱えた。とたんに、デジタル画面は、おおきな絵本の形になった。

 

「こ、これなに!? この呪文、初めて聞いた――リーブロ・イルストラード――」

アンジェリカは、メモすることを忘れなかった。あわてて紅葉庵の看板娘からメモ帳をもらって、書き留めた。

『説明するときは、こちらのほうが皆に分かりやすい』

なかなか親切な夜の神だった。

(居留守のリーブロランド……覚えました)

あいかわらずルナは、間違って覚えた。

 

『アニタは、アストロスに生まれるまえ、L72に生まれている』

なぜか、リサがだれよりも熱心に聞いていた。

『アニタは男で、ふたりの娘の父親だ。娘は、クシラとニック。まあ、そこそこ働きのいい、元気で気のいい男だったのだが、ゆいいつの欠点は、酒グセが非常に悪いというところでな』

ルナたちは、顔を見合わせた。アニタも、酒グセが悪いと言えば、悪いかもしれない。ふだんからハイテンションなので、あまり違いが分からないが。

『その、サイアクの酒グセで、ふたりの娘の結婚を、台無しにしているんだ』

夜の神の説明のたびにめくられていく絵本のページ。そこには、大酒乱のツルが、結婚式場を大混乱に陥れている絵があった。

 

「これって――アル!?」

レディ・ミシェルが指さした絵本の、新郎うさぎはベージュ色のうさぎ。あんな大酒乱の父親を持つ娘とは結婚させられないと、ベージュ色のうさぎは、自分の親戚たちに連行されていく。涙目で、それを見送る花嫁クジラ――。

 

『とにかく、この酒グセのせいで、アニタは仕事を三回もクビになり、クシラとニックの結婚を、一度ずつ邪魔している』

「……」

『幸運というべきか――彼は酒で身体をやられて長生きはしなかった。そのため、娘ふたりも婚期はおくれたが、結婚はできた』

 

「わか、わかった!」

リサが、手を打った。

「つまりアニタさんは、その酒乱親父だったころの罪を抱えてあがっているのね? それで、二日酔いのときにあがるはめになって」

「アニタさんがフラれ続けるのも、もしかして、娘たちの結婚を邪魔したから?」

レディ・ミシェルも聞いた。

 

『そうだ』

夜の神はうなずいた。

『男色家を好きになるというのは、三千年前、ニックと部下がともに倒れた姿を見て衝撃を受けたということからきている。だが、そもそも三千年前、ニックと結ばれることが叶わなかったのは、もとはといえば、そのまえの前世が原因だ』

「――!」

『ようするに、アニタの恋が成就しないすべての原因は、そこにある――見ていなさい』

 

セルゲイの左手が、夜の神の黒衣になった。その黒衣が、階下の黄金の天秤にかざされると、天空から、ふわふわと、白い羽が降りてきた。白鳥の羽のような、ひとひらの、真っ白な羽――。

その羽が、ルナたちから見て、左の天秤の皿に乗った。夜の神は、アニタのカードを指ではじき、天秤の右側の皿へ乗せた。

 

『“マァト”』

 

夜の神が唱えると、ガチャーン! と金属の扉が閉まるようなすさまじい音がして、天秤がかたむいた。アニタのカードが置いてあるほうが、沈む。

『見ろ、すでに“転換”している』

「て、てんかん?」

ルナは口をあけてそれを見ていたが、夜の神の言葉に首をかしげた。

『“転換”とは、ふだん身体の奥で眠っている魂が表に出てくる現象だ。肉体が危機におちいったり、負けるものかと闘争心を燃やすと出てくることが多い』

「火事場のクソ力ってやつか」

アズラエルもうなずいた。

 



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