「きたねえから、早く拭け」

 「ホゲッ、オゴッ、ホッグ、……」

 アニタは階段から降りても、クシラにいじられながら、ナキジンから借りたタオルで顔面を拭いていた。

 「ホグア……だって、嬉しくって」

 お姫様なんて言われたの、あたしの人生ではじめてだもん、とアニタは、やはり目と鼻と口からほとばしり泣いた。泣きすぎで、目はすっかり腫れぼったかった。

 「すげえブスだな」

 「殺すぞホモ野郎!!」

 クシラとアニタは、はた目から見ても仲がいいとは思えないが、アズラエルとグレンも似たようなものだ。

 

 アニタたちが拝殿でお参りを済ませ、階段を降りてくるころには、雪が降ってきた。夜の神はいつのまにかいなくなり、ルナは天秤とZOOカードを紅葉庵に避難させ、みんなそろって降りしきる雪を眺めながら、あたたかい店内に入った。

 セルゲイは、夜の神がお帰りになられたとたんに、その場に卒倒した。だれも支えがなかったために、休み場の番傘を巻き込んで、ベンチの後ろにひっくりかえった。すぐ目は覚めたが、セルゲイは思い切り打った頭を撫でながら、

「こういうのって、神様にご意見してもいいのかな? たのむから、撤収するときは現在地を考えてくれって」

アストロスでは、海のど真ん中で撤収されたセルゲイである。彼はうらめしげに、頂上の拝殿に向かって言った。

 

 「アニタは、社会部の記者だったって、ホントなの」

 クラウドが聞いたことがきっかけではあったが、アニタは、宇宙船に乗るまえのことをぽつぽつと話しはじめた。さすがの「元気な」ツルもくたびれたらしい。いつも軒並み急上昇のテンションは、平行になった天秤皿のように安定していた。

 「ホゴッ! どこから聞いたの」

 「カブラギ」

 「ああ――そっか。うん。あたし、ほんとに社会部の記者だったよ」

 「らしくねえよな」

 ふふっとクシラが笑う。

 「うっさい!」

 アニタは全身でどついた。細いクシラは吹っ飛ばされそうと思いきや、揺らぎもしなかった。

 

 アニタは、たしかに社会部の記者だった。L56の新聞社で記者をやっていた。ルナたちも知る、有名な新聞社だ。

 「でも、あたし、社会部の記者になりたかったわけじゃないんだ」

 ベンチに座って、足をぶらぶらさせながら、言った。

 「漠然と、世界旅行に行ってみたいなって夢があったくらいで」

 「それって、わたしの夢と似ているね」

 アルベリッヒが言うと、一時的にアニタのテンションは復活した。

 「そう! そうなのよ――だからてっきり、アルは運命の相手かと――あああああ」

 アニタは全身でかなしみを表現してから、もらったお茶に集中力をもどした。「やかましいヤツじゃのー」というカンタロウのぼやきは聞き流して。

 

 「学校出てからすぐ、出版社のほうに入ってね、ファッション誌の編集のほうにいたんだけど、」

 「「「「ファッション誌!? アニタさんが?」」」」

 遠慮のないツッコミに、アニタは分かっていたと言わんばかりの顔をし、

 「それ、だれにいってもそういう反応だからね~、まあいいや。あたしはこのとおり、むかしっからかまわない性格だったから。すこしはセンスが身に着くかなって思って入ったんだけど、その会社にいたの、結局三ヶ月だからね」

 「合わなかったの?」

 キラが聞くと、

「入社してすぐ、先輩に連れてってもらった合コンで、カレシはできなかったんだけど、おもしろいヤツだってあたしを気に入ってくれた人がいて。あたし物おじしないし元気だし、体力ありそうって――それだけが取り柄だけどね。それで、そのひとの勤めてる新聞社の社会部の記者になったの」

 「……その先輩が、アニーちゃんが地球行き宇宙船に乗る理由になった、先輩?」

 「うん」

 アニタは、ニックの言葉にうなずき、

 「あたし、それなりに記者やってたんだけど、その先輩に失恋して、会社辞めたの」

 「その先輩が、ゲイだったと」

 クシラが笑い、

 「っそおおおおおなのよおおおおおおお!!!!!」

 アニタは自分と体格が変わらないクシラを、ぶんぶんぶんと揺さぶった。

 「高校のとき好きになった先輩もゲイ! ぜったい運命の相手だと思ってた、その社会部の先輩もゲイ! アルもゲイのクシラに取られた――ぜったいなんか呪われてるのよあたし――!!!」

 「ゲイの呪いは解けたよな、とりあえずは」

 メンズ・ミシェルの言葉に、皆はうんうんとうなずいた。

 

 「ほんとに、呪い解けたのかな~、あたしの運命の相手はいずこ」

 アニタのつぶやきに、全員が「!?」という顔をし、となりのニックを指さすのだが、自分の世界に入ったアニタは気づいていなかった。ニックはニックで、「お茶おかわり~!」と呑気な声をあげている。

 アニタは、勝手に話しはじめた。

 

 「そうそう――先輩に振られて、どん底で。あのときはもう、五年越しの恋が破れた瞬間だったから。ものすごいメンタルやばくて、会社辞めて、マンション引き払って、実家にもどったの。そいで、地球行き宇宙船に乗った」

 「ずいぶん飛んだな――チケットが当たったってことか?」

 メンズ・ミシェルが、聞くと、アニタは首を振った。

 「ううん。叔母さんが買ってくれたの」

 アニタの言葉に、ほとんど全員が仰天した。

 「マジ!?」

 「アニタさんって、セレブ!?」

 「あ、でも、L56出身だもんね」

 キラやリサが口々に言うと、アニタは苦笑しつつ首を振った。

 

「うちはね――てか、うちの両親は、そんな貧乏でもなければ、裕福でもないっていうか――L5系では下のほうかも。実家っていうか、本家は、L66。あたしんちはたいしたことないんだけど、パパのお姉さんふたりが、ものすごい実業家なわけね」

 アニタは気を取り直して話をつづけた。

 「L55に本社があって、L06とかL6系にリゾートホテル経営してるの。あたしのパパは末っ子の弟で、お姉さんふたりに甘やかされて育ってるから。会社も、上のお姉さんの会社に籍を置かせてもらってて、あんまり、仕事ができるってタイプでもない。でも、そのふたりのお姉さん、つまりあたしからしたらおばさんね、すごいんだ。あたしが住んでたうちは、下の叔母さんに買ってもらった物件だし、固定資産税とか家のメンテナンスも、みんな叔母さん持ち。ママの誕生日にって、高級車とか、避暑地の別荘とか、ポンとくれちゃうようなひとたちなの」

 「す、すごいわね」

 リサが羨ましそうに言ったが、アニタはうんざり顔でつぶやいた。

 

 「あたしは、そんなパパとママが、思春期のときはものすごく嫌いでさ……自分では、なんの努力もしない人たちなの。ママは、生まれてから一度も働いたことがないお嬢様。家事も家政婦任せだよ? あたし、ママの手料理なんて食べたことない。パパだって、遊んでばっかり。いつからだったかな……このひとたち、叔母さんたちがいなきゃ、まともに暮らしていけないんじゃないかって、不安になったのは」

 「……」

「まあ、ウチの親の話はいいけど、それで、あたしが会社辞めて家に帰ったら、上の叔母さんがいて。会社辞めたなら、ちょっと旅行でも行ってきなさいよって、地球行き宇宙船のチケットをくれたの」

 「ええっ!?」

 「それって、ちょっと旅行行ってきなさいって感覚なの」

 さすがに、ルナたちも声を上げた。アニタはふたたび苦笑した。

 

 「叔母さんたちのなかでは、そういう感覚なの。おばさんたちだって、何度か乗ったことあるんだよ、この宇宙船に。パパとママは、地球行き宇宙船に乗って、リリザでのバカンスが、新婚旅行だった。もちろん、地球に行くのが目的じゃないよ? あ、あとね、上の叔母さんは、数年に一度、カレシとこの宇宙船のレストランに食事にくるの。数年に一度しか予約が取れないからね。記念日っていって――」

 「ちょ、ちょい待ち! レストランで食事するためだけに、宇宙船に乗るの!?」

 キラが叫び、リサが湯呑を落とすところだった。

 「億単位のカネ払って!?」

 「や、ううん? なんかね、この宇宙船の株主と知り合いだから、株主優待とかで、半額?」

 「それでも、四千万超だよね」

 アンジェリカもつぶやいた。

 「いるよ? そういうひと。けっこうザラにいる」

 サルディオネとして、富裕層の人間と関わることが多いアンジェリカは、分かっていた。

 ルナは、以前グレンが話していたことを思い出し、グレンを見たが、グレンは「だろ? そういう奴もいるんだよ」と言わんばかりに肩をすくめただけだった。

 

「あたしは、おばさんたちからは、ほとんどプレゼントをもらわないできたから、かわいくない子だと思われてた。でも、そのときばかりは、ありがたく受け取ったの」

世界をまわりたかった夢もあったが、親への抵抗心もあって、地に足の着いた生活をするために出版社へ入社し、新聞社に移籍した。学校を卒業して、L5系の人間なら、だいたいエスカレーター式で入る大学にも行かずに仕事につき、九年目。

転機かなあと、アニタはぼんやり考えた。

 「いつものあたしだったら、ぜったい反抗心で『いらない』って言ってたかもしれない。でも、失恋でけっこうダメージ受けてたし、傷心旅行に行きたかった。あたしがいらないって言っても、どうせ親が行くか、叔母さんが食事に行くだけなんだって思ったら、なんか、ハラが立ってきて」

 アニタは熱弁した。

 「ふつうに新聞社で、朝から晩まで働いて――徹夜で取材先につめてフラフラになってさ――それで、この宇宙船のチケットを買える金額まで貯めるの、どれくらいかかると思う? 何十年単位だよ?」

 「……」

 ルナは、アンをこの宇宙船に乗せるために、金を貯めつづけたオルティスのことを思い出していた。

「それを考えたら、意地を張るのもバカらしくなって」

 リリザに行きたいだけの両親、食事をしに行くだけの叔母。どうせ、叔母にとっては、こづかいでも渡すような感覚なのだ。だったら、自分が行こうと思った、とアニタは言った。

 むかしから、世界を見てみたかった自分。地球に興味がある自分が乗ったほうが、チケットにとってもいいような気がして。

 

 「でもあたしは、ひとりで乗りたかった。ゆっくり自分のことを考えるひとり旅がしたかったから。一席分売ったの」

 「一席分、売ることなんてできるの?」

 ロイドが聞いた。

 「できるみたいよ。やっぱり、貴重なチケットだから、ほんとうにいっしょに乗るかたはいませんかってしつこく聞かれるけど、どこまでもいないっていえば、一席分だれかに譲渡するのは可能みたいで――それは、最初のあたしの役員が手配してくれてる。だれに渡ったかは、聞いてないなあ」

 そいつは、クシラの話によればクビになったそうなので、もう話は聞けないだろう。

 「なんか、いろいろ大変なことが終わったあとに、こんなところで身の上話してるなんて、あたし殺人ドラマの犯人みたいじゃない……」

 ふごっ! とへんな音がしたかと思ったら、ロイドが噴きだしていた。

 

 



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