アニタは結局、翌日まで起きなかった。

 日付をまたいで次の日、「しまった! 寝過ごした!」とベッドから跳ね起きたのは、十時も過ぎたころだ。

 キッチンに駆け下りると、ダイニングテーブルには、たくさんのサンドイッチとおにぎりが乗った皿が、半分以上なくなった状態で置いてあり、クシラとアルベリッヒが座ってテレビを見ていたのだった。

 「やっと起きたか」

 「おはよ、アニタさん」

 「お――おはよ」

 アニタは席に着こうとしたが、クシラがさえぎった。

 「メシを食うまえに、顔ぐらい洗えよ」

 きのうもおとついも、暴れて醜態をさらしたアニタは、さすがにおとなしくなっていた。しずしずと洗面所に向かい、顔を洗って、ジャージ姿のままキッチンにもどってきた。

 「みんなは?」

 屋敷がずいぶんしずかだ。いつもなら、この時間帯はルナやセシルもいるはずなのだが、みんなでかけてしまったのか。

 

 「先に、ルナからの伝言を」

 クシラは、クジラのイラストがついたマグカップを手にしていた。

 「あんた、そのカップ、」

 「ルナがくれたんだ。可愛いだろ」

 この屋敷によく来るメンバーの分は、専用マグカップがある。アニタも、ルーム・シェア初日に、ルナにマグカップをもらった。真砂名神社の大路界隈で買ったという、美しいツルの絵がついた、和柄のカップだ。今ではすっかり、お気に入りのカップになっている。クシラの分まであるということは、クシラもこれから、ちょくちょく顔を出すようになるのだろう。

 「あたしの精神的平和が……」

 「なにか言ったか」

 「いいえええ――あ、ありがと、アル」

 「どういたしまして」

 アルベリッヒが、自分のベージュ色ウサギのついたマグと、アニタのマグに、コーヒーを淹れて持ってきてくれた。

 

 「それで、伝言って?」

 アニタは、さっそくサンドイッチをつまんだ。

 

 「おまえはメシを食ったら、風呂場で全身みがいて、ヘタクソな化粧はせずにいつものこぎたねえTシャツとジーンズで、応接間におとなしく座ってろとよ」

 「いや、どう考えても、ルナちゃんが“こぎたねえ”とか言わないよね?」

 「俺の個人的見解も混じっている」

 「あんた、店どうしたのよ」

 「船客がほとんどいなくなったんだ――昼間は恒常的にヒマだよ。客なんかこねえ。ニックのコンビニといっしょだ」

 

 ニックの名に、アニタはいきなり熱っぽいためいきを吐いて、肩を落とした。アルベリッヒとクシラが、アニタの見えない位置で、顔を見合わせる。

 きのう、料亭まさなでは、ともだち同士と変わらない別れのあいさつを交わして帰路についたが、にぶいアニタにも、さすがに多少の変化はあったということだろうか。

 

 「アニタさんはさ――」

 アルベリッヒが、何気なさを装いつつも、微妙に緊張しまくった、かたい声で聞いた。

 「ニックのことは、好みじゃないの?」

 アニタはむしゃむしゃとサンドイッチを頬張り、ふかいふかい、ためいきをついた。

 

 「いや、もう、あのひとは“王子様”」

 「――え?」

 意外な言葉に、アルベリッヒは目をぱちくりさせた。クシラも、いきなり真顔になった。

 「王子様よ――あんなステキな人。みんな、口をそろえてニックさんはどう? なんていうけど、あたしに釣り合うわけない。マジでそう思う」

 あのひとのことを考えると、胸がいっぱい、と言いながらアニタは、さらに一口サイズのサンドイッチを、一気に五つ、口に押し込んだ。

 

 「顔はキレイで、背が高くって、明るくって、話し上手で紳士的でしょ? おまけにサイコーに優しくって、女の人が喜ぶ言葉とか、してほしいことが分かって――女の人がって言うより、あのひと、きっとすごく人を見てるのよね。だから、だれが何をしてほしいか、必要としているか、分かるんだわ。天使の星のひとだっていうけど、ホントに、あたしには天使様なの。絵本に出てくるような、理想的な天使様。昨日は本気でビックリした。あの世に行くかと思った。助けに来てくれるなんて――もうなんていったらいいの? 王子様よ、王子様としか言いようがない。助けに来るタイミングがマジ神。もう、好みとか突き抜けて、つきあいたいとかなんて思わないよ――あたしじゃ釣り合わない。わかるでしょ? ボンクラと神よ? クシラだって、そう思うでしょ?」

 

 「……そうか、そういうことか」

 クシラは、なぜか納得したようにうなずき、

 「そうは思わねえが――ニックとおまえは、お似合いだと思うけどな」

 「あんたは、いつもさんざんあたしのこと“うすぎたねえ”とか“下品”とかおとしめるクセに、なんでこんなときだけ、真顔でそんなこというのよ」

 アニタはにらんだ。

 「で、でも、わたしも、ニックさんとアニタさんはお似合いだと思うけど――」

 「アルまで!!」

 アニタは絶叫した。

 「そうまでしてあたしを片付けたいの! うるさいから!? でも、ニックさんが、あたしを恋人にするわけなんか、ないじゃない!」

 ニックも似たようなことを言っていたことを、ふたりは思い出した。

 

 『アニーちゃんは明るくて、しっかりしてて、元気いっぱい。いっしょうけんめいなところが、ほんとに可愛いよ。宇宙船に乗ってから、無料パンフレットを毎号毎月、かかさず発行し続けるなんて、ふつうはなかなか、できないよ。たったひとりになってもやってきたなんて――そういう、けなげで努力家のところも、支えてあげたくなっちゃう。ぼくは、そういうアニーちゃんが大好き。でも、彼女は魅力的だし社交的だから、モテるんだろうなあ……』

 

 「おまえらは、互いにフィルターがかかりすぎだ」

 クシラは言った。

 「ふたりとも、モテねえくせに、互いがモテると思い込んでいやがる」

 「ニックさんの悪口は許さない。ね? いくらあんたでも、許さない」

 アニタは念を押し、クシラのマグカップを凝視した。さいわいなことに、例のエプロンは身に着けていない。

 「ところで、あんたまで、ルーム・シェアするとか言わないよね?」

 「するかバーカ。俺は、他人にあわせて生活するのなんざ、まっぴらゴメンだ」

 「良かった。あたしの精神的安定はまもられる」

 アニタがほっと肩を落とし、さらなるクシラの暴言が降ってきた。それをアルベリッヒがニコニコ顔でながめている。

 「なんだ。互いに好きなら、なんの問題もないわけだ」

 アルベリッヒが言ったところで、応接室のほうが、急に騒がしくなった。みんなが帰ってきたのだ。シャイン・システムの扉の開閉音のあとに、人の話し声が聞こえた。

 「あ、みんな帰って来――」

 アニタが立ち上がったところで、今度はアルベリッヒが言った。どことなく、ウキウキした顔で。

 「アニタさん、はやくお風呂に入って。ちゃんと髪も洗ってキレイにして、応接室に行こう」

 



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