二百八話 恋の回転木馬 Ⅲ



 

 「テオ、お屋敷にごはん食べに行こう!!」

 先日の、悲壮感あふれる様子はまったく消えうせた元気な声で誘いにきたシシーに、テオはにわかに返事ができなかった。

無理もない。彼は、ずっと避けられてきたのだから。

 「――え。あ、ああ――いいよ」

 

 避けられたと思っていたことも、テオの単なる勘違いだったかもしれない、と思わせるほど、ふつうにシシーは話しかけてきた。腕時計のカレンダーを確認すると、たしかに十五日は過ぎていた。今日あたりお屋敷に行ってみようかと、カルパナと話したのは昨晩のことである。

 午後十二時を五分ほど回った時刻。昼休憩の時間だ。テオは机の上の書類を片付け、カルパナの姿を捜した。彼女は、朝から外に出ているのか、区役所に帰っている様子はない。

 

 「カルパナさんと、今夜あたり行こうと話していたところだったんだ」

 テオが言うと、シシーは目を丸くした。

 「今夜!? お昼はダメ? 今夜も行きたいけど、お昼も行きたい!」

 「俺はかまわない。――久しぶりだし、一応、アポを、」

 携帯電話を取り出したテオは、最後まで言葉をつむげなかった。シシーが彼の腕を引っ張って、廊下に連れ出したからだ。

 「行こう! はやく行こう!! あ~、今日はなんだろ、楽しみだな!!」

 明るさのもどったシシーにほっとする一方、どこかもやもやした気持ちを抱えたまま、テオはシャイン・システムがある方向へ引きずられていった。

 

 かなりひさびさの訪問なので、せめて「これから伺おうと思いますがよろしいですか」の電話くらい入れようと思ったテオは、シシーに対する複雑な心境のあまり、それもできずに突撃訪問することになった。

 しかし、屋敷のシャイン・システムは、あっさりとテオとシシーを受け入れた。

 区役所3階のシャイン・システムへ入り、屋敷のルーム・ナンバーを打ち込む。しばしの間をおいて、相手側のロックが外れた。向かいの扉が開いた先は、屋敷の応接室。シシーは元気に、キッチンに駆けて行った。

 「こんちは! ……あっ! 今日はカレーかな!?」

 たしかに、カレーの匂いが応接室のほうまで漂ってきていて、テオはいきなり食欲中枢を刺激された。久方ぶりの訪問先へ――しかも船客の屋敷にアポなしで訪問するなど、すっかり礼儀に反してしまった自分にためいきをついたところだったが、重いことを考えながらの食事は消化に悪いとすっかり切り替えて、キッチンに向かった。なにしろ、午前の業務を終えて、腹はすくだけすいていた。

 シシーは自分が設置した小鳥の巣箱に、すばやくお金を入れた。テオはそれを目で追い、自分も紙幣を滑り込ませながら思いかえした。

 『あたし、おごられるの嫌いなの!』

 と、悲壮な顔で怒鳴った彼女のことを。

 

 ふたりがキッチンに入ると、キラの満面の笑顔が出迎えてくれた。

 「久しぶりじゃない、元気してました? シシーさん!」

 「もちろんですよ~! あれ? 今日はもしかしてキラさんがシェフ?」

 「そう! テオさんの顔も、久しぶりに見た気がする」

 「ご無沙汰しています。いきなりお邪魔して、すみません」

 「いいのいいの! いつでも来て!」

 テオもキッチンに入ってから気づいた。いつもシンクの前に立っているルナとアルベリッヒがいない。

 キラがカレーの大なべを、テーブルに運びながら言った。

 「今日はみんなおでかけなの。ルナは、ネイシャちゃんとK12区に行ったよ。アルは、料理教室の奥さんたちと食事会。アニタさんは取材だし、みんなは区役所で、」

 「やあ、ご無沙汰」

 「今日はカレーだよ!」

 デニム地のエプロンをつけたメンズ・ミシェルが振り向き、ロイドがウキウキした顔で今日のメニューを発表した。

「シャイン・システムから出たらすぐわかりました。いい匂いですね」

 キッチンにいるのは、ロイドとメンズ・ミシェル、それからアンジェリカとサルビア、セシルだ。眠っているのか、キラリはいなかった。

 

 「すごい! カレーが三種類もあるの」

 シシーが歓声を上げる。キラが得意げに胸を張った。

 「あたし、役員になって、カレー専門の移動販売車やるの。いろんなカレーを研究中なんだ――おもしろいアイデアがあったらどんどん言って!」

 「――さっそく言わせてもらうけどな、この青いカレー、すげえ目にクるぞ」

 メンズ・ミシェルが、不安げに鍋のひとつをのぞき込んでいる。テオにもわかった。その鍋だけは、人類が近づいてはいけないようなオーラを放っている。

 

 「テオさん、いいから座っていて。すぐ、用意ができるから」

 「あ、ええ――なにか、お手伝いすることは、」

 「今日は、人数も少ないし、夕食ほど皿数は多くないから、いいのよ」

 セシルにうながされ、テオは素直に席に着いた。シシーは、カレー皿をアンジェリカに預けられている。

 

 「おい、昼メシ、俺の分もある?」

 最後に入ってきたのはグレンで、今日の昼食のメンバーは、これで全員だった。

 「あれ? グレン、護衛術のバイトは?」

 「終わったよ。夜からラガー」

 「おまえ、ホント忙しいな」

 「そうか? ――お、カレーか。旨そうだな」

 「今日、ご飯しか炊いてないけどいい? ナンもないし、パンも切らしてる」

 「いいよ、なんでも」

 グレンとメンズ・ミシェル、キラの会話をぼんやりと聞きながら、テオはめずらしく腰の重い自分が、不思議だった。

 「いっぱい食べて!」

 キラが大なべを三つ、テーブルの上にならべた。三種類のカレーと、キラ手製のヨーグルト・ドリンク、アンジェリカがつくった、シシーたちには目新しいL03の野菜でつくられた色鮮やかな大皿のサラダだった。

 

 「よう、久しぶりだな」

 グレンはテオに声をかけて、となりの席に着いた。

 「どうも。お邪魔しています。お電話もせずに来てしまって……」

 「テオーっ! ごはん大盛りでいい!?」

 グレンとの会話は、シシーの大声にさえぎられた。なぜかシシーが、炊飯ジャーの前に立って、みなのごはんを皿に盛りつけていた。

 「俺もそのくらい!」

 テオがなにか言うまえに、グレンが叫んでいた。「了解ッス!!」シシーの元気な叫びが聞こえる。

 ふたりは、まるで最初からこの屋敷のメンバーだったかのように溶け込んでいた。なかなか馴染めないほうのテオでさえ、すんなり受け入れられ、また馴染んでいることに奇妙な感覚を覚えるほどだった。

 テオは、アンジェリカとサルビアが、サラダを皆の小皿に取り分けるのを黙って見ていた。メンズ・ミシェルが用意しているのは、コーヒーと、食後のデザートだろうか。セシルがスプーンやら小皿やらを、食器棚から持ち出してくる。

 

 「どうしたの? 今日元気ないね」

 シシーが、まったく無神経に、テオの顔をのぞき込みながら、皿をテオの前に置いた。テオは、おまえのせいだなどと、紳士的な振る舞いに反することは言えなかった。

 「君の気のせいさ」

 先日までのできごとも――シシーの元気がなかったのも、テオの気のせいだ。

テオはともかく、カレーを味わうことに決めた。この屋敷で出てくる食事は、なにもかもが絶品なのだ。デザートには、アイスクリームつきのアップル・パイが控えている。この屋敷のメイン・シェフのひとりであるアズラエルは、アップル・パイをよく作ると聞いた。だとしたら、あれも彼の手製だろう。

 そう思いながら、テーブルに目を移したテオは、シシーの言葉に返事をしなかったことを後悔した。テオの皿にはカレーがよそわれるすき間すらないほど、みっしりごはんが詰め込まれていた。

 

 「シシー、これ、」

 「え? あ、サービス」

 シシーが笑った。

 「このあいだ、誘ってもらったのに、断ってごめんね」

 サービスもなにも、テオが言おうとしたのは、君には盛り付けのセンスがないのかというひとことだったのだが、いつもの皮肉が、出てこなかった。

 (そもそも、君じゃあるまいし、こんなに食えるか)

 テオは思ったが、となりのグレンの皿も似たようなものだった。

 シシーはかなりバツが悪そうな顔で、本当に悪いと思っていることはテオにも分かった。テオは「いいや」と言った。なぜかすこし、肩の力が抜けた。

 (シシーは、俺を避けているという自覚はあったのか?)

 気まぐれに振り回されたわけではないらしい。

 (じゃあやっぱり、なにか理由があったのか?)

 

 食事は、テオが気づかないうちに始まっていた。皆が皆、すきなカレーを皿に盛りつけて食事を始めている。テオはしかたなく、すこしずつカレーをかけることにした。いちばん右側が、じゃがいもやにんじん、牛肉がごろごろと入った甘口カレー。真ん中が、じゃがいもと豆とひき肉のみの、ドライカレーに近いものだ。ロイドの近くにある鍋は、凶悪すぎて、覗き込む気すら起きなかった。

 テオは、シシーと同じ牛肉のカレーを盛り、ひとさじ口に入れた。トロトロになるまで煮込まれた牛肉の塊が、美味だ。

 

 「サルビア、おまえ、辛くねえのか」

 グレンの呆れ声がしたので、テオが顔をあげると、なんとグレンの隣のサルビアが、忌まわしきカレーをたっぷり皿に盛って、美味しそうに食べていた。

 「はい♪ とてもおいしくいただいております♪」

 テオも目を見張った、激辛カレーを汗ひとつかかず、美味しそうに食べているのは、サルビアとロイドのみであった。

 「姉さんが、辛いの平気だなんて、この屋敷に来るまであたしだって知らなかったよ」

 アンジェリカが肩をすくめながら、グレンと同じ、豆とじゃがいものカレーを食べている。

 「あたしも挑戦してみようかな~」

 シシーが大さじ一杯程度の激辛カレーを皿に盛り、口から火を噴いて皆に笑われているのを見ながら、テオはもくもくとカレーを食べた。

 カレーは美味しかったが、どうも気分が晴れなかった。

 

 



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