ネイシャは、焦ったのだと自分で言った。メルヴァとの戦いが長引いて、母になにかあったなら、たとえアンやオルティスに止められても、戦場に赴くつもりでいた。 「そのまえに、一生に一度でいいから、恋みたいなことをしてみたかったの……」 ビリーに誘われるまま、キスをして、寝た。ビリーは優しかった。彼とのつきあいは、居心地が悪くはなかった。けれども、彼を好きにも嫌いにもなれなかった。心はもちろん開けなかったし、これからつきあっていこうという気持ちにもなれなかった。 「待ってるつらさから逃げるために、ビリーを利用しちゃったのは、あたしかもしれない……」 ネイシャの決意とは裏腹に、メルヴァとの戦いは、ネイシャの出番を待たずして終結した。 そのあとに残った感情は、後悔よりも、怖さだった。 「好きでもないヤツと寝て、ピエトに軽蔑されるんじゃないかってすごく不安だったんだけど、ピ、ピエト、のやつ、」 急にネイシャがしゃくりあげた。 「だいじょうぶかって、す、すごく心配してくれて、あたしが、無理に、そういうことを、されたんなら、ピ、ピエトが殴りに行くって、ビリーを、」 「ネイシャちゃんは、携帯をなくしちゃって、よかったのかも」 ルナは、自分より大きなネイシャを抱きしめながら言った。 「無理やりとかだったら、ほんとにピエトは、ビリー君を捜しだして、殴っちゃうかも」 そういう行動力は、ピエトはすごいから、というと、ネイシャは泣き笑いをした。 「でも、ビリー君が、ネイシャちゃんのことを好きだったら、ちょっとかわいそうだったかもね」 「――かも。でも、どうかな。すぐ忘れるよ、あたしのことなんか。だって、信じられないくらいお金持ちのお坊ちゃまだもん」 ネイシャは確信を込めて言った。 「やっぱりあたしは、ピエトが好きだ」 「――うん」 「すごく好き。でもきっと、ピエトは――すごい頭のいい奴だから、傭兵にはならないんじゃないかって、どこかで予感がしてた」 「……」 「……あたし、離れ離れになっても、またピエトに会えるよね? ずっと仲良しでいられるよね? ピエト、あたしのことを忘れちゃわないよね?」 ――ああ、そうか。 ルナはやっとわかった。 ネイシャは、ピエトと離れて、ピエトがネイシャのことを忘れてしまわないかどうかが、ずっと不安だったのだ。 おそらく、それはピエトだけではない。 メリーゴーランドで、離れたところにいるピエトを――そしてセシルとベッタラを、せつなげに見つめていたネイシャ。 生まれたときから呪いに苦しめられ、セシルとずっと支えあってきたネイシャ。その母親とも、地球到達後は、離れ離れになるのだ。セシルはベッタラの故郷へ向かい、ネイシャはL18のメフラー商社で傭兵となる。 いっしょにいくはずだったピエトは、別の道を歩み出している。 きっとネイシャは、ひとりL18に向かうことが、不安になりはじめたのではないのか。 ネイシャと出会ったころのピエトは、ネイシャに憧れ、アズラエルの養子になったこともあって、傭兵になると息巻いていた。ピエトがL85で暮らしていたころ、ピエトがいた集落は、L18の軍が派遣した認定傭兵が守っていた。傭兵は、ピエトにとって強さの象徴だったのだ。 けれども、ピエトはふつうの子どもよりもずっと頭がよかった。IQだけでいけば、もしかしたらクラウドを越えるかもしれないとの試験結果が出ている。最近ピエトは、それを自覚し始めたのか――それとも、傭兵になるためにはルナやアズラエルと離れなければならないということが、どうしてもいやで、別の選択肢を見つけ出したのか。 ルナにも、本当のところは分からない。ルナもアズラエルも、そして相談に乗っているクラウドもセルゲイも、ピエトの目標は聞いていないからだ。みんなは、ピエトの自由にさせたいと思っていた。ピエトがなにか言ってくるまでは、聞かないことに決めていた。 ただ、おそらく、医者になりたいと思っているのかもしれないということは、見当がついている。 『医者になって、アバド病の特効薬を見つけ出したいと思っているのかも』 セルゲイとクラウドはそう言った。 しかし、ルナが見た、ZOOカードのピエトの運命は、そんな華やかなものではなかった。そして、ピエトは医者になるけれども、最終的な到達点は、そこではない。 ピエトの運命の相手――恋とは違う、ピエトなしではきっと生きてはいけない、運命の相手の存在がそこにはある。 「彼」は華やかな道を歩み、ピエトは生涯、彼の影となるだろう。そうだ。彼は、ピエトの存在なしでは、文字通り生きていけない――生命を維持できないのだ。 陰と陽――昼と夜、月と太陽、切っても切れない、真実の運命の相手が、もうピエトのそばにいる。 けれども。 ルナは、それをネイシャに告げようとは思わなかった。アズラエルたちにも言っていない。それは、ルナの胸のうちだけに納めていることだった。 なぜなら、運命は、ぜったいに変わるからだ。 ネイシャとセシルの呪いが解けたように。ピエトが、アバド病で死ななかったように。 だから、この先の未来は、だれにもわからないのだ。ほんとうは。 でも、希望になることならば、ルナは大歓迎だ。 「――ピエトの運命の相手は、ネイシャちゃんなの」 ルナは言い切った。 「きっとピエトは、ネイシャちゃんより好きになる女の子は、生涯、出てこないと思う」 ネイシャは目を見張った。――ピエトがネイシャへの恋を自覚するのは、きっと、もうすこし先だろうけれども。 ふたりが歩む運命は定まらないけれども、ネイシャとピエトが運命の相手であることは確かなのだ。 「ネイシャちゃんも、たくさん恋をするよ! 自分でもびっくりするぐらい――だって、ネイシャちゃんは美人なんだもの!」 ルナは両腕を広げた。 「この宇宙船の学校じゃ、ネイシャちゃんより弱い男の子しかいないだろうけど、これから軍事惑星に行けば、ネイシャちゃんよりおっきくて、強い男の子はたくさんいるよ! ついでに言えば、グレンやアズみたいに、口のうまい男の人が、いっぱいね!」 ネイシャはついに笑った。 「アズラエルさんやグレンさん、そんなに口がうまいかなあ」 「うまかったよ? あたしを口説くときは」 いきなりネイシャが真顔になった。 「あたし、あのふたりがどうやってルナ姉ちゃんを口説いたのか、ぜんっぜん、想像できない」 ルナは、銀河色のサイダーを盛大に噴くところだった。「ぷぐっ!」とむせたルナの息が、炭酸の中でぶくぶくしただけだった。 「と、とにかく!」 ルナは年上の威厳を取り戻すために、ぷっくらほっぺたをしてみせたが、逆効果だった。 「ネイシャちゃんの結婚相手だって、もう出てるんだよ! 見たい?」 「え? 見たい――けど、やっぱやめとく!」 ネイシャは一瞬、誘惑に揺れたが、すぐに首を振った。 「今から知ったら、もったいないじゃん! ――でもそっか、あたし、恋、できるんだ」 「うん! 筋肉ムキムキのイケメンとね! 結婚するよ!!」 「け、結婚!?」 ネイシャは飛び上がるほど驚いた。 「結婚までは、考えてなかったなあ……あたしって、一回くらい彼氏できるのかなとか、それだけが心配で、」 「ネイシャちゃんは、L18に行っても、きっと、絶対寂しくはならないよ」 ネイシャの目が潤んだ。 「レオナさんも、バーガスさんもいる。それから、ザイールさんってゆう、アズみたいな、面倒見のいいかっこいいおじさんもいるよ。ネイシャちゃんにはすぐ彼氏ができるし、それにね、」 ルナは、ふふっと笑った。――月の女神のように。 「あのお屋敷は、これから先もずっとあそこにある。あそこはみんなの実家なの。ふるさとなの。だから、いつでも帰れるの」 ネイシャが、ルナの顔を見つめ、それから、うつむいた。ルナはネイシャの想いが分かった。それは、きっと、あのお屋敷から旅立つみんなが、思っていること。 いくらあそこに屋敷があり、故郷だと思っても、地球行き宇宙船は、おいそれと乗れる船ではない。ふつうは、役員にならないかぎり、自由に乗り降りはできないのだ。 つまり、帰りたくても帰ることができない場所になる――ネイシャたちには。 だが、ルナは言った。 「あのね、ミシェルが――えっとね、ミシェルお姉ちゃんのほうなんだけどね、きっと、あと五年もすれば、株主になっちゃうの」 「――え?」 ネイシャが、おどろいて顔を上げた。 「たぶん、アンジェもね、地球到達後には株主になるの。それから、ピエロが成人したら、確実に株主になる。もしかしたら、――ピエトも」 「ウソでしょ」 ネイシャは、にわかに信じがたい顔で言った。 「ピエトは、ちょっと――まだほんとのところは、分からないんだけども、でも、だから、あのお屋敷に住んでたひとは、いつでも地球行き宇宙船にもどってこれるの。アンジェもミシェルも株主になるから。ピエロは、まだ、もっと、二十年も先だろうけど。株主ってゆっても、主要株主――つまり、あたしもよくわかんないけど、かなりいっぱい株を所有してるひとでなくちゃダメなんだけど、ミシェルとアンジェがそうなるから、ふたりがいいってゆえば、ネイシャちゃんたちは、フリーパスで宇宙船に乗れるの。いつでも、帰ってこれるの」 「……!!」 ネイシャの顔に、やっと笑顔がもどった。 「カレンも自分で株主になるってゆってたしなあ。お屋敷の中は株主だらけだね。あたしもお庭に畑でも作って、カブでも植えようかなあ。ぬか漬けにもいいし」 いつもどおり、真剣に脱線しかけたルナだったが、ネイシャは噴きだし――それから、嬉しげに笑った。すっかり、安心しきったように。 「そ、そっかあ……そうなんだ。あたし、また、あのお屋敷に帰ってこれるんだ」 「うん。五年の我慢ね。でも、ネイシャちゃんはあっちにいったら、恋に傭兵仕事にって忙しいから、お屋敷のことなんてきっと忘れてるよ」 「そうかな」 ネイシャは、笑いが止まらなかった。 「そうかな」 何度も、「そうかな」と言って、「あーっ! なんか、すっきりした!」とオレンジジュースでできた木星カクテルを一気飲みした。もちろん、酒は入っていない、ジュースのカクテルだ。 「ミシェル姉ちゃんやアンジェ姉ちゃんが株主になって、ルナ姉ちゃんがカブを植える――そしたら、ルナ姉ちゃんがつくった、カブのスープが食えるのかな」 「そうかも!」 ルナは叫んだ。 「今日はカブが入った、ごろごろ野菜のスープをつくろう!」 「あたし、ルナ姉ちゃんがおばあちゃんになるとこも、ぜったい想像できない」 「なんで!?」 ルナにペちぺちされたネイシャは、ぺちぺちし返しながら、いつまでもおかしげに笑うのだった。ネイシャの中にあった、ちいさなブラックホールは、すっかり消え去ってしまったようだった。 |