その日、区役所の業務終了時刻――定時がちかづいたころ、テオは区役所内のATMで、シシーのちいさな背中を発見した。シシーは、微動だにせず、背を丸めて、なにかをのぞき込んでいた。ATMまえでのぞき込むべき代物は、たいてい通帳であろうが、シシーの背中は震えているように感じられて、テオは遠くから声をかけるのを思いとどまった。

 「シシー」

 近くに行ってから、声をかけた。シシーが気づいて、ビクリ! と怯えたように顔を上げた。

やはりなにかある。テオは確信した。

 「廊下のド真ん中に突っ立っていたんじゃ、邪魔だよ」

 「――あ」

 テオはいつもの調子で、シシーを壁際のベンチにどかした。

 シシーはなにか、隠している。金のことだ。それも、彼女にその「不安ごと」を相談できる相手はいない。まだ、解決してはいない。

 テオに分かったのはそれだけだが、それで十分だった――彼には。

 

 自分も当面の生活費を引き出してから、ベンチに座り込んだシシーに声をかけた。彼女が握り込んだ通帳にはなにも言及せず。

 「俺も定時で上がるし、カルパナさんももう上がるって言ってたから、行こう、屋敷に」

 「あ、――あの」

 シシーの口から断りの文句が出るのは、テオには予想がついていた。テオは、シシーの隣に座った。あわてて彼女は、バッグに通帳をしまった。

 「ごめん、今日は、やっぱり行けな――」

 「――あのさ」

 テオは、言葉を選んだ。とても、慎重に。

 「君が、おごられるのが好きじゃないということは、分かった」

 シシーの返事はない。うつむいたままだ。昼間の元気は、どこへやらというやつだ。

 「でも、君、昼間屋敷で、約束をしてきてしまっただろ? 今日の夕飯は、お邪魔しますって。たぶん、相手もそのつもりで用意している。ドタキャンは、いくらなんでも失礼じゃないかな」

 「そう――だよね」

 

 シシーにも分かっているようだった。ずいぶん、顔色が悪い。シシーはすくなくとも、昼間は、屋敷に行くつもりでいた。だが、その予定は急きょキャンセルせざるを得なくなったのだ――なぜなら、金がなくなったから。

 おごられることを拒否したシシーだ。自分の金以外で食事をしたくないのだろう。給料日は15日。今日は18日。もらったばかりだ。いきなりなくなるわけはない。高額な買い物をしたなら、引き落とし日は決まっているはず。シシーだって、そのくらいのことは分かる。

しかし、テオの推測は、外れていないと思う。シシーの金は、シシーにも予想外のタイミングで、引き落とされてしまった。

シシーはブランド品にも縁がなく、彼が彼女の部屋を訪問した際には、高額な家具も見当たらなかった。シシーの生活は、きわめて平凡だ。給料の支出の大きなところを占めているのは家賃程度のものだ。

シシーの「予定」では、今日の夜は屋敷に行けるはずだった。金はなくなっていないはずだった。なのに、いま通帳を見て絶望に満ちた顔をし、屋敷に行けないなどと言いだしたのは、あるはずの金が、なくなっていたからだ。

 

 (なぜだ?)

 いったいシシーに、なにが起こっている。シシーの知らないあいだに、通帳から金が引き出されているのか。おそらくそれは、シシーの生活に大きな支障が起こるほどに。シシーは、先日15日までの二週間ほど、きっとほとんどなにも食べていない。

 (詐欺にでも引っかかったのか)

 三十歳にして独身、恋人なしというシシーの年齢を考えれば、結婚詐欺も思い浮かんだが、テオには分かっていた。以前ホストの予想もしてみたが、シシーが陥る泥沼にしてはらしくないと思い、だからといって、テオが果たして、シシーのなにを知っているというのだ。テオは、勝手な想像が、どれだけ危険なことか知っていた。本人から直接聞くまでは、どんな推測も役に立たない。

 テオ自身は、昼間に感じていた腹の中のもやもや感は、すっかり消化しきっていた。

 

 「提案なんだけど、どうかな?」

 「て、提案?」

 シシーが顔を上げた。どこかうつろな顔で、テオはギョッとしたが、動揺を顔には出さなかった。

 「もともと、お屋敷の人たちには、金を出せってことは言われてない」

 あの屋敷の誰もが、とくに食事代を寄こせと言ったわけではなかった。小鳥の巣箱を設置したのはシシーだ。初回はいきなり行ったので、好意でごちそうになり、二度目は、手土産を携えていった。酒が好きなおとなばかりだったし、ワインを二本ほど包んで。次は、子どもたちのために菓子を。それから、巣箱が設置された。クリスマスなどのイベントごとには会費をあつめたが、それ以外ではとくにお金を要求されてはいない。

 「でも、タダでご飯をもらうわけには――」

 (ただで、ご飯、ね)

 シシーの中では、「タダで食事をする」ということが、恐ろしく深刻なタブーに当たるらしい。となると、最初の日もごちそうになったあと、シシーはおそらくある程度のお金を置いてきたのだろう。テオの目が細められたのに、シシーは気づく由もない。

 「タダじゃない。じつは、俺のマンションに、封を開けていないワインが二本ある」

 「ワ、ワイン?」

 「そう。ついでにいえば、いただきものだ。俺が買ったものじゃない。分かる? もらいものなんだ。だが、包装はされている。つまりだ。それを食事代代わりに、持って行かないか? 俺と君の、二人分の食事代として」

 「……」

 シシーが目を瞬かせた。

 

 正直に言えば、もらいものというのはウソだった。テオが昼間、外に用事があったついでに、購入したものだった。プレゼント仕様に包装までしてもらって――。

 もう一度、このあいだのようなことがあったら、つかうつもりで。だが、つかう機会が、その日のうちにやってくるとは思わなかった。

 「どう? 俺は、お金を使ってない。君におごるってわけでもない。もともともらいものだ」

 賭けだった。これでシシーが行かないと言えば、テオにも手がなかった。

 



*|| BACK || TOP || NEXT ||*