「月を眺める子ウサギだって、そう思ってるよ」 アンジェリカは苦笑した。 「うさこと呼ぶのもかまわないよ、きっと。彼女はうさこってあだ名が、可愛くて気に入ってる。でも、彼女は“月を眺める子ウサギ”。名前は大切にしてあげなくちゃ」 ルナは、月を眺める子ウサギの名前を大切にしていなかった。それに、うさこだったら、なんでもいいような気がしていた。それも、ひどいことだったのだ。ルナは気づかずに、ひどいことをしていた。最初からルナを見守り、ルナのために一番尽力してくれていたのは、月を眺める子ウサギだったのに。 ルナは、目をこすった。あとからあとから、涙があふれた。ぬぐうだけでは足りなくて、ティッシュを持ち出して、鼻をかんだ。 「ごめんなしゃい……」 ルナは、月を眺める子ウサギにひどいことをしたと思った。 「月を眺める子ウサギさん、ごめんなしゃい……」 うさこたん+を教わったときも、月を眺める子ウサギは、「よく考えてね、わたしとともにあることを」と言った。 アストロスでの決戦のときも、ずっと彼女と一緒にがんばったのに、ルナはそのことをすっかり忘れていた。 ルナの声を聞いたかのように、ぴょこ、とZOOカードボックスから、ピンクの頭が飛び出した。まだうさ耳と、おめめが半分――月を眺める子ウサギは、機嫌を損ねているようだった。 『……反省した?』 うさこは、半分だけ頭を出したまま、すわった目で言った。 「うん」 ルナは心から真剣に、うなずいた。 『あなたったら、夢の話はアズラエルが先、相談するのはミシェルかクラウドが一等先! ZOOカードを動かしてるのはだれ? あなたの役割を一番知っているのはだれ? それなのに、いつもあたしが最後なんだわ』 「ひぎっ、ひぎっ……ごめんなしゃい、」 『あなたの相棒は、あたししかいないのに、あなたはあたしをないがしろにした』 ルナがへこまなかったのは、月を眺める子ウサギの耳が、悲しそうに垂れたからだった。ルナが泣いているのと同様に、月を眺める子ウサギも落ち込んでいるのだった。 『うさこって呼んでもいいけど、なんでもいいうさこにはしないで』 「うん……わかった」 『反省した?』 「うん」 ルナは、月を眺める子ウサギをZOOカードから引っこ抜いて抱きしめようとしたが、うさこは月のステッキでルナの手の甲を叩いた。 「いだい!」 彼女はまだ怒っているのか――ルナがまた、涙目になったとき。 『そんな感じはしないわ。だって、おうちがないんだもの』 「は?」 「え?」 ルナもだが、アンジェリカも口をあけた。 『前のお屋敷が燃えちゃったから、あたし、もっとすてきなお屋敷が建つように手配してあげたのに――この家を見て、はしゃいでいたのはどなたかしら? それなのにあたしのお屋敷がないんだもの。いつまでたっても、見当たらないんだもの』 うさこはふて腐れてぼやいた。もう、箱から耳のさきっぽしか出ていなかった。 「「……」」 ルナとアンジェリカは、ようやく気付いた。じつはこのところ、「白ネズミの女王」もふて腐れ気味で、アンジェリカも、まったくその理由が分からなかったのだ。 だが、いま氷解した。 「「いますぐご用意いたします!!」」 ルナとアンジェリカは、声をそろえて叫んだ。 試験の真っ最中だったはずのルナと、試験の指導をしていたはずのアンジェリカは、テオの新しいカード名を決めるより先に、自らの相棒の機嫌を取ることを余儀なくされた。 そういえば、レディ・ミシェルは、この新しい屋敷に引っ越してすぐ、「偉大なる青いネコ」の城を買いなおしていた――ネコにつつかれたのか、ミシェルが気を回したのか。ルナはピエロで手いっぱいだったし、アンジェリカも仕事で忙しくて、すっかり忘れていたのである。 だがまさか、あのおもちゃの家がないことが、こんなにも機嫌を損ねているなんて、思いもしなかったのだった。 急いでK12区のショッピングセンターに向かい――急ぎすぎて、K27区にもショッピングセンターがあることを忘れたふたりは――前と同じ庭付き一戸建ての家と家具を買いそろえ、ついでにクッションやら黒板やらもそろえて部屋にセットして――ようやくうさこは、ZOOカードボックスから姿を現した。 『わたしのおうち!』 月を眺める子ウサギは、喜び勇んで、あたらしくなった家を眺め渡した。 ルナの部屋で組み立てられた「白ネズミの女王の別荘」にも、白ネズミの女王が現れ、うれしげに、庭の椅子に座ってお茶をはじめた。 『まあ――しょうがないわね。今度の家はすてきなお花模様の壁紙付きで、芝生にお花もあるから、100点で合格にしてあげる』 「ほ!?」 ルナは絶叫した。月を眺める子ウサギは、ルナの動揺も知らず、楽しげだ。 「できれば、このおうちはあの戸棚の上に置いて、庭のお花を隣に飾ってくれるとうれしいの」 「試験は!?」 ルナだって、いろいろまずかったと思うことがいっぱいあった試験である。それが、うさこのおうちを用意したから、100点? 『あなたがわたしを頼りにしてくれたら、それで合格です』 「――!」 『言ったでしょ、ルナ』 月を眺める子ウサギは、微笑んだ。 『わたしを信じて』 月を眺める子ウサギは、芝生の上に立ち、月のステッキを振りまわした。すると、格好が変化した――ルナと似たようなワンピース姿だった彼女の格好は、Tシャツとジーンズ、ルームメンバーにだけ許された例の作業用エプロン、長靴になった。うさ耳にはバンダナが結ばれている。 『ルナ、ハクニーとシマリスのカードを呼び出してちょうだい』 「う、うん!」 ルナが二枚のカードを呼び出すと、「礼儀正しいハクニー」と、「怖がりなシマリス」のままだった。 『縁の糸を』 月を眺める子ウサギの言葉とともに、ふたりをとりまく、無数の糸が現れる。ルナが先日見たとき同様、シシーのシマリスカードには、グロテスクな色の糸がいっぱいくっついていた。 「これは、相当だな……」 アンジェリカも気難しい顔で、シシーにつながる悪意の糸を見つめていた。 『さあ! 大掃除を始めるわ!』 いきなり月を眺める子ウサギが、指を鳴らすと、たくさんの糸は消えて、不気味な糸だけが残った。彼女は、そうしてから糸の中に飛び込んだ――やがて、糸のすきまから、ぴょこんと頭を出したうさこは、おおきなはさみを手にしていた。うさこほどの大きさもある、銀色のはさみを――。 『えい』 月を眺める子ウサギは、不気味な糸を、ジョキン! と盛大な音をさせて切った。 「うさこ――!?」 ルナは叫んだ。たしかに、この糸を見たときは、切ってしまいたいなと思ったのだが。 『えい。えい。えい』 まさか、ほんとうに切ってしまえるとは。 『えい。えい。えい』 月を眺める子ウサギは、次から次へと、気味の悪い色の糸を切っていく。一気に三本も切ることもあった。ジョキジョキジョキと遠慮なく切っていく。焦げ茶の糸、赤茶けた糸、黒緑の糸、真っ黒な糸――次々に切れていく。うさこのはさみによって。糸は、切られたところから、どろりと溶けてコールタールの沼をつくる。 「うっわ」 おかしな臭いまで漂ってきた。アンジェリカは鼻をつまみ、ルナは窓を開けた。月を眺める子ウサギは、汚い糸を、せっせと切り続けた。 ――あらかた、糸が切れたころだった。 『掃除機が来るわよ!』 白ネズミの女王が、シマリスのカードの前に飛び出していた。すると、部屋の向こうから、真っ黒な口を開けた空間が、渦を巻いてこちらに押し寄せてくる。 「わあ!!」 ルナはアンジェリカに飛びついた。アンジェリカは「初めて見た!」と興奮して身を乗り出した。 真っ黒な渦に、沼のようになったコールタールも、月を眺める子ウサギが切った糸も、カードの先につながっていたコヨーテやどす黒い動物たちも、みるみる吸い込まれていく。 悪党たちの断末魔の悲鳴が聞こえるようだった。 カードたちも吸い込まれそうなほどの強烈な吸引力だ。白ネズミの女王が、二枚のカードと、綺麗な糸たちを守っていた。 やがて、沼もすっかり吸い尽くして、暗黒の渦巻きは消えた。 コールタールまみれになっていたうさこの汚れも、すっきりさっぱり、吸い込んでいった。 |