『L72から、ふらっと来て、ろくに試験勉強もせず合格して、学生時代も、猛勉強タイプではなかったわ――でも、人気者だったのよ。学術書なんかぜんぜん読まずに、恋のことばかり書いた詩集なんか読んでるの。それで、とっても気障な台詞で女の子を口説くんだけど、あの性格のせいで、笑うしかないの』
祖母はそう言って、思い出し笑いをした。
『学外のともだちと、飲み会に合コン――それでも試験では上位に入って、楽々卒業しちゃうのよ。もう、頭の出来がちがうのね』
「……」
『もしかしたら、おじいさんは、テレジオさんと親しくしたかった。でも、テレジオさんに劣等感と、怒りも感じていた。嫉妬もあったかもしれない。――でも、その奥には、憧れもあった』
テオにも、覚えのある感情だった。
『だから、同じクラスだったけど、きっと、ほとんど口を聞いたことはなかったの。テレジオさんは、卒業間近に、自分の卒業校が、学級崩壊してるって聞いて、そっちに行ったの。あっさりしたものだったわ。あちこちの大企業から、声がかかったのに。一生遊んで暮らせる道もあったのよ。わたくしたちは、彼がそういう道を選ぶと思っていた――なにせ在学中は、ホントに遊んでばっかりだったんだから』
「……」
『それが、まさか、母校の学級崩壊を見て、もどるなんて――ご苦労なさったと思うわ。いいえ――きっとあのひとのことだから、まるで大工さんが家を建てるように、やってのけてしまっているかもしれないわね。だって、あのひとにとっては、“アルビレオの衛星”なんて称号は、ただのあだ名みたいなものなのよ』
わたしたちの努力も、彼にとっては靴紐を結ぶ程度のこと。あの称号も、彼にとっては靴紐のアクセサリーみたいなものだったんだわ。
テオは、渡された用紙を見つめ、カブラギにボールペンを借りて、その場でサインした。
「考える時間はあるよ? いいのか、そんなにすぐ決めて」
「ええ」
テオはうなずいた。
カブラギはテオのサインを確認し、用紙を折りたたんで、ポケットに入れた。テオはまだ考えていた。真面目に考えた。
「アルビレオの衛星であったことに、誇りを?」
こたえきれなかった。テオはまだ若い。その問いに、すくなくとも答えが出せるのは、この生が終わる間際ではないだろうか。
カブラギは手を差し出した。
「イノセンスへようこそ」
特別とは、どこにも当てはまらないから、特別なのだ。特別と孤独はイコールであり、居場所はあってなきがごとしだろう。祀り上げられるか、役に立つものとして、重宝されるだけだ。
テオはそう思ったが、ふとあの屋敷を思い出した。
あの場所は、不思議と、テオも落ち着く場所だった。あの屋敷で、居場所がないと感じたことは、一度もなかった。
(あそこは、カオス屋敷だからな)
アルビレオの衛星なんぞ、そっくり飲み込んでしまう銀河だ。
テオは、そう思い返して、自然な笑みを浮かべた。そして、カブラギの手をにぎり返した。
『ねえテオ、今度こそ、地球の衛星の写真を送ってちょうだいな。ほんものの月の写真を。あなた、いつも分かったと言って、送ってくれないんだもの』
「今度こそ送りますよ」
テオは、それができると思った。そうするつもりだった。これからは、祖母たちに連絡することを、厭うことはないだろう。
『地球に着いたら、月を眺めながら、シシーさんにプロポーズしたらどう。どうせなら、月をバックに、ふたり並んで写真を撮りなさいな――』
テオは苦笑した。
「おばあさまは、ほんとに、いつまでたってもお若いですね」
祖父も祖母も、父も母も、自分と同じ人間だった。周囲からの期待に押しつぶされそうになりながら、「アルビレオの衛星」の資格を守りつづけてきた、衛星。ほんものの天才は「アルビレオ」で、衛星は、けっしてアルビレオには近づけない。周囲をぐるぐると周回するだけだ。
だが、彼らは善良な人間で、テオは、彼らに守られてきたことをようやく知った。それが分かった。どこにも居場所がなく、探しつづけるテオの孤独な背中を、彼らはとても案じていた。だから、道を示唆しようとしたのだろう。それがテオに鬱陶しく感じられても。だって彼らは、テオを心から愛していたのだから。
すくなくとも、彼らはテオに何の見返りも求めなかった。シシーが虐げられてきたように、テオを虐げることはなかった。
不思議だった。
「アルビレオの衛星」の呪縛が解かれたとたんに、うとましかった祖母の声すら、あたたかく聞こえる。まだろくに分別もなかった子どものころ、こっそり菓子をくれた祖母の顔を思い出した。それを母が目こぼししていたことも。父が、祖父が、禁じられていたアニメを、こっそり見せてくれたことも――妙なことばかり思いだした。
テオは祖母との電話が終わると、慟哭した。声を殺して嗚咽した。なぜかわからなかった。だが、あれほどの目に遭いながら、たったひとりで苦悩を抱え、それでも明るさを失わなかったシシーの顔ばかり浮かぶ。テオは、いますぐ抱きしめたいと思った。
L系惑星群一、衛星を従える、惑星アルビレオ――テレジオもそうだった。たくさんの衛星を引き付ける、つよく――それはつよく。
シシーは彼の孫。同じだ。輝ける惑星アルビレオは、シシーだ。シシーはなにが起こっても、靴ひもを結びなおして、気丈に歩いてきた。ときに逃げても、怯えても。
シシーというアルビレオに惹かれるテオは、やはり衛星なのだった。だが、衛星であることが、今は嬉しい。祖母も父も母も、きっとシシーを眩しく感じるだろう。そして、憧れ、慈しむだろう。
(好きだよ、シシー)
テオが、それをはっきりと、自分の口から言えるようになるまで、まだ少しの時間が必要だった。
ルナは、銀色に輝く「特別なハクニー」のカードを、月を眺める子ウサギとともに見つめていた。
背景は真っ白のまま。凛々しいハクニーが前を見据えている。
「けっきょく、ハクニーさんのカードは、どうしよう?」
ルナの質問に、月を眺める子ウサギは、『これでいいのよ』と言った。
「え? いいの?」
『このハクニーは、だって特別なんだもの』
恋をすれば情熱的もなれる、だれかを救済することもできる、英知にあふれ、勇敢なその心は、だれかの盾となることも厭わないでしょう。
月を眺める子ウサギは、歌うように言った。
彼女の歌とともに、ハクニーの周囲がキラリ、キラリと輝き、背景が浮かんだような気がしたが、一瞬のことで、ルナには見えなかった。
ルナはふと、思い出した。メリーゴーランド――回転木馬の夢を。
『郷に入っては、郷に従え』と言っていた、ハクニーを。
ハクニーが背に乗せていたシマリスに気づかなかったのは、もしかしたら、メリーゴーランドの軸である、惑星にも見える大きな球体に、目を奪われていたのかもとルナは思った。
ずっとずっと、そればかり見つめていた。捕らわれていた。
特別な、ハクニー。
彼は、どんなふうにもなれるのだろうか。情熱的にも、勇敢にも――無邪気にも?
「ン?」
『ひとつ、仕事は増えるけどね』
「仕事?」
『知らなくていいのよ』
ルナは口をもふもふさせ、声を潜めて聞いた。
『……うさこが守護すると、どうなるの?』
月を眺める子ウサギがステッキをひと振りすると、「特別なハクニー」は、「礼儀正しいハクニー」に変わった。
ルナは目と口を丸くし、カードを指さして、なにか言おうとした。
『礼儀正しいのも悪くはないのよ? 彼はとっても紳士だもの』
そう言って、うさこは消えた。
「……」
ルナは、呆気にとられたままZOOカードボックスを見つめ――やがて、にっこり笑って立ち上がった。今夜も、ふたりは来るだろう。テオの好きなパスタをゆでて、シシーの好きな、野菜炒めをつくるのだ。
「そのまえに」
ルナは、うさこのおうちの横に飾るための花を買いに、おでかけすることにした。
今日も、いい天気だ。
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