ルナが主軸から天秤棒を外すと、そのときは、たいした重さがないものに思われた。ルナは半泣きで、てってって、と、ルナにしては精いっぱいの速度で三階のシャイン・システムに行き、応接室まで行って、そこから真砂名神社に飛んだ。 神社の大路はあいかわらず人がいなかった。そのことは幸いだった。 いつのまにか月の女神が、ピンクのウサギの姿となって、ルナのカーディガンのポケットに入り込んでいた。 『ルナ、階段を上がるのよ』 「ひゃい……」 K05区に着いたとたんに、天秤は水でも含んだように重みを増し――階段をまえにして、それは決定的なものとなった。 シシーのカードを置いた反対側の、向かって右側の皿に、ガレキのような宇宙色の黒曜石が山盛りになっている。先日、アニタが階段を上がったときと、同じだ。 「お、おも、重いいいいいい」 ルナは後ろにひっくり返りそうになった。 『がんばって上がりなさい! あなたが乗せたんだから!』 月を眺める子ウサギの叱咤を受けながら、ルナは必死で天秤棒をかついで上がりはじめた。 「お、おも……」 たとえるなら、おおきな買い物バッグがパンパンになるほど詰め込まれていて、中身はぜんぶ牛乳パックでしたというぐらいの重さだった。 「ひぎ、ひぎい……」 持てないことはない――とはいえ、それを持って百八段の階段を上がるのはつらく、ルナの肩に天秤棒がぐいぐい食い込んだ。 ルナは十段目で、いったん天秤を下ろして息を整えた。カーディガンを脱いで腰に巻いた。これはつらい。最初に階段を上がったときも、運動不足程度のつらさしかなかったルナだ。みんながヒイヒイ唸りながら上がっていた意味が、ようやく分かった気がした。 「ぴぎ……ぷう、」 ルナは何度も休みながら、階段を上がった。 半分まで来たら、いきなり軽くなった気がした。ルナがおどろいて顔をあげると、眼前には、黒衣の男神。 「あっ」 ルナがお礼を言うまえに、月を眺める子ウサギの叱咤によって、すぐ重さはもとにもどった。 『兄さま、ルナを甘やかさない!!』 『……』 夜の神が、肩をすくめて手をひっこめた。どうやら、軽くなったのは、夜の神が持ってくれたかららしい。妹神に怒られて手は放したが、それでも、心配そうについてきてくれるので、ついにポケットウサギは叫んだ。 『邪魔をしないで!』 『……』 夜の神は眉をあげ、しかたなく姿を消した。 『まったく、兄さまは、これだから……』 月を眺める子ウサギがぶつぶつ言っている。 「ルナちゃーん! なにをやっとるんじゃあ!」 「ふえ?」 ルナが汗だくで振りかえると、階段下には、ナキジンやカンタロウ、紅葉庵向かいのお茶屋の店主をはじめ、大路の店舗のみなが、階段下に集まっていた。 「か、階段、あがってますう~……ふべっ!!」 ルナはそれだけ言うのがやっとだった。うさこが、はやく上がれと言わんばかりに、月のステッキで脇腹を小突くからだ。 「い、いたいうさこ!」 『無駄口たたかないで、シャキシャキ上がれ!』 どこかのクジラみたいな台詞を吐いて、うさこはルナを威嚇した。夜の神は優しかったが、自分がいちばん手厳しい。 「ピンクのウサギのくせに! ぴんくいろのくせにーっ!」 『ピンクになにか文句があるの』 「ありましぇん!!」 ルナが二歩ずつつかって階段を上がるたびに、黒曜石は、銀白色の光になって消えていく。シシーの前世の罪が、すこしずつ消えていく。 「ふへ、ふひゃ、ぴぎい……」 天秤を下ろして、膝に手を突いて休憩した。座り込んだら、もう立てなくなりそうだった。ぽたりと白い石畳に滴がこぼれて、雨かと思ったが、雨は降っていない。ルナの汗が落ちただけだった。 ルナは、ヒイヒイ言いながら、八十段くらいまで上がって――あとすこしだと、上を見上げて、腰を抜かしかけた。 「――!?」 なぜなら、階段の上の、かつて寿命塔がでてきたあたりに、部屋に置いてきたはずの天秤の主軸が鎮座していて、その周囲に、みっしりとひとが固まっていたからだ。 いや――ひとではなかった。 さっき助けてくれた夜の神、太陽の神、昼の女神、イシュメル、ノワ、メルーヴァ姫、アストロスの兄弟神、エタカ・リーナ山岳の神、ラグ・ヴァーダの女王に、百五十六代目サルーディーバ――ほかにも、ルナの知らない神様が、たくさん集まっていた。 「真砂名神社に祀られとる神が結集しとる……」 ナキジンは口も目も真ん丸にして階段上を見上げていたし、階段下にどんどん人が集まってきたのは、それが理由だった。 「なにが起こっているんじゃ」 「神様が、みんな集まっとるで!?」 ルナでもわかった。自分のしでかしたことが、尋常でない事態を招いたことに、ようやく気付いた。 神々が見守るなか、汗だくになりながら、ルナはようやく階段を上がり切った。 「ひぎい」 ルナは悲鳴とともに、ようやく天秤棒を、主軸に預けた。そして、地面に座り込んだ。ピエロをおんぶして走り回っていたことで、すこしは鍛えられていたのかもしれない。前のままだったら、もっとつらかっただろう。 神々はなにも言わず、ルナを見守っていた。彼女が息を整えるのを、待っていた。 上がることが精いっぱいで忘れていたが、皿の黒曜石はすっかり消えて――シシーのカードも、なかった。 「あ、あれ? カード……」 『カードボックスにもどったのよ』 うさこの呆れ声がし――それは、ポケットからではなかった。めのまえに、うさぎの姿ではなく、黒髪の美しい女神が、けわしい顔で立っていた。 ルナは、あらためて泣きそうな顔で、「ごめんなしゃい……」と神の集団に向かって頭を下げた。 『ルナ、無事でよかった』 イシュメルが膝をつき、ルナの肩をつかんでいた。いつもの優しい顔ではあったが、真剣だった。 『乗せたカードが、ふつうの人間でよかったな。もし、地獄の審判にでも値するようなカードが乗ったら、一大事だった』 「――!」 ルナのうさ耳が、ぴょこん、と立った。そして、ぷるぷると震えだした。 『もしそうなったら、あなたが地獄の審判を肩代わりしなければならないのよ』 カザマそっくりの顔をした真昼の女神も、困り顔で言った。ルナはますます、目に涙をためた。 月の女神が怒ったのも無理はない。知らなかったとはいえ、ルナはとんでもないことをしたのだ。 『大きな力は、それだけ反作用も大きい。黄金の天秤は、注意に注意を重ねて、使用せねばならぬ』 ルナははじめて見たが、まるで氷の塊でできたような男神が言った。エタカ・リーナ山岳の神だろうか。となりにいる、ペリドットに似た美女は、妻神か。 『君以外の者が、天秤にカードを乗せたところで、なにごとも起こらぬ。いかづちのひとつも食らうであろうが。だれかが、君に無理やりカードをあげさせても同じだ。だが、君が君の意志でもって皿にあげたカードは、そこから罪の浄化がはじまる。君が代わりに、階段を上がらねばならぬ』 百五十六代目サルーディーバが、おごそかに言った。 「真砂名神社であずかりましょうか」 どこかで聞いた声がしていると思ったら、イシュマールだった。彼は、神々に向かって言っていた。 『それがよい』 『そうしたほうがいい。安全面でも』 神々は、口々に言った。 『さて、罰則はどうしようかしら』 月の女神が腰に手を当て、怖い顔でルナを見下ろすのに、ルナは目にいっぱい涙をためてエプロンをにぎった。シシーのカードに異常が起こって怖かったとはいえ、あれだけ注意をされたのに、黄金の天秤にカードを置いてしまったのはルナだ。 『ルナも怖い思いをした。これで懲りただろう、許してやれ』 『兄様の意見は却下』 夜の神は、かばってくれたが、月の女神は怖い顔でそう言った。 『ルナ、どんなときでも冷静にならなきゃいけない。そういう意味ではあなた、さっきのは0点よ』 やはり、これらは、ルナへの「試験」だったのだ。 0点はへこんだ。学校のテストでも、さすがに0点は取ったことがなかった。 |