『そんなに怒らないでバクスター。いいじゃない。今日は無礼講でしょ』

 

 ジュリの声だ――。

 バクスターは、ふいに、目が熱くなったのを感じた。

 声すらも、もはや思い出せない妻の姿が、そこにあった。

 画面にバクスターが映る。ジュリがカメラを持っているのだ。バクスターは奪い取るようにジュリからカメラを取り上げた。視点が変わる。浴衣姿のジュリが映る。ジュリは痩せていた。おおきな手術を終えたあとだった――あまりの彼女のやせように、バクスターは戦慄し、医者を怒鳴ったこともある。だが、バクスターの心配をよそに、すこしずつ、彼女本来の健康をとりもどしていった。

 ジュリは大丈夫だとはげましてくれた友人、セバスチアン。ジュリの病にいいという温泉を教えてくれたニック。エレナの明るさに、なによりもジュリが救われていた。

 彼らのような友人は、稀有だろう。

 わがままの塊のような自分と、親しくしてくれた。

 

 『まだ重いものを持つなと医者から言われただろう。傷が開く』

 『これはそんなに重くないわ』

 『いい。君には持たせられん。私が撮る。あんな馬鹿騒ぎには参加したくないからな』

 『まったく、素直じゃない男だねえ!!』

 バクスターの持ったカメラがエレナを映した。

 『素直に、無理させたくないからって言えばいいじゃないか! ジュリが箸より重いモノ持てなくなったらどうしてくれんだよ!』

 『わたしの妻なら、それも許される』

 『ッカー!! ごちそうさん!!』

 『エレナー!! エレナエレナエレナ!! 愛してるよー!!』

 『うわっ!! 来るんじゃないよ酒臭い!!』

 急にエレナに飛びつくセバスチアンが画面に映る。フン、と鼻を鳴らすバクスター。ニックの大歓声とともに、夜空に上がる花火が映し出された。

ドオン、ドン。腹に響く音。ジュリの素敵ね、という声。バクスターはジュリばかり映していた。ジュリのはにかんだ笑顔。うっとりと花火を見つめる横顔、バクスターに向ける、甘い笑顔。映像は三十分ほど続いた。持ち続けるのに飽きたバクスターが電源を切るまで。

 

「ジュリさま――」

ローゼスが、ふたたび目頭を押さえていた。

「もういちど……」

「え?」

「どうか、もう一度」

バクスターの声に、ローゼスがいそいそと、再生ボタンを押した。短い映像は、それから、何度も繰り返された。

 

「ジュリを――地球に連れていってやりたかった」

 

なぜあのとき、宇宙船を降りたのか。せっかく地球行き宇宙船で救われたジュリの命が、はかなく消えてしまったのは自分のせいだった。あのままジュリとともに地球に向かい、地球でグレンを産んでいれば、まだジュリは救われただろうか。それとも、ジュリがグレンを生んだ時点で、セバスチアンたちのもとに、親子そろって避難させていれば。

嫡男の望みと言えど、貴族以外の人間を妻にするのを許すほど、甘い一族ではないことを、分かっていたのに。

過去のことは、いくら悔いても悔い足りない。そして、悔いても悔いても、過去は変わらない。

ユージィンは優しい男だった。だがバクスターは違う。あの宇宙船に乗って、善良な人間になったわけではない。ジュリを愛した痛みが、二度と抜けない刃となって、バクスターを痛めつけているだけだった。たとえひとのことでも、大切なものを理不尽に奪われる痛みが、耐え切れなかっただけだった。その痛みのするどさを、知っただけだった。

バクスターは、ずっと変わらない、利己主義な人間だ。ドーソンの嫡男として、軍事惑星の帝王となるべく育てられた軸は、変わってなどいない。

償いつづけるより、楽な死を、選ぼうとしている。

 

ローゼスがそっと、ちいさな写真立てを持ってきた。すでに色あせた写真が納められていた。若いころのバクスターとジュリ。ジュリの胸には、生まれたばかりのグレンが抱かれている。

L22に追放されたときは、私物を持って行けなかった。だが、ローゼスが、ずっと大事にしまっておいたのだ。

「ジュ、ジュリさまといっしょに、地球に参りましょう――この老木も、命あるかぎり、おともいたします」

ずっと泣きつづけの執事は、そう言った。ついに、バクスターは目を覆った。しずかな嗚咽が、部屋に響いた。

ドローレスは、ふたりだけを置いて、そっと部屋を退室した。

 

 

 

  地球行き宇宙船、K09区。

 貴族の区画にある、アーズガルド家所有の屋敷では、カナリアが朝から、熱心になにかを読んでいた。

 「どうしたの、カナリア」

 メレーヌが聞くと、カナリアは、便せんを見せた。

 「今朝、郵便受けに、これが入っていたの」

 厚くて長い髪の毛でかくされたカナリアの顔は、顔色が分かりにくいが、今日はバラ色に染まっている気が、メレーヌにはした。

 手紙の封筒にはカナリアの絵柄がついていて、切手もなければ、消印もなかった。

 差出人は、ピエトだ。

 「まあ、ピエトちゃんから……!」

 「きっとピエトちゃんが、朝、郵便受けに入れたんだわ」

 自分たちに気を遣ってのことにちがいなかった。屋敷のベルも押さず、こっそり、郵便受けに入れたのだ。手紙には、ぬいぐるみのお礼や、学校であったことなどが書かれていた。短い手紙だったが、カナリアは何度も読んでいた。

 

 「メレーヌ母さん、わたし、顔のキズを、消そうと思うの」

 「えっ!」

 メレーヌは思わず、声を上げた。

 「わたし、ピエトちゃんと、また会いたい。できれば、いっしょに、街を歩きたい。――それに、もしこれから、カナコと会うことがあったら、この顔じゃ、カナコは驚くかもしれない」

 カナリアは、そっと、厚い前髪を指で寄せた。

 「あたしは、ずっと、バカな勘違いをしていたの。自分はこんな目に遭ったんだって、自分が受けた仕打ちをカナコに見せれば、カナコも許してくれるんじゃないかって、そう思っていた……だから、キズを消せなかった。カナコに会うことがもう一度叶うかどうかも、分からなかったのに」

 「カナリア」

 「でも、アズラエルさんが言っていたように、カナコも自分を責めているのなら、こんな顔でいるのは惨いことだわ。カナコにとっても、あたしにとっても――」

 メレーヌは、抑えきれない喜びを顔じゅうにあふれさせて、叫んだ。

 「そうしたほうがいい――いいえ、そうしましょう! すぐに! テリー、テリー、どこにいるの?」

 メレーヌがテリーを捜しに行くのを見て、カナリアは微笑んで、もう一度、手紙に目を落とした。

 

 



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