アーズガルド家代表のためにとられた、六十三階のスイートルームでは、奇妙な光景が繰り広げられていた。けっして、先のカオス・パーティーの名残ではない。 ひろすぎるリビングの、一面のガラス越しには、かなたに晴れ渡る青空と、濃い色彩の海。白いビーチが見える。そんな絶景が見える室内では、ピーターがオルドのスーツとシャツをめくりあげ、脇腹を外気にさらしていた。それをまるで意に介さないオルドが、無表情でタブレットを見ながら、これからの予定を確認している。 「やっぱり――アザになってる」 アイゼンがつかんだオルドの脇から腰にかけて、ひどい青あざができていた。アイリーンもおそらく同様だろう。 「……明日十時、ライベン家の代表と会談、十二時……ダメだな。押し込めねえ。やっぱり泊まらずに、出るぞ。ピーター、三時間の仮眠を取って、出発」 「ええっ!?」 ピーターは、オルドの腰から顔を上げた。 「ピーター様、シュールすぎるから、それはやめてくださいません?」 「え?」 膝をついてオルドの腰をつかんだままのピーターは、マヌケ面とも思える顔で振り返った。 ヨンセンも、タブレットを手にしたままソファに腰かけ、インシンに勝るとも劣らない長く細い足を組んで、呆れ声で言った。 「イチャつくならイチャつく! そういう、中途半端なのやめて」 「アザくらい、すぐ消える」 オルドはピーターの顔を押しのけ、シャツをスラックスの中に入れ、スーツのジャケットを整えた。 「とにかく、今日ここに泊まったら、明日午前十時の会食に間に合わねえ。予定はギチギチだ。押し込むこともできねえ。いいだろヨンセン、宿泊はキャンセルだ」 ヨンセンのこめかみに青筋が立った。 「秘書長はわたしよ、オルド」 「すみません。どうか平手打ちはよしてくれ」 この二人は、あまり仲がいいとは言えないが、今日はいつにもましてギスギスしているなァ――とピーターは呑気に思った。80パーセントくらい、アイゼンのせいであることだけはたしかだが。 「すぐ手をあげる女だと思われてるのかしら、わたしは」 「あの勢いでやれば、アイゼンも吹っ飛ぶのに」 さすがにピーターは、オルドを止めにかかった。やはり平手打ちの勢いでオルドにつめ寄りかけたヨンセンは、ピーターにとめられた。 「ダメ。――オルドも言い過ぎ。謝れ」 「――すみません」 オルドにも言いすぎた自覚はあった。彼は素直に頭を下げた。ピーターは、笑顔を貼りつかせ、目だけは怒ったまま、言った。 「さっきから、予定を組みなおしてくれるのは嬉しいんだけど、俺の意見も聞いて」 ヨンセンとオルドは、促されるまま、ピーターとともにソファに腰を下ろした。 「コーヒーでも飲もう。酔い覚ましに。一杯三万デルの最高級コーヒーなんてどうだ。滅多に飲めないぞ」 「……」 ヨンセンとオルドは顔を見合わせた。ピーターの小さな怒りは、ふたりとも察していた。「すみません」と謝った――今度は、ピーターに。感情的になったのは、ふたりも分かっていた。 「怒ってないよ。話をしよう。とにかく、一杯三万デルのコーヒー。じつは俺が飲んでみたい」 ピーターが言ったので、ヨンセンは、室内の電話に向かった。コーヒーがつくまでのわずかな時間に話を済ませようと、ピーターは早口で言った。 「ここから見えるあのビーチで遊んでる、ルリコとジャンヌからメールがあったんだけど」 前面ガラス張りの向こうには、青い海と砂浜が広がっていた。絶景に、ふたりはようやく目をやる余裕が出てきた。あそこで遊んでいる奴らがいる。ピーターは自分のタブレットをふたりに見せた。 「ルリコとジャンヌを諜報員にでもしましたの?」 なにも聞いていないヨンセンは皮肉を言ったが、ピーターは、「行く直前に思いついたんだ、ごめん」と悪びれない顔で謝った。 「思ったより、先日のシュノドスふくめ、L55でも情報が錯綜してる。――そういうわけで、予定変更。ルリコとジャンヌの諜報員は続行。で、L22のモニクに連絡して、ここ一週間の会合をぜんぶキャンセルして」 「――え?」 さすがにヨンセンは、真剣な顔で、ピーターの発言を取り消しにかかった。 「明日十時の、ライベン家との会合は、ぜったいに外せません」 「なんとか、一週間後にのばして。それからヨンセンは、ここに残って、ヴィッレと仲良くなってみてくれ」 「……!?」 「俺以外で、ロナウド家とのつながりが欲しい」 ピーターは念押しした。 「これは、身体をつかえってことじゃない。分かるよな?」 すこし表情をこわばらせていたヨンセンの顔つきが、真顔にもどった。さっきまでの苛立ちも、いきなり立ち消えたようだ。 「付き合いの中で、君とヴィッレに関係ができても、それは君の自由。自由だけど、俺は、遠回しに彼と寝ろと言ってるんじゃない。女と男の仲になれっていうんじゃなくて。まァ、そうだな――君が、この件は、ほかのだれかがふさわしいと思えば、任せてかまわない。だけど、今回は好機だ」 オトゥールとヴィッレは、仕事上の関係で、一週間、このホテルに滞在する。 「ヴィッレの、君への態度は、悪いものじゃなかった。――君も彼も、互いに用心するだろう。カンタンにはいかないかもしれないが、こんな機会は滅多にない」 「それは、そう――ですわね」 ヨンセンも、納得したようだった。 ヴィッレは、オトゥールのボディーガードの総まとめをしていることが多い。オトゥールが公式の場に連れ歩くのは、ふだんは貴族軍人の秘書である。つまり、今回のようなことでもなければ、ヴィッレと交流する機会は、なかなか持つことが叶わない。オトゥールがいちばん信頼しているのは、じつはヴィッレで、だから今回も彼を連れて来たのだ。 ヨンセンにも、ピーターの思惑は分かった。ロナウド家との親密なつながりは、じつはここ数年ばかりのことで、ピーターとオトゥールのあいだくらいのものだ。 マッケランは、秘書のひとりであるサリナがもとL20の軍部にいて、アミザと親しい。ウィルキンソン家のほうのつながりは、オルドがフライヤと、親しいと言ってもいい間柄だ。ピーターは、ヨンセンとヴィッレに、フライヤとオルドのようになってほしいのだ。 そして、個人的にヴィッレと親しくなるのは、ヨンセンにとっても気の進まない話ではなかった。 「分かりました。わたしにお任せください」 「うん。頼りにしてる」 ピーターは微笑んだ。 「このホテルは大丈夫だと思うが、さっきパパラッチを見かけた。それだけは気を付けて」 「ピーター様も」 ヨンセンは言った。 「俺は?」 オルドが尋ねると、ピーターより先に、ヨンセンが告げた。顎をあげて。 「秘書長として命令するわ。あなたはピーター様と夜景を楽しみ、夜には上がる花火や、ショーを観覧なさい。いいムードになったら、ベッドに入ってけっこうよ。多忙なご当主様を、ぞんぶんにお慰めしてちょうだい――ああ、それとも、アイゼン様のもとで、枕営業してくださってもけっこう。情報は、あるならあるだけ、いいわ」 「……!」 めずらしいオルドの歯ぎしりの音に、ヨンセンは勝ち誇ったように笑みを浮かべ、ピーターは、「アイゼンはダメ」と苦笑しながら言った。 |