五月に入った。アンのコンサートは、いよいよ間近だ。 あのあと――イシュメルの祝福が入ったルチアーノ手製の食事を取ったスタッフたちは、ひと晩経ったら、なぜか猛然と元気をとりもどした。 ルナは「イシュメルすごい」とアホ面をしていたが、とにかく明太子おにぎりが食べられたことと、みんなが元気になってよかったと思った。 元気になりすぎたスタッフたちは、バリバリ作業をした――結局、120000枚のチケット販売数に、30万人もの人間から応募があったのは、驚愕すべき結果だった。ララもさすがに、「30万人は予想してなかったねえ」と苦笑した。結局、屋敷のスタッフだけでは間に合わなくなって、チケット完売後の対応は、ララのほうで引き受けてくれた。 E353や、マルカからも、アンの歌を聞くためだけに、宇宙船に乗り込む株主や富裕層がいる――想像を超える事態だった。 「今期はいろいろありすぎる!!」 カオス屋敷でスタッフをしている役員たちは、中央区役所長の悲鳴を聞いて、笑いをこらえきれなかった。地球到達間近に、L55出発時点と同じ、約3万人が、あらたに乗り込んでくるというとんでもない現実。 所長は、いきなり船内の人口が増えることに悲鳴をあげ、コンサートのチケットが、2日目の1枚しか買えなかったことにも悲鳴をあげていた。彼が好きな「アイアン・ハート」は、1日目の1曲目である。 「まあまあ――船内のラジオでも配信しますから――テレビでも特番を組むそうですよ!」 とくにファンではないが、話題のものには飛びつく主義の役員は、そう言って所長を励ました。実は彼、1日目のチケットを買えたのであった。1日目だけだが。 「なんで船外の客まで誘致するんだ! 船内だけで間に合っただろ!!」 それは同感、とスタッフたちはひそかに思ったが、ホントの本気に、彼らもここまでチケットが売れるとは思わなかったのである。 そんな彼らは、ホールのVIP席で見られることになっているので、口が裂けても、ここでそんなことは言えなかった。 「シュステーマ・ソーラーレ! シュステーマ・ソーラーレ!!」 5月に入った最初の日、ピエトとネイシャが、タブレットを手にして、なぞの呪文を連呼しながら学校から帰ってきた。 「シュステーマ・ソーラーレ!!」 歓声を上げながら、ふたりでぐるぐる大広間を走り回る。セシルに捕まって、お尻をピシャリとやられるのはいつもの光景。 「シュステーマ・ソーラーレってなに?」 ルナが聞くと、子どもたちは声をそろえて叫んだ。 「地球の太陽系のこと!!」 「今日、学校で習ったんだ! もうすぐ、太陽系内に入るよ!!」 「あっ、そうか」 今月末、ついに地球に到達する。ルナはアンのコンサートのことで、すっかり忘れていた。 あと10日もすればアンのコンサート当日がやってくる。チケット対応は落ち着いたものの、本番はこれからだ。アンのリハーサルは熱がこもっていたし、リサやキラたち衣装組も、最終チェックに余念がない。 「見てくれ、ルナちゃん――これを」 ルナが大広間でピエロと遊んでいると、メンズ・ミシェルが帰ってきた。顔は、薄気味悪いほど満面の笑顔だった。彼はルナを見、スーツをびしっと整えて、やってきた。そして、自慢げに、カードを突きつけた。 「あーっ!!」 ルナは叫んだ。それは、メンズ・ミシェルが役員試験に合格し――ついに派遣役員になったことをしめすカードだったのだ。 「これは仮発行なんだ。地球に着いて、L55にもどったあと、正式に役員として認定される」 「すっげ!!」 なぞの呪文をぶつぶつ唱えていたピエトとネイシャも、群がった。 「無事取れたけど、残念ながら、俺は三番目」 「え?」 「いちばんがアズラエル、二番はグレン」 「え!?」 いつのまに、取っていたのだ。 そういえば、このふたりから「講習」の二文字を聞くことがなくなって、久しい。 グレンが、二番だったことを悔しがるように、アズラエルに向けて歯をむき出し、アズラエルはグレンを蹴った。 「きゃーっ!! タダイマ!! ただいまみんなー! これ見てーっ!!」 キラが、黄色い声を張り上げて帰ってきた。ロイドは、後ろから、苦笑しながら入ってくる。キラが両手をあげて宣言した。 「合格、しましたあーっ!!」 「ええっ!?」 キラとロイドも、仮発行の役員カードをみんなに見せた。 「みんながんばったね! お祝いしなきゃ」 アルベリッヒが、笑いながら言う。サルーンも、「ピイ!」と鳴いた。アルベリッヒは、地球到達後のことは考えていないと最初に言ったが、いまは変わった。地球に着いて、L55にもどってから、ルナと一緒に講習を受けて、船内役員になると決めたのだ。 そして、この屋敷に住むことにした――ずっと。 リサもあと二時間したら、仮発行のカードをかざして、意気揚々と帰ってくるだろう。キラの母エルウィンも合格したというし、みんなはいよいよ、宇宙船の役員だ。 「みんな、いいなあ。あたしもベッタラさんの故郷に行くのをやめて、役員の資格取ろうかなあ」 セシルが笑いながら言うと、「取りなよ! セシルさんも!」とキラが大はしゃぎで誘った。 「ベッタラが泣くぞ」 「アイツは共通語もアヤシイ脳筋だが、見捨てないでくれ」 男たちが口々にベッタラを擁護したので、セシルは腹を抱えて笑った。 「シュステーマ・ソーラーレ! シュステーマ・ソーラーレ!」 ふたたび、ピエトとネイシャが、叫びながら大広間をぐるぐる回る。 「な、なんの呪文……?」 キラがドン引きで聞いたので、ルナは説明してあげた。 「地球の太陽系のことだって」 5月21日――アンのコンサート終了日から2日後、「エッジワース・カイパーベルト」と呼ばれる天体が密集した領域から、地球の太陽系である「シュステーマ・ソーラーレ」に入る。一番に肉眼で見えるのは冥王星と、その衛星――カロン。 いよいよ、地球が近づいている。 アンのコンサート1日目を翌日に控えたルナは、朝、ZOOカードのうえに、銀色の「カルタ(手紙)」が来ているのを見た。月を眺める子ウサギからの手紙だ。 「わたしを信じて」 ひとこと、書かれてあった。 意味深な言葉に、ルナが困惑していると、ZOOカードが勝手にひらいた。 「――!?」 ルナは目を疑った。 数枚のカードが、「ラ・ムエルテ(死神)」につつまれて、そこにあった。 アンのカードだけではない。 ひとりは、クマのカードだ。ルナは、それが、アズラエルの祖父であるアダムだと分かった。もう一枚は、“父なる孤高のトラ”――。 「バクスターさん……!」 グレンの父、バクスターだ。アダムやドローレスの救出は、間に合わなかったのか? “天秤を担ぐ大きなハト”――ピーターのカードもあった。 「……!?」 いったいなにが起こっているのか、ルナには分からなかった。どうして、こんなに一斉に、「ラ・ムエルテ」がかかったのか。 そして――。 「グレン……!?」 ルナは思わず、カードをつかみ締めた。見間違いと思ったが、ちがう――グレンの“孤高のトラ”が、黒もやにつつまれている。 「やだ――なにこれ!!」 払っても払っても、消えない。ルナは、震えながらカードをつかみ、最後の一枚に目をやって、愕然とした。 「ピエロ――!」 ピエロの、「八つ頭の銀龍」にも、ラ・ムエルテの手が伸びていた。 (どうして!?) ルナの頭は瞬時に混乱した。どうして――なぜ――いま、地球に到達しようとしている、こんなときに。それしか浮かばなかった。ここしばらく、つよく感じていたグレンに対する不安は、このことだったのか? 「待って――待って。みんな、どうして?」 アズラエルの祖父アダムは、病気で死期がちかいから、ルナたちは地球到達前に会うことになった。死期が近いのは、わかっていた。だが、バクスターは、助け出せなかったのだろうか。なぜピーターに死神が――グレンも病気? ピエロも? ルナはぎゅっと目を瞑った。 考えれば考えるほど、分からなくなる。 (ど、どうしよう――!) ルナは動揺したが、目を開けると、手には月を眺める子ウサギからのメッセージがあった。 ――わたしを、信じて。 (だいじょうぶだ) ルナは、深呼吸をした。 (だいじょうぶ。冷静になれ) ――不思議だった。 月を眺める子ウサギの姿を思い浮かべれば浮かべるほど、「だいじょうぶだ」という気持ちがわいてきた。 彼らに訪れるのは死ではない。 そんな予感がしてきた。 ピエロはもともと、ララが「五歳まで生きないだろう」といった子どもだ。けれども、ピエトが、ルナのもとに導いてきた。助かる可能性があるからだ。ピエロに最初から、死の選択肢しかないのなら、ルナのもとには来なかったはずだ。グレンも、「孤高のトラ」から、カードが変わる時期に来たのかもしれない。 (そして、アンさんは、うさこが助ける。――今カードが出てきたってことは、アダムさんもだ) ピーターさんも。 ルナは、黄金の天秤を思った。そうして、自分がなすべきことに、気づいた。 「ルナ」 アンジェリカが部屋に入ってきた。彼女も、慌てていないところを見ると、すでにこのラ・ムエルテを見たのだ。 「いよいよ、サルディオーネになる日が、近づいてる――用意はいい?」 「うん」 ルナは、力強く返事をした。 ――12人の使徒が持つ玉によって、黄金の天秤は輝く。 月と地球の、御前にて。 地球が――月が。 いままさに、近づいている。 |