二百十三話 天秤を担ぐ大きなハト Ⅲ



 

 ――ママ、痛い。もういやだ、怖い。怖いよ。

 

 ピーターは絶叫した。泣きわめいても母は許してくれなかった。悪魔のような顔で、アイゼンとピーターが階段を上がることを強要した。

 兄の顔が青ざめ、震えていたのを見たのは、あれが最初で最後だ。――あの地獄以上に恐ろしい目になど、ピーターもアイゼンも、遭ったことはない。

 

 ――この階段を上がらなければ、おまえたちの命はない!!

 

 母の言葉は、正解だった。あのころのピーターには分からなかったが、今なら分かる。たしかにアイゼンとピーターには、死が差し迫っていた。

 

 アーズガルドの当主サイラス――ピーターの父は、アレクセイの再来と言われた男だった。アレクセイは、第二次バブロスカ革命があったころのアーズガルド当主で、家の者がドーソンに歯向かったために、アーズガルド家が危急存亡に立たされた。その難を乗り切り、アーズガルドを救った当主である。彼がいなければ、いまのアーズガルドはなかっただろうと言われ、主義関係なく、敬われている当主であった。

それにサイラスは、わかいころ、ウィルキンソンの当主――エルドリウスの養父から薫陶を受けたことがある。有能で先進的で、ドーソンとのあいだでうまくバランスを保ちながら、軍事惑星の先を考えていた大器だった。

アーズガルドの当主となる者はむずかしい。凡愚であれば、ドーソンの言いなりになるほかはない。だからといって、有能で、自己主張の強い者が当主になると、瞬く間にドーソンにつぶされる。

アーズガルドの当主たる者、ドーソンの機嫌を取り、凡愚を装い、ドーソン派の身内にも自分を偽り、だれにも心を許してはならない。そういう人物でなければ生きてはいけない。でなければ、ドーソンと、ドーソンにおもねる味方に、当主の座を追い落とされかねない。

サイラスも結局、「そうなって」しまったのかしれないが、彼が為したことは大きかった。あのアイゼンでさえ一目置いている。アイゼンは、実父コルドンを親とは思っていない。サイラスのほうを、親として慕っていた。だから、今でもピーターに、多少の妥協を見せるのだ。

 

 サイラスは、アランや若い日のユージィン、エルドリウスのように、傭兵擁護派だったというわけではない。口先は、傭兵差別主義を貫いていた。ドーソン主義だった。だが、ピトスとエルピスの正体を「知りながら」、妻に迎えた。ドーソンにそれを気付かれたとき、「まさか! 知りませんでした」としらを切ったが、彼は知っていた。彼女たちの正体を。貴族に養子入りしていた、第一次バブロスカ革命の子孫の存在を――。

 いや――サイラスが、ピトスとエルピスを、軍事惑星の名家に養子入りさせたという説もある。だれも、真実のところは分からない。

 サイラスは、「分からない」男だった。サイラスを長く支えたブライアンですら、サイラスの心中は推し量れなかった。

 そういう意味では、アーズガルドにもっともふさわしい当主だった。

 優しく穏やかで、だれにも腹を見せず、陰鬱でしぶとく、反骨者だった。

 

 四名家のなかでもっとも密やかに生き延びて来たアーズガルドと、傭兵の中で、もっとも暗闇をすみかとして続いてきた第一次バブロスカ革命の遺児、ヤマトは似通っていた。

 いつ、つながりができたのか、ピーターにもアイゼンにも定かではない。若い彼らに、「はじまり」を語ることができる老人もいなかった。ずいぶん昔から、つながりはあった。

 昔からの慣習に従って、サイラスと、ヤマトの頭領コルドンのあいだにも、ひそやかな交流はもちろんあった。

 

 そして、ピトスとエルピスは、ヤマトの女だった。

ただし、彼女らは「三姉妹」だった。

ピュクシスという、三番目の妹がいる。

年頃になったエルピスは、コルドンを見初めて妻になり、ピトスは、サイラスの妻となった。ピュクシスは、ひとり、年が離れていた。そのことが、彼女の命を救った。

 

 ドーソンが、アーズガルドに嫁いだピトスの正体を突き止めた。つまり、妹であるエルピスの正体も判明した。ヤマトは、彼女たちがドーソンに目をつけられた時点で、見捨てた。たったひとり残った、ピュクシスを守るためだった。ピュクシスの存在を、ドーソンに知られるわけにはいかなかった。第一次バブロスカ革命のエピメテウスの子孫にあたるのは、ピトスとエルピスのみと、ヤマトは告げた。

 ドーソンは逮捕という名の「始末」に動いた。

 ピーターにも死が迫っていた。アイゼンにもだ。

 ヤマトは見捨てたが、サイラスは見捨てなかった。退役後、地球行き宇宙船に乗り、人材を育てることにのこりの人生を費やせという啓示を受け取ったウィルキンソン当主から、真砂名神社の話を聞いたサイラスは、妻子を、地球行き宇宙船に送ろうとした。

 

 そのとき、ピトスとエルピスのあいだで、選択はまっぷたつに分かれた。

 ピトスは逃げるまいとした。自分も地球行き宇宙船に逃げてしまえば、エルピスもろとも、捕まってしまうかもしれない。だから、ロビンを連れて、軍事惑星に残った。スラムへ逃げて、L53に逃げようとした際に、ロビンを残して死した。

 エルピスには、選択肢がなかった。アイゼンは、ヤマトからも狙われていたからだ。

ヤマトの頭領コルドンとのあいだに産んだアイゼンは、末息子で、最初から頭領になる権限はなかった。だが、コルドンの正妻は、エルピスの美貌と燃えるような気の強さに恐れをなした。子どもながらに、エルピスの火のような性格を受け継いだアイゼンをも。

 コルドンの正妻は、エルピスが、守るべきエピメテウスの子孫だと分かっていながら、いつでも彼女を殺せるような意志をしめした。

 コルドンは、正妻の嫉妬からとおざけるため、サイラスにアイゼンごとエルピスを預けた。エルピスは、サイラスとの間に、ピーターをもうけた。

 ドーソンに正体を見破られたのは、そのあとである。

 エルピス親子は、サイラスの指示どおり、地球行き宇宙船に乗って、真砂名神社に向かった。だが、「多少の苦労」であるはずの階段は、予想外の試練を、ちいさな兄弟に課した。

当時の神主は告げた――「アイゼンとピーターの寿命はすでに尽きている」と。

 彼らが生き延びるには、地獄を越えるよりほかはない。

 エルピスは、地獄を選んだ――。

 

 ピーターには痛みと恐怖しか記憶はない。ピーターを、袋でも引きずるように引っ張っていたアイゼンが、白目をむいて動かなくなった。いつか、母が来た。階段上までピーターとアイゼンを抱えて上がった母を、ピーターは見ることが叶わなかった。すでに肉塊であったのだ。自分にまとわりついている「もの」が母だとは、ピーターは分からなかった。

 血と肉の塊になった母を母とも思わず、恐怖に叫びたくても声が出なかった。ピーターは、そして、気を失った。

 

 ――怖いよママ! 痛いよ、痛いよ――。

 

 ――恐れるな! 子どもたちよ。

 母の声はたしかに、耳に残っている。姿は見えなくても。

 ――母には、あの恐ろしげな男神のうしろに、祝福に微笑む、白き女神が見える。

 

 

 

 「――っっは!!」

 ピーターは飛び起きた。

 「は、はーっ! は、はあ、はあ、はあ、」

 ぎゅっとつかんだシャツの奥で、まだ激しい鼓動が波打っている。

 

 「ピーター」

 冷水をぶっかけられるようなオルドの声に、ピーターの熱も恐怖も、徐々に冷まされていった。火のような女の血を引いているのは、アイゼンだけではない。ピーターも、なのだ。その火が、いつもピーターを内側から焼く。

 目を覚まさせる。一時間の休息とて、許してはくれない。

 それは、太陽の神の手からほとばしる業火に似ていた。

 

 「ピーター、大丈夫か」

 「――平気に見える?」

 心配そうではあったが、オルドは部屋に入らず、ドアのところで、ピーターの様子を伺っていた。

 「その声なら、平気そうだ」

 薄情なオルドの声に、安眠以上の安心を覚える。ピーターの火を鎮める、つめたく澄んだ水だ。

 「シャワーを浴びたら」

 「そうする」

 ピーターは、ふらりと、ベッドから降りた。

 

 「ヘスティアーマ」が開催されたL55のリゾート島、コンセルヴァトワールには、まだロナウド家とアーズガルド家の一行が滞在していた。

 夜になると、プロジェクションマッピングを伴った、派手な噴水のショーと花火が、毎日のように、ホテルの窓から見える。

 ピーターが、すこしは目の覚めた顔で浴室から出てくるのを見て、オルドは報告した。

 「結局、ライベン家には、バスコーレン大佐が赴いてくれるってことで、話はまとまった」

 「バスコーレン……」

 ピーターは記憶を探った。

 「ああ、L20にいる、エルドリウスの“スパイ”か」

 「あいつやっぱり、スパイなのか」

 L20の陸軍大佐でありながら、ウィルキンソン家と親しい――というより、ほぼエルドリウスの右腕のような存在だ。L20の軍人としてメルヴァ討伐隊にも参加したが、先日のシュノドスには、エルドリウスの代理で来ていた。

 



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