(ここがいちばん、しずかです) そういえば。 ルナは、ピエロとキラリをベビーカーに乗せ、仕事場にしている、K05区の旧集会場に来ていた。 「ほいほい~泣かないよ~よいこだね~」 キラリが少しぐずったので、あやしていると、たちどころに落ち着き、うつらうつらしはじめた。ルナはやっぱり、屋敷が騒がしすぎて、ピエロもキラリも落ち着かないのだと思った。 (ピエトもネイシャちゃんも、最近おとなに付き合って夜更かししてるから、気を付けて寝かせてあげないと) ルナは、ピエロとキラリの世話係に落ち着いて、よかったと思った。もうすぐ、アンのコンサートが開催されるが、屋敷のメンバーはともかく、仕事を終えてから手伝ってくれる役員たちは、疲労が濃い。そろそろ、シャワーだけでなく、大浴場を掃除して、湯を張ろうと思っていた。 (温泉は、あったまるのです) ルナは、ひとりほんわかした。 ルナはパソコンも使えるし、ツキヨおばあちゃんのところで、帳面も見ていたから、簡単なお金の管理はできる。料理長にはなれないが、ごはんはつくれる。衣装はつくれないが、お手伝いには入れる。ルナは、どこにも手伝いに入れる――雑用は、やまのようにあるのだ。 屋敷のメンバーも、講習に通っている人間が多いし、ツキヨも病気持ちだ。ルナはツキヨも心配だった。 (おばーちゃん、無理してないかなあ) ルナはみんなのフォローをできるだけしようと思った。 「あたしは、みんなの生活管理隊隊長です!」 ルナはふんぬと鼻息を荒くした。 しずかな部屋で、赤ん坊はたちどころに寝た。ルナは小声で「コミエンソ(開始)」とつぶやいて、ZOOカードを広げた。 アンのカード、「バラ色の蝶々」は、もやがかかったままだ。もやは、このあいだより、濃くなった気がした。 (アンさんは、元気なのに) ゲリラ・ライブに、コンサート・ホールでリハーサル。アンは動いている。健常者だって、つかれてしまうような日程を、アンは信じられないくらい、精力的にこなしている。 アンより、スタッフたちのほうが、疲労困憊気味だ。 「ンン~、イシュメル・マジックは、ダメかな?」 イシュメルに、ごはんに元気の素を足してもらうわけには――。 「やっぱりここだった」 考えごとをしていたルナは、ひとの気配に顔を上げた。アンジェリカが、部屋に入ってきていた。 「アンジェ」 「衣装づくりも、だいたいメドがついたよ。あとで見てみる?」 アンジェリカは、うんと背伸びをして、首をコキリと鳴らした。 「見る見る!」 「すごいのできたよ――真っ赤と黄金と、銀色と、真っ青と、あと、バラでつくった衣装!」 「ええっ」 「とにかくすごい。派手。キラってすごいね。どっからあんなアイデア出てくるんだろ。でも、ステージ衣装には、あれだけ派手な方が、いいのかもしれないね」 「――アンジェ、顔色悪いよ」 ルナは、近くまで来たアンジェリカの顔色があまりに真っ白なので、思わず言った。 アンジェリカが元気なので、皆は半分以上忘れているが、彼女は妊娠9ヶ月目で、地球到着前後が予定日なのだ。あまりおなかも大きくないうえ、いつも大きめのジャージを着ているせいで、ますます体形がわかりにくい。 「赤ちゃんのこと気にかけてくれるの、姉さんとルナと、サルーンだけだわ」 アンジェリカは肩をすくめた。 「あ、アントニオももちろんね。ペリドットさまも、ああ見えて、けっこう気遣ってくれる――だいじょうぶだよ。ちょっとこのところ、根をつめたし、それでかも」 彼女は、ルナのとなりにすわった。 「屋敷にいると、何かしなきゃいけないような気がして――休みにくい。ちょっとここで寝るわ」 「そうして」 ルナが言うと同時に、アンジェリカは畳に横になった。ルナはそのうち、寝具を一式、押し入れに入れておこうと思った。 「ルナ、あのさ、怒らないで聞いて」 アンジェリカは、横になったくせに、眠らなかった。ルナに背を向けたまま、前置きした。 「ララに、アンさんの“ラ・ムエルテ”の話をしたの、あたし」 「――え!?」 ルナのうさ耳が、ぴーん!! と勢いよく立った。 ルナはそういえばと思い当たった。 アンが宇宙船に乗って、だいぶ経っている。アンがラガーで歌い始めてからも――シグルスが、かつてクラウドに協力を求めたように、アンがE353で生存していることも、彼らはだいぶまえから知っていたのだ。となれば当然、彼女が宇宙船に乗ったことも知っていただろう。 それなのに、いままで一度でも、ラガーを訪れたことはなかった。それがいきなり、アルバムの話をたずさえて、ラガーに訪れた。 アンジェリカが、アンの死期がちかいことを、教えたからだ。 「……ララは、もう、アンさんのことはあきらめていたんだ」 「え?」 アンジェリカは背を向けたまま、言った。 「アンさんが生きていたことは知ってたけど、病気だとは思ってなくて。宇宙船に乗ってから、病気だということがララにも伝わって。ララはもう、アンさんのことはあきらめていた。――だけどよく見て、ルナ」 急に彼女は身を起こした。 アンジェリカが黒もやにつつまれた「バラ色の蝶々」のカードを指した。アンジェリカの指先で、カードが浮き上がる。濃くなりつつあるもやのせいでよく見えないが、チョウチョは、格子のようなものにさえぎられて、もがいているような感じがした。 ルナは、床に置いた状態でしかカードを見ていなかったし、「ラ・ムエルテ」にばかり気を取られて、カードの絵柄をたしかめることをしなかった。 ――いままで、野原で花のあいだをゆうゆうと泳いでいた蝶が、格子に閉じ込められた絵柄に変わっている? ルナは目を見張った。 「これって――どうしたの? 閉じ込められてるの?」 「閉じ込められたというには、虫かごみたいなものは出てないでしょ? ただの格子――でも、バラ色の蝶々は、もがいている」 「え?」 「これは、“がんじがらめの葛藤”を指すの。彼女は、軍事惑星のために何かできないか、悩んでいる。苦しんで、もがいている。自分の死が近づいているのを悟って、このままでは死ねないと、あがいているんだ」 「――!」 「だからあたしは、ララに教えた。一回でいいから、アンの歌を聞いてみてくれないかって」 ララは、アンジェリカの願いを聞いて、ラガーへ足を運んだ。アンの歌を聞き、ララは確信した。――これは、奇跡の歌声だ。 「ふつう、年をとれば声帯も弱くなるし、むかしほど、声の張りもなくなる。ララがアンをあきらめていたのは、その点もある。アンは年を取りすぎた。もう歌わせるのは無理だと――アンの絶頂期は過ぎた、と、ララは思っていた」 でも、ちがった、とアンジェリカは言った。 「アンの絶頂期はいまだと、ララは確信した。77歳であんなに声の伸びが素晴らしいなんて、ふつうはあり得ないんだって。若い頃より声量もあって、しんじられないほどよく響く――あたしは、専門的なことは分からないけど」 アンジェリカは苦笑した。 「だからララは、アンの歌声を残そうとした。もちろん、コンサートは、軍事惑星にもリアル・タイムで配信される。ラジオもテレビも――でもたぶん、ララは、芸術的価値のために動くのであって、アンを、政治利用する気は、もうないんだと思う」 アンを追っていたドーソンの組織は、ドーソンの崩壊とともに消えた。軍事惑星は、変わろうとしている。そこへ、アンの歌声の復活は、どんな効果をもたらすのか――それを見てみたい気持ちはあるけれど、アンに強要する気はない。 アンの意志があれば、最大限活用させてもらうが、ララの気持ちは、あの芸術的歌声を、後世に残したい――それだけだった。 アンの歌は、傭兵も軍人も変わらず愛された。歌の前には、傭兵も軍人もなかった。アンのファンという、人間がいただけだ。傭兵出身だったアンを救い、生きながらえさせたのは、アンのファンだった将校たちだった。 アンジェリカは指を鳴らした。アンのカードから格子が消え、ふたたび野原を舞い泳ぐ姿に変わった。 「アン自身も、こうなることを望んでいたんだ――コンサートの計画が始動してから、カードの絵がもとにもどった」 「……」 ルナはウサギ口をして、カードを見つめた。 「ラ・ムエルテが彼女のすべてを覆うまえに、彼女は全力を果たそうとしている」 |