地球行き宇宙船は、地球への、残り少ない航路を、ただまっすぐに進んでいる。

 5月11日――アンのコンサート当日が来た。

 あいかわらず、ピエロはルナがいないと大泣きするのは変わっていなかった。ルナははじめて、ピエロのこの様子は、ラ・ムエルテのせいではないかと思いはじめた。

 ふたたび病院へ行ったが、やはり悪いところは見当たらなかった。

 みんなはコンサートに出かけたが、ルナはアズラエルとともに、サルーンとキラリを預かって、屋敷に残った。残念だが、アンのコンサートは、テレビで見るつもりだ。

 ピエロやキラリを連れてもいけない。コンサートの大音量は、赤ん坊には刺激が強すぎる。どちらかというと、タカにもだ。

 

 「じゃあ、行ってくるね!」

 「行ってらっしゃい!!」

 みんなを屋敷から送りだしたあと、ルナはアズラエルに言った。

 「アズも行ってきてよいのに」

 「アンのファンだってことはたしかだが、五日も通わなくていい」

 アズラエルは伸びをし――ずっと騒がしかった屋敷から、ひとっこひとりいなくなってガランとしたので、リラックスしたように、大広間のど真ん中で仰向けになった。

 「テレビでじゅうぶんだ。酒もねえのに、延々と曲だけ聞き続けるのは耐えられねえ」

 五日のうち、一回くらい行くよ、とアズラエルは言い残し、寝はじめた。

 ルナはちょっとだけ、ピエロを見ていてほしかったのだ。ちょっとだけ。五分か十分、ZOOカードを見るあいだ。ルナはぷっくらほっぺたをし、アズラエルのすね毛に宣戦布告した。

 「やれ! ピエロ!」

 「うきゃっ♪」

 ピエロの楽しげな声がした。「ぐおっ!?」おどろいたアズラエルが飛び起きると、ルナの手先であるピエロが、アズラエルのすね毛をむしっていた。

 「おいやめろ! コラ!!」

 「ふきゃ♪」

 アズラエルはピエロを抱き上げた。

 「アズはもうすこし、寝るのをよすのです」

 ルナはピエロを受け取り、「眠れやすらかに。うさぎの子よ」というカオス極まりない、自身が作詞作曲した子守唄を歌った。この歌の恐るべきところは、「うさぎふわふわ、ふわふわぴょこりん」という意味をなさない歌詞が九割を占めているというのに、五分でピエロが眠りにつくという奇跡を毎回実現させることだった。子守唄はピエロにだけ効くのではない――キラリも寝るし、大人にも効いた。つまり、クラウドも寝た。戦慄したクラウドは、すぐに歌詞と音程を分析しにかかったが、クラウドの才をもってしても、カオス子守唄の謎は解けなかった。

 

 とにかくピエロと、ついでにキラリも無事眠りについたので、ルナはアズラエルに預けて、ぺっぺけぺと自室に直行した。

 ルナは、ZOOカードを開けたが、どのカードからも、「ラ・ムエルテ」は消えていなかった。

 昨日同様、不思議なことに、不安はいっさいなかった。

 ピエロの様子は、ほんとうに、どこも悪いところはなさそうだ。ルナがそばにいれば、機嫌よくおもちゃをかじっていて、たまに楽しげな笑い声までもらす。

 

 (――月を眺める子ウサギ)

 ルナは、自分のカードをあらためて見つめた。ウェディングドレスを着たうさぎが、月を眺めている光景。背景に見えるのは、月と窓と砂浜。

 ルナは、自分のカードをこれほどまでにマジマジと観察するのは、初めてだということに気づいた。

 (あたしと、アンジェはちがう)

 アンジェリカは、基本的に頭がいい。ZOOカードも「英知ある灰ねずみ」である。だから、彼女と白ネズミの女王とのやり取りは、さまざまな事象をアンジェリカが選択し、ふかく思索、調査していくことによって行われるが、ルナはちがう。

 ルナとアンジェリカでは、与えられた課題がちがう。やりかたもちがう。

ルナは「月を眺める子ウサギ」なのだ。

 (あたしは、月を眺めてる)

 月にいるうさこをながめている。うさこを、見つめている。

 

 ルナは日記帳をひらいた。

 いつも、すべてがうまくいくときは、どうだった? ルナ自身がじたばたせず、できることをやって、待機する。時を待つ。そうすれば、月を眺める子ウサギとのコンビネーションが、ピタリとハマることが多かった。

 ルナ自身がなにもできないと感じることが多かったが、それは当たり前だった。ルナは媒体。月を眺める子ウサギを活かすのが、ルナの役目。

 アルベリッヒも言った。ノワの言葉を借りて――。

 「時を、読む」のだと。

 

 (今、あたしにできることは)

 なにがあっても冷静でいること。

うさこを信じて、時という名の、「機会」を待つこと。

なにもしないで、ただ待つのではない。できることをしていく。考えもする。やったほうがいいことがあったら、してみる。

けれども決して、日常はくずさない。

 それがルナなのだ。

 それが、「月を眺める子ウサギ」のやりかた。

 月を見つめる。月を読む。うさこという名の、時を読む。

 ZOOカード――そして、時を操る時計、セプテンの古時計。

 (すべては、必要とした「時」にしか、動かない)

 

 『おまえは、日常がなくなってしまうのではないかとうろたえていたが』

 ルナはびっくりしてぴーん! とのけぞった。後ろには、イシュメルとノワがいた。話していたのはイシュメルだった。

 『おまえから、日常がなくなることはない。むしろおまえは、日常を守らなくてはならないのだ』

 「――え?」

 『朝起きて、食事をし、掃除をして洗濯をする。赤子の世話をし、友人と語り合い、入浴して眠りにつく。おまえの奇跡は、それよりほかにない』

 イシュメルは、優しい目でルナを見つめた。

 『こうしていても、時は刻まれてゆく。おまえの奇跡は、日常からしか、生まれない』

 「うん」

 ルナはうなずいた。ルナも同じことを考えていたのだ。

 

 

 

 ――K08区にある、セプテントリオ・ホール。

ルーシーが手掛けた芸術ホールである――幾度か修復をくりかえしながらも、もとの形は失っていない。宇宙船でもっとも古く、かつ大きな舞台があるホールだ。

 オペラやクラシック・コンサートが頻繁に催されるコンサート・ホール、演劇やライブも開催される、12000人収容の、大ホール。中ホールやリハーサル・ルーム、会議室もいくつか併合する、巨大な施設。

 VIPルームから、ピエト、ネイシャ、ミンファは、満員に埋め尽くされる客席をながめていた。

 「ほんとすごい――12000人ってこうしてみると信じられない人数」

 ネイシャがつぶやいた。五階席では、アンの姿は豆粒だろう。

 「ミシェル姉ちゃんやリサ姉ちゃん、だいじょうぶかな」

 「いまは、アンさんの最終チェックの真っ最中よ」

 ミンファが言った。三人一緒に、みるみる埋め尽くされていく客席を見下ろした。

 アニタとリサ、キラ、レディ・ミシェルとサルビア、アンジェリカは、いまアンの控室で、てんてこまいしているはずだ。

 

 マタドール・カフェのデレクとマスターは、VIPルームにこそいないが、オルティスがこっそり、5日分のチケットをプレゼントした。だから、この豆粒のような群集の中にいる。アントニオも、一日目と最終日の夜だけ来ると言っていたし、バーベキュー・パーティーの皆は、日づけこそバラバラでも、来ているはずだった。

 ナキジンやカンタロウたちも、大路仲間と一緒に、3日目に来ると言っていたし、ペリドット以外のK33区の知り合いや、バジやベッタラも、何日目かに来る。

 オルティス&ラガーの常連一行は、中央の最前列席にいた。アンの姿がはっきり拝める場所だ。

 「椅子、すげェふかふかだなあ」

 「コンサートなんて、アンさんがいなきゃァ、俺にゃ一生縁がねえ場所だよ」

 「こんなとこに来たのァ、はじめてだ」

 ラガーの常連客達は、役員だけあってスーツこそ着ているが、もともとが傭兵やチンピラばかり――たしかに、アンの存在がなければ、この大ホールに足を踏み入れることなど一生なかっただろう。オペラや演劇を観賞するタチではない。居心地悪そうにしていた彼らだが、周囲から、アンの歌を楽しみにしている声が聞こえてくると、だんだん自分のことのように嬉しくなってくるのだった。

 オルティスなどは、すでに男泣きだ。周囲がうるさいし、オルティスよりでかいフランシスとゾウみたいなチンピラ役員に両脇を挟まれていたので、目立たなかったが。

 「よく頑張ったよ、アン。よく今日まで……マルセル、ニコル、セインさん、皆、見てるか。アンの晴れ舞台だ――」

 「もう酔っ払ってんのか。オルティス、まだコンサートは始まってねえ。しっかりしろ」

 「うおおおおお……」

 蝶ネクタイの大ワニは、すでに三枚のハンカチをびしょぬれにしていた。

 



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