『孤独だった彼女は、ゲルハルト家に来ても、だれにも心を開かなかったのだが、不思議と、ジュリにはすぐに懐いた』 アズラエルとクラウドは、信じられない顔をしたが、エーリヒはご満悦である。 『父も母も、ジュリが軍人でないからよかったのだろうといったが、それだけでもないと思うね。ジュリはああ見えて、ひとの懐にすっと入り込む才能を備えている』 これは、エーリヒのノロケだろうか。クラウドは咳払いした。 「それで?」 『それから、父がわたしを呼んだふたつ目の理由は、天涯孤独となってしまったエセルを、グレンのもとに送ろうとしたからなのだよ。わたしが、地球行き宇宙船でグレンと“接触”したことは、父も知っているのでね。だが、その案は、エセル嬢が『それだけは』と泣いていやがった』 「ど、どうして?」 今度はルナが叫んだ。 『彼女の言葉を、ほぼ正確に復唱しよう――“グレン様には、会わせる顔がありません。トレーシーさまも、母アンナも罪を償いました。わたしも償って、あの世へ参ります。どうか、どうか、グレン様のもとに送ることだけはしないでください。わたしは、グレンさまのお顔を見ることができません”』 「……俺が言うのもなんだが、ずいぶん、前時代的な家だな」 ペリドットがあきれ声でつぶやいた。「グレン様、だって?」 「軍事惑星の名家ってのは、そういうところがあるぜ?」 アズラエルが、学生時代を思い出して嘆息した。 グレンが「様」をつけられるのを嫌がったから、グレンと仲が良かったいとこや歳のちかい親戚たちは、グレンを呼び捨てにしていたが、本来ならば許されることではなかったのだ。おそらく、宿老がいる場では、レオンでさえグレンを「様」づけで呼んでいただろう。 もちろん、グレンは学校でも、ドーソン家につらなる名家の子どもたちに、「グレン様」と呼ばれていた。 そしてそれは、グレンだけではない。オトゥールも、いとこたちから「オトゥール様」と呼ばれていた。軍事惑星では、名家の長男というのはずいぶん偉い立場なのだ。 グレンの立場のことはもとより、クラウドは、聞き逃さなかった。 「罪を償う?」 『そう。エセルは自殺未遂をくりかえした。ジュリも当然止めたし、グレンがおそろしい男でないことだけは、何度も説得した。だがダメだった。ジュリは根気強く、彼女に付き添ったよ。死なせたくなかったのだろう』 「あの、ジュリがね……」 アズラエルは、まだ信じていないようだった。 『罪を償わねばと、そればかり。まるで意味の分からないことをつぶやくだけだったが、やがて分かったのだよ。彼女はグレンを恐れているのではない。グレンという――直系の嫡男に、申し訳ないことをしてしまったから、詫びようとしているのだと』 「その、申し訳ないことって、いったいなんだい?」 『先に言い含めておくが、トレーシー殿と、アンナ嬢は、自殺ではなく病死だ。それはたしかだ。だが、彼女たちは、あまりに重い心労のために、死が早まったのだ。それは、エセル嬢が、ジュリの苦労のすえに、やっと重い口をひらいたことで分かった。彼女の繊細な心は、あまりにも大きな負の遺産を、みずからの胸ひとつに納めていることなどできなくなってしまった』 「ジュリの苦労は認めよう。――で?」 『原因は、ドーソン家に代々受け継がれてきた銀の天秤が、壊れてしまったことなのだよ』 「なんだって?」 ドーソン家には、家宝とも呼ぶべき銀の天秤が受け継がれていた。エセルは、なぜ初代が天秤を、どこから、どのような経緯で手に入れたかは知らされていなかった。だが、その銀の天秤が、命を懸けて守るに値するものだということだけは、分かっていた。 天秤は、直系の子孫が継承するもので、壊れるときは、一族が滅びるときだと言われていたからだ。 そして、天秤の最期を見届けたのは、不本意ながらもエセルだったが、エセルは、ほんとうなら、天秤の存在すら知らずに一生を終えるはずの立場なのである。 一度はバクスターが継いだはずのそれは、バクスターが左遷されたときに、本家にのこされた。そして、グレンもまた、天秤の話を聞かされるはずのおさない時分には、他所へあずけられ、帰ってきてからも、バクスターとの接触がほぼなかったために、天秤のことを知ることなく現在に至る。 本来なら天秤の持ち主であるグレンが、天秤の存在すら知らないだろうことを、エセルは分かっていた。 「うん。グレンは、天秤のことは知らない」 クラウドは断定した。 ドーソンの初代がラグ・ヴァーダの女王から天秤をもらったという話を聞いたときも、「それがほんとうなら、実家にでも残っているんじゃねえか?」と他人ごとのような話をしていたからだ。 そもそも、天秤というものは象徴的なものであって、実在するとは思っていなかったクラウドたちである。むろん、グレンもそうだった。 嫡男であるバクスターは左遷、叔父、叔母たちは次々に監獄星へ連行され、いとこたちもみんないなくなってしまった――祖母トレーシーは、しかたなく、本来なら受け継ぐ立場にはないアンナに天秤を託した。 本来なら嫡男であるバクスターの妻ジュリに受け継がれているはずが、ジュリは妻だと認められなかったため、グレンが妻をめとるまでと、トレーシーが保管していたのである。 アンナはトレーシーともども、天秤を大切に保管した。ゲルハルト家に避難するときも、厳重に梱包して、ふたりで大切に運んだ。他人の手には触れさせないし、任せなかった。 天秤は、かならず、ドーソンの直系にのみ受けつがれ、当主の妻が毎日、みがくことを日課としてきた。ほかの者にはさわらせない。一族の命運がかかっている天秤である。 そして、エセルが天秤の話を聞いたのは、ゲルハルト家に避難したあとだった。 トレーシーも高齢ゆえ、いつあの世へ行くかわからない。アンナも、度重なる一族の災難に、ずいぶん衰えていた。ふたりが死んだら、あとはエセルしか、天秤を守る者はいない。 『けれども、大事態が起こった』 「銀の天秤が……」 『うむ。ユージィンが死んだ次の日、天秤がまっぷたつに割れていたというのだよ』 トレーシーとアンナ、エセルが、天秤を磨くために、安置している部屋にはいったとき、それはあきらかになった。 アンナは、天秤がまっぷたつになってしまったのを見て、半狂乱におちいった。アンナの母トレーシーは、ユージィンの訃報を聞いたとき、どこかでこうなることを予想していたという。 病弱な娘に責を負わせたくなかったトレーシーは、祖に詫び、アンナにもエセルにも受け継がせることをやめ、みずから窓の外へ天秤を落として割った。「責任はすべて、わたしが負う」と言い残して。 そして、次の日に亡くなった。アンナも、それからまもなく、母のあとを追うように、亡くなった――。 『くだけるまえの天秤を、わたしは写真で見たが、わたしの父と母はじかに見ている。ドーソン家の家宝ということで、触れさせてはもらえなかったそうだが。毎日みがいているというわりには、くすんでいる気がしたと母は言っていた。トレーシー殿は、昔はもっと、まぶしいほどに光り輝いていたのよ、と悲しげにつぶやいたそうだ。毎日天秤をみがいていた彼女には、天秤のくすみやほころびによって、ドーソンが滅びゆくのを、肌身に感じ取れていたのだろうか』 エーリヒは、すこし感傷的に語った。 『粉々にくだけた天秤は、わたしも見たし、触れさせてもらった。しかし、銀というものが、二階から花壇の上に落として、あんなに“粉々”に割れるものかね?』 銀がまっぷたつに割れる、というのも、ずいぶん特異な現象だ。折れ曲がったり、溶けたりするのなら分かるが――。 エセルの話によると、鋭利な刃物で切断されたように、軸がまっぷたつになっていたというのだ。天秤棒も真ん中から切れ、皿と皿をつり下げていた鎖は、絨毯の上に落ちていた。それは、エーリヒの母も見た。 トレーシーが窓から落としたときも、まるでガラスを落としたような、鈴が鳴り響くような、不思議な音がしたという。まるで水銀をこぼしたときのように、天秤は結晶化してくずれた。 「もしかして、素材は銀ではなかった?」 『いいや。たしかに銀だった。成分を調べさせたからね。すなわち、あれはふつうの天秤ではなかったのだよ』 「まさしく、予言通り、ドーソンの崩壊とともに、壊れるはずのものだったということか……」 ユージィンの死の翌日に、まっぷたつに割れた天秤。 ――崩壊の一途をたどる、ドーソン一族。 「それで、エセルさんは」 『エセル嬢は、最近やっと、ジュリの献身もあって、おちついてきたところだ』 「銀の天秤はもう、ないんだね?」 トレーシーが窓から落として、粉々にしてしまった天秤は。 『成分を調査させたが、あとは箱にくずを入れてしまってある。エセル嬢がだいじに持っているよ』 「……」 『興味深いと思わないかね。あの、軍事惑星群に厳然と君臨し続けたドーソン一族が、代々受け継がれてきた天秤によって、一族の興亡をはかっていたなんて』 思案していたクラウドは、苦笑した。 「君は俺のメールを見たんだな? 返事はなかったけど」 『もちろんだ。ルナに、黄金の天秤がとどいたという話だろう? そして、ルナがサルディオーネになるということ』 エーリヒはルナに視線を移すことによって確認した。ルナはぴょこん、とうなずいた。 「黄金ときたら、銀と銅はファンタジーの鉄板みたいなものだよな」 『そういうものかな』 少なくとも、銀の天秤が実在したことははっきりした。 ピーターの前世である男が、アストロスからイシュメルを守り、兄「セルゲイ」の名を名乗ってラグ・ヴァーダ星へ到着し、女王から受け取った「銀の天秤」。 それは、軍事惑星の――ひいては、L系惑星群に来た地球人の繁栄を約束するものだった。女王が三つ星をつなぐ存在イシュメルの命と、地球人がL系惑星群を侵略しない条件としてわたしたであろう、繁栄の象徴だ。 それはドーソン家に代々受け継がれてきて――ついに、その役目を終えて、壊れた。 |