「あっ! それ、テキスト!?」
アルベリッヒが開いているのは、役員講習のテキストだった。
「うん。俺はだから、船内役員の資格を取って、ルナちゃんの補助役員になるよ?」
「ほんとに!?」
ルナのうさ耳が、ぐぐいーん! と伸びた。
「俺は原住民のリュナ族ってこともあって、すぐ審査は通った。受講はL55に帰ってからだけど。それで、これからケトゥインとエラドラシスの言語も、すこしずつ勉強しようと思ってる」
ケトゥイン語の師匠はバジさんがいるし、K33区に行けば、エラドラシスの知り合いは、いくらでもいるからね、とアルベリッヒは笑った。
「……!?」
みんな、いつのまに、そんなことになっていたのだろう。ルナは、ピエロを抱えたまま、驚き顔でふたりを見つめた。
「そ、それでじつは、あたしも……」
「ええっ!?」
おずおずと言ったシシーに、ルナのうさ耳が、さらに伸びた。
「ルナちゃんの補助役員になれば、このお屋敷に住めるっていうし――あ、それは、クラウドさんが言ったんだけど、それで、たぶんこのお屋敷は、これから先もたくさんの人が出入りして、介護士が必要になるときもあるかもしれないし――あ、介護士はロイドさんがいるけど――まあ、ルナちゃんはこんなふうに忙しいしさ、掃除くらいなら、あたしもできるし――」
「掃除くらい、じゃないです! これはものすごい掃除です!!」
ルナは自分でもなにを言っているか分からなかったが、とにかく、シシーの掃除は、清掃業者クラスだった。掃除をお願いして、つやぴかになるほどワックスをかけてもらったことは、なかなかない。
「そ、それで、合格かな……?」
「へっ!?」
シシーはもじもじと、手をすり合わせた。
「ルナちゃんに合格をもらわないと。あたし、ルナちゃんの補助役員になるわけだし……」
ルナはぽっかり口を開けた。アルベリッヒも、期待を込めて、ルナを見ている。
「ご、合格もなにも! あたし、まだK19区の役員じゃないし――それに、そんな、いいんですか、その、補助役員とかで……!」
シシーは、清掃業者でも、介護士でも、もっと条件のいい役員になれる資格があるのではないかと思えた。だがシシーは、真剣に言った。
「いいの! あたし、この屋敷で暮らしたい」
「あたしの補助役員でなくても、この屋敷にいたっていいんだよ?」
このツアーが終わったら、屋敷を離れる人間もいる。部屋は空く。皆は船客でなく役員になるのだから、シシーが入っても構わないだろう。
ルナは言ったが、シシーは悲しげな顔をした。
「ルナちゃんは、あたしが補助役員じゃ迷惑かな……? たよりない?」
「……!? まさか!!」
ルナは猛然と首を振った。
そして、次の瞬間、脳裏に浮かんだのは、「12の預言詩」のことだった。12人の最後の一人は、やはりシシーだったのか。
「たよりがいがありすぎてびっくりしてるのです!! シシーさん、ほんとにいいの?」
「え、じゃあ、合格!?」
シシーの顔がぱあっと輝いた。ルナは、アルベリッヒにも聞いた。
「アルも? 後悔しない? 旅に出なくていいの?」
「俺もずっと、ここにいて、みんなと暮らしたい」
アルベリッヒは、にっこりと笑った。ルナはすかさず、ピエロごと頭を下げた。
「こっちこそ、どうかよろしくお願いしますっ!!」
「「やったー!!!!!!!」」
シシーは涙を流して万歳し、アルベリッヒとハイタッチをし、ルナとハイタッチをし、ルナがアルベリッヒとハイタッチをするのを待ってから、「アル! アルリリリッヒさん!! ちょうだい! あれちょうだい!!」と威勢よく彼の名を噛みながら叫んだ。
アルベリッヒが笑いながら、キッチンの戸棚にしまってあったつつみを出してくる。そのシンプルな包みには、ルナも覚えがあった。
「やったー!! ヤター!! ついにあたしも、このエプロンを!!」
中身は、この屋敷に住むメンバーの証ともいえる、ガーデニング作業用のエプロンだった。シシーはさっそく、包み紙を破いて取り出し、身に着けた。シシーの分は紺色だ。ルナとアルベリッヒとおそろいの。
ルナから合格をもらったら、エプロンをもらう約束だったのだろう。
「似合う!?」
「うん、とっても似合う!!」
「シシーさんも、ついに屋敷のメンバーだね」
「三人、お揃いカラーだね!!!」
シシーはひとしきりはしゃいで、最後にピエロの小さなおててとなんとかハイタッチをし、鼻息も荒く、椅子に落ち着いた。アルベリッヒが、シシーの興奮ぶりを苦笑しつつ、ルナに言った。
「ツキヨさんとリンファンさん、エマルさんの分も欲しかったし、それなら、カザマさんとカルパナさんの分もあったっていいんじゃないかってだれかが言いだして。チャンさんとその子分たちも羨ましがってたし。この先、だれが来るか分からないから、メンズとレディースと、20着分くらいまとめてミシェルさんが注文したんだ」
「ミシェルが!」
メンズ・ミシェルのほうだ。
さっきアンジェリカが言ったことが本当になるのなら、来期は、グレンの父バクスターと、もと執事のローゼス老人、それからグレンのいとこのエセルが入居してくる。
代わりに去るのは、セシルとネイシャ、それから、サルビアとグレン、セルゲイだ。ツキヨも地球に住むことになるかもしれないし、リンファンとエマルも、L18にもどることになるのか。
「……」
母親と父親が、ふたたびL77で暮らすのかどうか、ルナはまだ聞いてはいなかった。
「アニタさんは、役員になってもこの屋敷に住みたがっているけど、ニックさんと結婚したら、コンビニのほうのうちに住むかもしれないし。アンジェも地球でアントニオさんと結婚したら、住居はリズンになるのかな」
「……」
「――それで、セシルさんがね」
「うん。セシルさんが」
アルベリッヒの言葉に、シシーもうなずいたので、ルナは「セシルさんがどうしたの」と聞いた。ふたりは顔を見合わせて、アルベリッヒが、言った。
「じつは俺、セシルさんを誘ってみたんだ。いっしょにルナちゃんの補助役員やらないかって」
「えっ……」
セシルは、ベッタラとともに、彼の故郷であるL46の離れ小島に行くはずだ。
「セシルさん、たぶん、すごくこのお屋敷に残りたいんだと思う」
シシーも、実感を込めて、深々とうなずいた。
「一日に、かならず一回は言うよ? ルナちゃん大丈夫かなって、子どもが一気に10人も来たらどうすんだいって、すごく心配してる。さすがに、10人一気に来ることはないだろうけど」
アルベリッヒは苦笑し、つづけた。
「セシルさん、ケトゥインの言葉と、ラグバダの言葉をすこし喋れるから、補助役員になったら、すごくいいと思うんだ」
「……」
ルナはひとりでピエトを育ててきたとは思っていない。レオナやセシル――彼女たちの協力があったからだと思っている。ピエロのことにしても、乳幼児を育てるのははじめてのルナだ。キラやセシルが近くにいて、いろいろ教えてくれたから、なんとかやってこられた。この先もセシルがいてくれれば、ルナも心強いのはたしかだが、この屋敷にいてくれと、ルナは言えなかった。
セシルがなんだかんだいいながらベッタラを愛しているのはほんとうで、ベッタラもまた、セシルの望みは分かっているだろうが、彼も故郷の島の首長となるべき人物なのである。帰らないわけにはいかない。
「やっぱりベッタラさんは、L46に帰らなきゃいけないのかなあ……」
シシーがため息交じりにつぶやいたときだった。インターフォンが鳴った。シャイン・システムではない。玄関口のインターフォンだ。
「だれだろ」
アルベリッヒが立ったとたん、もう一度鳴った。それから、立て続けに鳴らされたので、ルナも、なんだかおかしいと思った。
「ルナちゃんたちはここにいて」
アルベリッヒがキッチンを出、なぜかシシーが怖い顔をして、包丁を手にした。そこへ、キッチンの外を大股で横切って、アルベリッヒを止める姿があった。セルゲイだ。
「いい。出なくていい」
「――え?」
そのあいだも、インターフォンはひっきりなしに鳴り、やがてドンドンっと激しい音が鳴ったので、ルナは飛び上がった。そんなルナを守るように、シシーが険しい顔で包丁を携えて廊下に出た。
「アンの事務所でしょォ!? ラ・ヴィ・アン・ローズさん! 分かってるんですよ!!」
「すいませーん、だれかいませんかあ!!」
「お話、聞かせてくださーい!!」
大広間を突き抜けて、キッチンまで聞こえる大声だ。剣呑な声に、ピエロの顔がゆがみだした。
「ぎゃ!」
ルナが先に叫んだ――とたんに「ギャー!」とピエロが泣きだし、ルナはあわてて、キッチンのテーブルの下にもぐった。なぜか。
そうしているうちに、サングラスにスーツという、コワモテ衣装のアズラエルとグレンが足音も荒く、書斎の方からやってきた。ドアの外のしゃがれ声には泣いたピエロだったが、パパと準パパのコワモテ姿には一気に泣き止んで、次の瞬間には笑顔になった。
アズラエルとグレンは、大広間を突っ切り、玄関扉を容赦なく開けた。扉向こうにいた記者が二、三人、跳ね飛ばされたようだ。
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