二百十八話 トリアングロ・デ・ムエルタ



 

震えながら洞窟の外の光景を見ていたカナコは、ふいに音をひろった。それは、この凄惨な光景とは、まったく関わりがないと思えるような音だった。

やさしい、甘い歌声は、カナコの左手の方から聞こえた。腰ベルトに固定してあった、小型ラジオ――音はそこからしていた。なにかの拍子に、電源が入ったのか。

カナコは、そこから聞こえるのがアンの歌声だとわかって、ようやく正気にもどった。

いままで、あふれることがなかった涙が、濁流のように頬を伝っていく。

「――美しい声だ」

ケヴィンが、カナコを抱きしめたまま、荒い息の下でつぶやいた。

「なつかしい、うしなった、遠い母のような……彼女はだれだ」

「アンよ……」

カナコは、ちいさく言って目を閉じた。洞窟の外の、すさまじい現実から目をそらすように。

「アンっていうの……」

ラジオからは、ふたりにしか聞こえない音量で、「カナリア」が流れていた。

 

 

 

――アダムとピーターが、L43に渡るためにL22を出航する、その日のことである。

ルナがグレンとともに、プリズムのなかに見たケヴィンとアルフレッドの姿――こちらは、ルナの友人のほうだが――は本物であった。

彼らはほんとうに、L22のスペース・ステーションに降り立っていたのだ。

「すごいひとだ」

L52ほどではないが、通勤ラッシュに巻き込まれたのか、人ごみに流されながら、双子は駅の出口に向かっていた。手土産の紙袋がつぶされないように、必死で抱えるアルフレッド。

「オルドさんも忙しいんだなァ」

一向につながらない、オルドのプライベート携帯の番号を見つめながら、ケヴィンはぼやいた。

「しかたないよ――僕たちも急に決めたし。ピーターさんもオルドさんもいなかったら、手土産だけ置いて、失礼しよう」

アルフレッドは苦笑しつつ、あきらめた。

 

ふたりがなぜ、L22のスペース・ステーションにいるかといえば。

双子はふたたび、バンクスについて、軍事惑星におもむくことになった。L19のロナウド家に用があったバンクスについてきたのだが、ふたりはせっかくだからと、すこし寄り道をすることに決めた。

かつてバンクスを捜す旅に出たとき、ピーターとオルドにはたいそう世話になった。すでに電話でお礼は述べたが、せっかく軍事惑星に行く手前、挨拶でもしていこうと、手土産片手に訪れたという、なんとも呑気な理由だった。

ピーターたちの住むL22は、軍事惑星群の窓口だから、かならず経由する。

オルドに会えたら、手土産ついでに、思い出話でも……などと思っていたのだが、急な訪問だったので、連絡がつかなかったら、手土産だけおいて去るつもりだった。

彼らの手土産は、ナターシャが働いているケーキ店の洋菓子詰め合わせと、オルドが好きだという、ミートパイである。ミートパイはナターシャの手作りだ。冷凍してあるから、あとはオーブンに入れるだけ。味は保証付きである。

ピーターの好物は、分からなかったが、秘書室は、ケーキ好きの女性ばかりと伺っていたし、オルドのミートパイ好きは、バンクスからの情報だった。

 

「せっかく来たから会いたかったけど、忙しいならしかたねえよな」

ケヴィンもあきらめて、携帯電話をポケットにしまった。

駅の外に出て、バスとタクシーを目で探した。

ふたりは、バンクスの捜索に来たときのことを思い出していた。あの日は雨で、このあとの過酷な旅を象徴するかのように空は暗くよどんでいたが、今日は透きとおるような青空だった。

あの日は、仏頂面のオルドが自家用車でむかえに来てくれたが、今日は迎えの車はない。

ふたりはバスターミナルからバスに乗り、首都スタリッツァの中央区へ向かった。L5系の都市と見まごうビル群――覚えのある景色――やがて、ふたりがかつて泊まった、豪奢なホテルが見えてきた。

ふたりはホテル前で降りた。目で確認できる位置に、アーズガルド家所有の陸軍本部ビルがそびえたっている。陸軍本部といっても、L5系の商社ビルと変わらない、高層ビルだ。ここから歩いて数分ほどである。ビルの背後は、ここからは見えないが、エアポートや専用のスペース・ステーションなどを併設する、広大な陸軍基地だ。

 

「どうする? ホテル泊まる?」

「ここ、高かったよなァ……」

アーズガルド家の客専用のロイヤル・ホテルは、一般客も泊まれるが、ケヴィンたちが泊まるには、多少の覚悟がいる金額のホテルだった。あのときは、バンクスが振り込んでくれた、破格のバイト代のおかげでなんとかなったが――かといって、軍事惑星では、安宿に泊まるのは、命の値段を下げるにひとしい。安全のためにも、このホテルを利用したほうがいいに決まっていた。

双子は、財布の中身と相談し、

「オルドさんと、明日でも会えそうなら泊まる。いないんだったら、土産おいて、今日じゅうにL19に向かって、バンクスさんに合流しよう」

「OK」

 

ふたりは歩いて、陸軍本部ビルに向かった。入り口には警備員がいて、ふたりは一瞬怯んだが、勇気を振り絞って、身分証とルパス(パスポート)を提示して、訪問の目的を話した。ふたりはL5系の住民ということもあり、あやしいところはこれっぽっちもなさそうだったので、通してもらえた。

銃さえ所持していないことを呆れられ、逆に心配されたくらいだ。

ビル内に入り、すさまじく天井の高い吹き抜けと、シャイン・システムとエスカレーターが交錯するひろい構内で、ふたりはなんとか受付を見つけて、そちらへ向かった。

 

「あの……」

L22の将校の軍装である、真っ白な軍服の女性が、三人待機していた。

「あの、俺は、ケヴィン・O・デイトリスと言います。こっちは、弟のアルフレッド。オルドさんに会いたいんですが、いらっしゃいますでしょうか?」

ケヴィンの声は、緊張のため引きつっていた。愛想のいい受付嬢だったが、軍服というものは、なぜか一般人に緊張を与えるのだ。

「どのようなご用件で」

アルフレッドはここにきてなんとなく、構内がせわしなく動いているように感じた。

「以前、その、バ……友人の捜索のとき、すごくお世話になったんです。――お礼を言いたくて」

「少々、お待ちください」

受付嬢は、秘書室とコンタクトを取っているようだった。しばらくして、

「オルドさんはおられませんが、秘書室でサリナさんがお話を伺いたいそうです」

「え?」

受付嬢は、親切に、秘書室の場所を教えてくれた。構内は広いので、簡単な地図を書いて。

「あ、ありがとうございます……」

手土産を置いていくつもりだったケヴィンとアルフレッドは戸惑ったが、秘書室のサリナという女性に渡せば、オルドにも早く届くだろうか。

秘書室は最上階だ。

ふたりはシャイン・システムで最上階のフロアまで行き、右に曲がったり左に曲がったりして、なんとか秘書室までたどり着いた。

秘書室の手前にも、受付の部屋がある。入りがたくて、ガラス越しにのぞいていた二人を不審に思ったのか、受付嬢のほうから開けてくれた。

「ケヴィンさまとアルフレッドさまですか」

なつかしい、様づけ。L03では、困ると言っても、さんざん様づけで呼ばれた。L52のファーストフード店でバイトをしているかぎりでは、剣呑な声で呼び捨てにされることはあっても、様づけで呼ばれたことなど一度もない。

 

「あ、は、」

「サリナ様、モニク様! ケヴィンさまとアルフレッドさまです」

「あ、入って入って! いれたげて!!」



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