二百二十話 黄金の天秤 Ⅱ



 

 短い手記をクラウドが読み上げたあと、広い座敷は沈黙に包まれた。

パソコン画面の向こうにいるアントニオとアンジェリカも、気難しい顔をくずさなかったが、やがてアントニオが「またあとで」と通信を切った。看護師が部屋に入ってきたのだ。

 

 「バラスが、真砂名の神の使者だって?」

 まず、だれもが言いたかったことを、クラウドが代弁した。

 「冗談だろ」

 アズラエルは言ったし、セルゲイも肩をすくめた。けれども、サルビアとカザマ、ペリドットは、妙に悟り切った面持ちで、クラウドの手元にある薄っぺらい紙束を見つめていた。

 「“バラスこそが、マーサ・ジャ・ハーナの神の使者であるのだ。もしくは、神そのものか。”と著者は書いている。とりあえずは著者の予想で、確たる証拠があるわけでもない。さらにいえば、女王がそう、信託を受けたわけでもないと」

 言いながらクラウドは、ペリドットたちを見た。

 「でも、君たちが無言でいるのは――ようするに――この意見に同意する意見を、すくなからず持っているってことなんだな?」

 「まわりくどい」

 アズラエルが容赦なく言ったが、セルゲイが、

 「でも、わたしは、なんとなく、しっくりくる」

などと言い出したせいで、みんなの視線が集中した。しかしセルゲイは具体的に、なんとなくの感覚を説明できる語彙は持っていなかった。彼は困り顔で、しどろもどろに言いわけした。

「分かる――なんとなく、分かる。気持ちはわかるってだけで、どうしてだと聞かれても、説明はできない」

だが、稀代の悪神が、真砂名の神ではないかと言われて、素直にうなずけるわけもない。

「まァね。この手記を読むと、L03に移住した地球人は、どうして文明を捨てた人間ばかり集まったのかということも、改めて考えさせられる」

「じゃあ、おまえも否定はしないってことか?」

クラウドの言葉に、アズラエルはしかめっ面をした。

「否定はしないさ――否定するだけの材料を、俺は持っていないからね。俺は、ラグ・ヴァーダの武神とやらに、会ったことはない。肉体を持って、生存していたころのね――だが、この著者は会った。おまけに、彼の伝記も書いている。すくなくともこの著者と俺の、大きな違いはそこにある」

 

「真砂名の神に、本来なら、本物も偽物もないと、かつてアントニオがおっしゃったのです」

サルビアは、唐突に言った。

「真砂名の神は、すべての原初たる万能神――本物も偽物も、そこにはない」

それから、ためらいがちに告げた。

「わたくしたちが抱えているのは、自分たちのつくりだした、偽物の真砂名の神。そんなに惑うようなら、いっそわたしのなかの真砂名の神を殺してしまえと、そう仰せられました……」

「殺せだって?」

アズラエルも、クラウドも驚いた。ふたりにとっては、アントニオらしくない過激な言葉である。

「すべてをつくりたもうた神を、人間の価値基準で決めつけるなと。そんなことを考えているからわたしは迷うのだと。ただ、神を忘れて二本の足で歩めと、そう申されました」

「アントニオらしい言葉だな」

ペリドットは苦笑したが、サルビアは、「すこし――その言葉の意味が少し、分かった気がします」と胸に手を当てて、つぶやいた。

 

「アントニオの言葉とは少しちがいますが、世界は陰と陽でできております。昼と夜、月と太陽、光と闇――闇がなければ、光は光たりえぬと申します」

 カザマも言った。

 「ケヴィンさまがたが、文明をもたらした真砂名の神の使者、バラスが災厄と対比されているのを見ましても、真砂名神社に祀られる四柱の神が、真砂名の神の光の使者ならば、ラグ・ヴァーダの武神は、闇の使者と対比してもよろしいでしょう」

 「そういう意見が出ているが、ルナ、おまえとしてはどうだ?」

 ペリドットが促すと、ルナは「ぴぷっ!」とくしゃみをした。

 

 「うん」

 決定打を落としたのは、アホ面のルナのひとことだった。

 「ばらしゅは、まさなのかみさまのけしんなのです」

 

 「……」

 肉巻きおにぎりを手にしたアホ面うさぎがそう言っている――いちおう真剣な顔ではあるが――クラウドは、目を座らせて、

「ルナちゃん、やっぱり、まだ俺に教えてくれてないことがあるでしょ」

 とちょっぴり恨めしげに言った。

 「あります!!」

 ルナは自信満々に返事をした。

 「えらそうにするとこじゃないよそこは――」

 クラウドは言いかけ、ルナの説明を待ったが、ルナは肉巻きおにぎりを大きくかじったので、言葉は途絶えた。

 

 「ルナ」

 「ぷ?」

 しかたなく、ペリドットも促したが、ルナは分かっていないようだった。

 「クラウドに教えていないことを、説明してくれ」

 ペリドットは、はっきりと言った。ルナはやっと、うさ耳を立たせた。

 「あ、うん、あのね。さっきお屋敷でね、廊下が密林になって、L43になって、それで、三千年前のことが見えたの。ケヴィン? が民俗学者だった時代ね。そいで、さっき手記にあったこと、みんな見たよ? そいで、トリアングロ・デ・ムエルタがはじまるってゆって、そいで、今度はラグ・ヴァーダのお城みたいになってね、女王様とバラスが、手を取りあって、笑って消えてった」

 

 「……」

 みなは、言葉を失って、沈黙した。さまざまに飛来した感情のためにだ。

もっと詳しく、具体的に説明してくれとか――どうしてそんなたいせつなことを最初に言わないだとか――手記を読むまえに、おまえが説明すればよかったんじゃないかとか――やっぱりルナだなとか――とにかく、最初に絶叫したのはクラウドだ。

 「ミシェルが浮気した!?」

 「落ち着けクラウド。浮気じゃない。手を取り合っただけだ」

 ペリドットがなだめた。

 「そうだよ。浮気じゃないよ。バラスはあたしが夢で見た姿とおんなじだった。十四歳くらいの姿。そんで女王様は、二十五歳くらいだから。浮気じゃないの」

 ルナは説明した。

 「そのときわかったんだ。そっかあ、バラスは、真砂名の神様の化身だったんだって。ラグ・ヴァーダの女王様も多分、晩年は知ってた」

 「ですから、ともにお鎮まりになったのですね」

 カザマの言葉に、ルナはうなずいた。

 「そいでね、バラスは、カザマさんがゆったのが、いちばん近いかもです。真砂名の神様の生まれ変わりとかいうやつじゃなくて、一部なの。真砂名の神様の一部。そんなかんじ」

 ルナの口が、またもふもふと動いた。咀嚼のためにだ。

 「肝臓って切ってもまた生えてくるってゆうでしょ? 真砂名の神様の肝臓のカケラ?そんなかんじかな?」

 それからルナはふと、自分が言った言葉に思いつめた顔をした。

 「バラスは、真砂名の神様の肝臓のカケラ……?」

 「神様に、肝臓があるかどうかはともかくとして」

 「肝臓は、身体のなかでもけっこう大事な臓器なんだぜ」

 医者であるセルゲイのぼやきとともに、最近、医学を学んでいるピエトからの、脱線に導きそうなご意見があったので、クラウドはあわてて言った。

 「たとえが悪すぎる」

 

 「うんでもね」

 ルナは、肝臓について考えるのをやめた。

 「笑いあってた」

 考えるのをやめたルナの言葉に、みんなが申し合せたように、そろって顔を上げた。

 「ふたりは笑いあってたの。だから、きっと、黄金の天秤への祝福は、ふたりがしてくれる」

 ルナの声は一瞬だけ月を眺める子ウサギに変わった気がしたが、一瞬のことなので、だれも気付かなかった。

 「……」

 ふたたび、座敷は沈黙一色となった。ルナひとりが、まだおにぎりをもふり続けている。

 

 「……この手記によると、ラグ・ヴァーダの武神の伝説っていうのは、べつにあって、この手記を書いた人物が、“虚を織り交ぜながら”書いたわけだね」

 クラウドが重い沈黙を破って、口をきいた。

 「まあつまり、武神がどれだけ勇猛果敢か、けっこうおおげさに――想像できるな――そして、それはL03の王宮に保管されている」

 クラウドが尋ねるまえに、サルビアは首を振った。

 「わたくしは、読んだことがありません」

 王宮保管庫には、読み切れないほどの書物があります、と彼女は言った。かつてサルビアは、その大量の書物を戦火から守るために、ユハラムに命じて地球行き宇宙船に避難させようとしたのだ。

 それは、先代のサルーディーバの反対によって、かなわなかったが。

 



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