短い手記をクラウドが読み上げたあと、広い座敷は沈黙に包まれた。
パソコン画面の向こうにいるアントニオとアンジェリカも、気難しい顔をくずさなかったが、やがてアントニオが「またあとで」と通信を切った。看護師が部屋に入ってきたのだ。
「バラスが、真砂名の神の使者だって?」
まず、だれもが言いたかったことを、クラウドが代弁した。
「冗談だろ」
アズラエルは言ったし、セルゲイも肩をすくめた。けれども、サルビアとカザマ、ペリドットは、妙に悟り切った面持ちで、クラウドの手元にある薄っぺらい紙束を見つめていた。
「“バラスこそが、マーサ・ジャ・ハーナの神の使者であるのだ。もしくは、神そのものか。”と著者は書いている。とりあえずは著者の予想で、確たる証拠があるわけでもない。さらにいえば、女王がそう、信託を受けたわけでもないと」
言いながらクラウドは、ペリドットたちを見た。
「でも、君たちが無言でいるのは――ようするに――この意見に同意する意見を、すくなからず持っているってことなんだな?」
「まわりくどい」
アズラエルが容赦なく言ったが、セルゲイが、
「でも、わたしは、なんとなく、しっくりくる」
などと言い出したせいで、みんなの視線が集中した。しかしセルゲイは具体的に、なんとなくの感覚を説明できる語彙は持っていなかった。彼は困り顔で、しどろもどろに言いわけした。
「分かる――なんとなく、分かる。気持ちはわかるってだけで、どうしてだと聞かれても、説明はできない」
だが、稀代の悪神が、真砂名の神ではないかと言われて、素直にうなずけるわけもない。
「まァね。この手記を読むと、L03に移住した地球人は、どうして文明を捨てた人間ばかり集まったのかということも、改めて考えさせられる」
「じゃあ、おまえも否定はしないってことか?」
クラウドの言葉に、アズラエルはしかめっ面をした。
「否定はしないさ――否定するだけの材料を、俺は持っていないからね。俺は、ラグ・ヴァーダの武神とやらに、会ったことはない。肉体を持って、生存していたころのね――だが、この著者は会った。おまけに、彼の伝記も書いている。すくなくともこの著者と俺の、大きな違いはそこにある」
「真砂名の神に、本来なら、本物も偽物もないと、かつてアントニオがおっしゃったのです」
サルビアは、唐突に言った。
「真砂名の神は、すべての原初たる万能神――本物も偽物も、そこにはない」
それから、ためらいがちに告げた。
「わたくしたちが抱えているのは、自分たちのつくりだした、偽物の真砂名の神。そんなに惑うようなら、いっそわたしのなかの真砂名の神を殺してしまえと、そう仰せられました……」
「殺せだって?」
アズラエルも、クラウドも驚いた。ふたりにとっては、アントニオらしくない過激な言葉である。
「すべてをつくりたもうた神を、人間の価値基準で決めつけるなと。そんなことを考えているからわたしは迷うのだと。ただ、神を忘れて二本の足で歩めと、そう申されました」
「アントニオらしい言葉だな」
ペリドットは苦笑したが、サルビアは、「すこし――その言葉の意味が少し、分かった気がします」と胸に手を当てて、つぶやいた。
「アントニオの言葉とは少しちがいますが、世界は陰と陽でできております。昼と夜、月と太陽、光と闇――闇がなければ、光は光たりえぬと申します」
カザマも言った。
「ケヴィンさまがたが、文明をもたらした真砂名の神の使者、バラスが災厄と対比されているのを見ましても、真砂名神社に祀られる四柱の神が、真砂名の神の光の使者ならば、ラグ・ヴァーダの武神は、闇の使者と対比してもよろしいでしょう」
「そういう意見が出ているが、ルナ、おまえとしてはどうだ?」
ペリドットが促すと、ルナは「ぴぷっ!」とくしゃみをした。
「うん」
決定打を落としたのは、アホ面のルナのひとことだった。
「ばらしゅは、まさなのかみさまのけしんなのです」
「……」
肉巻きおにぎりを手にしたアホ面うさぎがそう言っている――いちおう真剣な顔ではあるが――クラウドは、目を座らせて、
「ルナちゃん、やっぱり、まだ俺に教えてくれてないことがあるでしょ」
とちょっぴり恨めしげに言った。
「あります!!」
ルナは自信満々に返事をした。
「えらそうにするとこじゃないよそこは――」
クラウドは言いかけ、ルナの説明を待ったが、ルナは肉巻きおにぎりを大きくかじったので、言葉は途絶えた。
「ルナ」
「ぷ?」
しかたなく、ペリドットも促したが、ルナは分かっていないようだった。
「クラウドに教えていないことを、説明してくれ」
ペリドットは、はっきりと言った。ルナはやっと、うさ耳を立たせた。
「あ、うん、あのね。さっきお屋敷でね、廊下が密林になって、L43になって、それで、三千年前のことが見えたの。ケヴィン? が民俗学者だった時代ね。そいで、さっき手記にあったこと、みんな見たよ? そいで、トリアングロ・デ・ムエルタがはじまるってゆって、そいで、今度はラグ・ヴァーダのお城みたいになってね、女王様とバラスが、手を取りあって、笑って消えてった」
「……」
みなは、言葉を失って、沈黙した。さまざまに飛来した感情のためにだ。
もっと詳しく、具体的に説明してくれとか――どうしてそんなたいせつなことを最初に言わないだとか――手記を読むまえに、おまえが説明すればよかったんじゃないかとか――やっぱりルナだなとか――とにかく、最初に絶叫したのはクラウドだ。
「ミシェルが浮気した!?」
「落ち着けクラウド。浮気じゃない。手を取り合っただけだ」
ペリドットがなだめた。
「そうだよ。浮気じゃないよ。バラスはあたしが夢で見た姿とおんなじだった。十四歳くらいの姿。そんで女王様は、二十五歳くらいだから。浮気じゃないの」
ルナは説明した。
「そのときわかったんだ。そっかあ、バラスは、真砂名の神様の化身だったんだって。ラグ・ヴァーダの女王様も多分、晩年は知ってた」
「ですから、ともにお鎮まりになったのですね」
カザマの言葉に、ルナはうなずいた。
「そいでね、バラスは、カザマさんがゆったのが、いちばん近いかもです。真砂名の神様の生まれ変わりとかいうやつじゃなくて、一部なの。真砂名の神様の一部。そんなかんじ」
ルナの口が、またもふもふと動いた。咀嚼のためにだ。
「肝臓って切ってもまた生えてくるってゆうでしょ? 真砂名の神様の肝臓のカケラ?そんなかんじかな?」
それからルナはふと、自分が言った言葉に思いつめた顔をした。
「バラスは、真砂名の神様の肝臓のカケラ……?」
「神様に、肝臓があるかどうかはともかくとして」
「肝臓は、身体のなかでもけっこう大事な臓器なんだぜ」
医者であるセルゲイのぼやきとともに、最近、医学を学んでいるピエトからの、脱線に導きそうなご意見があったので、クラウドはあわてて言った。
「たとえが悪すぎる」
「うんでもね」
ルナは、肝臓について考えるのをやめた。
「笑いあってた」
考えるのをやめたルナの言葉に、みんなが申し合せたように、そろって顔を上げた。
「ふたりは笑いあってたの。だから、きっと、黄金の天秤への祝福は、ふたりがしてくれる」
ルナの声は一瞬だけ月を眺める子ウサギに変わった気がしたが、一瞬のことなので、だれも気付かなかった。
「……」
ふたたび、座敷は沈黙一色となった。ルナひとりが、まだおにぎりをもふり続けている。
「……この手記によると、ラグ・ヴァーダの武神の伝説っていうのは、べつにあって、この手記を書いた人物が、“虚を織り交ぜながら”書いたわけだね」
クラウドが重い沈黙を破って、口をきいた。
「まあつまり、武神がどれだけ勇猛果敢か、けっこうおおげさに――想像できるな――そして、それはL03の王宮に保管されている」
クラウドが尋ねるまえに、サルビアは首を振った。
「わたくしは、読んだことがありません」
王宮保管庫には、読み切れないほどの書物があります、と彼女は言った。かつてサルビアは、その大量の書物を戦火から守るために、ユハラムに命じて地球行き宇宙船に避難させようとしたのだ。
それは、先代のサルーディーバの反対によって、かなわなかったが。
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