急きょ呼ばれたサルビアは、だまって話を聞き、そして、階段の上を見上げた。 彼女の目には、涙が光っていた。 (わたしは) ――なんのために、この宇宙船に乗ったのか、ずっと分からなかった。 おのれが生きている、意味すらも。 けれども、今、ようやく分かった。 (わたしが宇宙船に乗ったのは、このときのためだったのか) サルビアには、分からなかった。ずっとずっと、問うていた。 サルーディーバと予言されて生まれながら、女であったために、長老会からはニセモノの烙印を押され、ゆいいつの味方であった先代サルーディーバからは、拒絶された。二度と、L03の土を踏んではならぬとまで、言われた。たとえ彼女を思うが故の行動であったとしても、見捨てられたという思いは、消えなかった。 ガルダ砂漠の戦争をひとり反対し、長老会に逆らったがゆえに、八年もの自宅蟄居を余儀なくされ、メルヴァの革命を止めることも応援することも――この目で見ることすらできず、マリアンヌの悲劇も知らず、追い出されるようにして、地球行き宇宙船に乗った。 生き神と、崇め奉られる存在でありながら、自分の無力に打ちひしがれていた。 家族同然であったマリアンヌすら、救うことができなかった。 神と呼ばれる存在であり、ひととちがう力をも持ちながら――。 その力によって、ひとを救うことが可能でありながら、ずっとそれはべつのことにつかわれてきた。自分の意思に反して。 そしてついに、サルーディーバであることを捨てるよう望まれ、苦悩した。サルーディーバとして、ひとであることを捨てるよう、そう育てられてきたのに、それを放棄することを望まれたのだ。しかも、それは正統なるサルーディーバの子孫である、アントニオの妻になることによって。 性差を超えた存在として生きてきたのに、急に女になれと言われたことは、彼女にとっては恐怖でしかなかった。 サルビアにとっては、あらゆる「ひと」としての想いや選択が、あまりも急激に、押し寄せたのだ。 グレンへの思慕、恋への戸惑い、困惑――サルビアは、それこそが、神ではなく、ひととして当然の有り様であり、生きているからこその迷いだと思えるようになったのはいつだったか。 自分は神ではなく、ひとであった。 神として生きてきたおのれは、ひとであった。 (ひとは、矛盾のなかで生きるもの) しかしそれは、喪失ではなく、ひとびとに祀りあげられ、ひとびとの意によって生まれ出でたあやふやな存在から、はじめて自己というものを感じた瞬間であった。 みずからは、血と肉とをもって、そこに生きている。 そう感じた瞬間であった。 ラグ・ヴァーダの武神との戦いですべての力を失った彼女は、ようやく、サルーディーバの名を捨てることを決心した。 そして、その直後に、自分がイシュメルだということを知らされた。 もはや、自分が何者なのかわからなくなり、戸惑った。絶望した。けれども、グレンが受け止めてくれた。ルナが教えてくれた。赤子にもどったのだと。 サルビアは、一から歩んで行けばいい。サルビアという、ひとりの女性として――。 ルナに会うために宇宙船に乗った。それは真であったのだ。 分からないままに歩んできた道の先で、それだけは真であった。 サルビアは生まれ変わった。サルーディーバからサルビアに。 サルーディーバ、そしてイシュメル――ひとの意に作り上げられた、あやふやな存在の混沌のなかから、グレンが「サルビア」を見つけ、ルナが引っ張り上げてくれたのだ。 ルナによって今度はイシュメルの名を捨てられた。 赤子にもどされた。スタートに、もどされた。 腑に落ちたかに見えた――ずっと悩んできた、地球行き宇宙船に乗った意味を、そのとき悟った気がした。 だが、それがすべてではなかったのだ。 (ああ) サルビアが宇宙船に乗ったのは、このときのためだったのだ。 サルーディーバとして生きてきたことも、長老会に逆らって、中枢から遠ざけられたことも、けっして間違いではなかったのだ。 L03を憂いながら、メルヴァのことを案じながら、焦燥を抱えてこの四年間、宇宙を旅してきたことも。 迷いながら、放り出されながら、絶望しながらきたことは、無駄ではなかった。 ――わたしは、サルビアとして、ここにいる。 ラグ・ヴァーダ、アストロス、地球の血をつなぐ、三つ星のきずなの証、イシュメルの子孫ではあるけれど。 サルーディーバの名は捨てた。 イシュメルの名も捨てた。 わたしは、いまサルビアとしてここにいる。 しかし、三つ星の平和と安寧を願う心は、わたしのものなのだ。 サルーディーバとしてではなく、イシュメルだからというわけではなく。 ひとりの民として、願う心。 (ああ――わたしはただひとり、ここにいる) サルーディーバではなく、イシュメルでもなく、きっとあるいは、サルビアでもない。 けれども、サルーディーバとして、イシュメルとして、そしてサルビアとして。 それらはすべて、わたしのなかで生きている。けれどももはや、葛藤はない。 なぜならわたしは、もはや捕らわれることはないからだ。 名にも支配されず、だれにも支配されず、立場にも支配されず、心にも支配されず、わたしのたましいがひとり立つ。 二本の足で、ここに立つ。 わたしは、今、この上なく自由だ。 この瞬間をこそ、自分は待っていたのだ。 そのために、自分はこの宇宙船に乗ったのだ。 ――それは、このうえない幸福となって、サルビアをつつんでいた。 サルビアが一歩、階段を上がっただけで、黄金の天秤が閃光につつまれた。アストロスの星守りが、くっきりと色彩を宿したのだ。 あまりのまばゆさに、階下にいただれもが目を覆ったが、一瞬にして消えた閃光のあとには、星守りのひとつがつよい光を放って、輝いていた。 どこまでもふかく青く――海の色をもった、星の色。 アストロスの色をやどして。 「階段が……」 クラウドが、階段の色が、目に痛いほど白くきらめいているのに気付いた。もともと、白い鉱石でつくられた階段だが、天上にひろがる宇宙の色彩との対比のせいか、ひどくまぶしく感じられた。 まるで、「地獄の審判」とは真逆の様相だ。 星空に向かって階段を一歩一歩上がっていくサルビアの背は、彼女がサルーディーバであったころより、威厳に満ちている気がした。 「サルビア様……」 カザマが、目を潤ませた。 サルビアはためらわず、振り返らず、まっすぐ階段を上がっていく。彼女が進むだけで、アストロスの星守りはますます輝きを強くした。 やがてサルビアの姿が、階段の頂上に消えたとき――キイン――とプリズムがこすれる音がした。 空中を、まるで惑星の軌道のように旋回してきたプリズムは、黄金の天秤の、左右の皿の上に、ひとつずつ宿った。皿から浮いた状態で、不規則に回転している。 「はじまったか」 ペリドットのうめき――神々しい階段のまばゆさに、目を奪われている場合ではなかった。 『5月21日――地球行き宇宙船、アース・シップは、シュステーマ・ソーラーレに突入します――真北上空に、冥王星が観察できます』 船内に響きわたったアナウンスと同時だ。真砂名神社の真上に、ひとつの惑星が、存在感を持って浮き上がった。ボーリング玉ほどのおおきさでもって、皆の視界に飛び込んできた。 「あれが冥王星か!」 このなかで、はじめて冥王星をじかに見るのは、船客であるクラウドだけだ。 「そうか、おまえはそういや、船客だったな」 クシラは思い出したように言った。 そのとたん、右側端の星守りが、つよく光を放った。 向かって左からうすく点滅するラグ・ヴァーダの星守り、煌々と輝くアストロスの星守りがならぶ。光ったのは、右端の石だった。白金色にともる丸い玉は、いま天空に見える、冥王星そのもののようだ。 「冥王星の力を吸収しておる……」 イシュマールの言葉とともに、皆は階段の上空にひろがる宇宙を――真北に現れた冥王星を見つめ――それから、寿命塔の数字が、「12」に変化するのをその目でたしかめた。 「あと12日で、地球到達か」 クラウドが、つぶやいた。 いつのまにか、ナキジンたち商店街の住人もぞろぞろと出てきて、上空にひろがる、果てない宇宙を見上げていた。 屋敷でも、みんなそろって、屋敷とつながった駐車場の建物のテラスにあつまって、星空を観察していた。 「あれが冥王星――」 「なんか、ふつうの色だな」 「ショッキングピンクだとでも思ったのか、君は」 研修生であるヤン達五人も、ツアーは今期がはじめて。冥王星を見るのもはじめてだ。ラウが拍子抜けだとでもいうように、声のテンションを落としたので、テオが冷静に突っ込んだ。 「あの、ちかくにあるのがカロンかな!」 ネイシャは柵に手をつき、思い切り背伸びをして、目を凝らせた。 「そうかもねえ」 ツキヨも、タブレットの説明と見比べながら宇宙を仰ぎ、ネイシャと微笑みあった。 冥王星は地球の衛星、月よりちいさい。しかも冥王星の衛星カロンは、冥王星の二分の一程度のおおきさなので、衛星にしてはずいぶん巨大だ。いまはボーリング玉ほどのおおきさで見えているが、これから冥王星に近づくにつれ、視界に入るおおきさは増していく。 「冥王星の隣をとおっていくときは、ルナ姉ちゃんも起きられるかな」 ネイシャが、心配そうに、ここからは見えない三階のほうを見た。リンファンとピエトも、ルナの部屋から星空を見上げているはずだ。 「21日から、シュステーマ・ソーラーレに突入か……」 つぶやくグレンの横顔を、アズラエルはだまって見つめていた。 |