A012行きの宇宙船が出る時刻まで、あと10分程度。窓もない通路で、グレン以外の人物は、向かいから歩いてくる、黒いパーカにキャップ、カーゴパンツスタイルの男だけ。

 グレンの視界に、男の姿はあってなきがごとしだった。グレンは先を急いでいた。追手があるかどうかにも気を取られていたし、宇宙船の出航まで、時間もなかった。

 いつものグレンならば、気づいていたかもしれない。

 男の正体に。

 らしくない、身なりだったとしても。

 なぜなら彼は、暑かろうが寒かろうが、いつも黒Tシャツとジーンズの、変わり映えのしない格好。それ以外の格好は、スーツくらいのものだったからだ。

そして――男が手にしていたものにも。

 

 すれちがいざま、まるで、掠れるような身体のぶつかりかたをして、グレンは身体の一部に、とてつもない衝撃を受けた。

 いきおいのまま足が二、三歩踏み出し、そのままよろりと、壁に身体がぶつかった。

 左の脇腹に、ナイフが刺さっていた。

 それは、「彼」のコンバットナイフではなかったけれど、致命傷を与えるには、じゅうぶんな刃渡りだった。

 すれちがい、過ぎ去ったはずの男が、グレンを助け起こしていた。グレンはそこで、ようやく気付いた。

 

 「アズラエル」

 

 目を見開き、信じられないものを見たかのように、こぼした。

膝が、ガクリと折れた。

 そして、震える手で腹に刺さったナイフをつかもうとし、それをだれかの手によってさえぎられた。グレンは脂汗をたたえたまま、「ハッ」と笑った。

 「やっと復讐できたな」

 ユキトか、ツキヨか、アダムかメレーヌか。祖父母だけではない、アズラエルの家族が軍事惑星から追われたのはドーソンのせいだ。ルナの兄が、骨さえのこらない、無残な死を遂げたのも、グレンの一族のせいだった。

 

 忘れたことなどない。

 ――一度だって。

 

 「いまさらなに言ってやがる」

 自分が刺したくせに、アズラエルのこめかみにも脂汗が浮いていた。顔は、焦りでゆがんでいた。

 「おまえは、いっぺん死ね」

 アズラエルの軽口が、涙交じりだったことは、いままで一度もなかった。

 「だが、一回でいい。今度も生きかえれ」

 おまえはバカかとさすがに言いかけたが、グレンのそれは、もう言葉にならなかった。

 コイツが刺したのだ。まるで容赦もなく――。

だが、アズラエルでよかったのかもしれない。

 ガルダ砂漠で死にぞこない、シンシアをイグサン砦攻略の犠牲にし、死ぬはずだった自分は生き延び、軍法会議で牢屋にぶちこまれてハンストしたが、飢え死ぬこともできずに生きてきた。

 なんて生命力だと、自分でもあきれるほどだったが、終わりなど、あまりにあっけないものだ。

 (ここが潮時だ)

 グレンは、死なないでくれと泣きすがった少女の面影を思い出した。

 (許せ、サルビア)

 

アズラエルがヤンとラウを呼ぶ声を、グレンはうすれゆく意識の中で、ぼんやりひろった。

 「“グレン・J・ドーソン”は、ドーソンに恨みを持つ刺客におそわれて、死んだ」

 アズラエルはそう宣言し、ふたりにグレンを預け、キャップを深くかぶりなおした。

 「ナイフを抜かせるなよ。すぐにエリア内の病院に運べ! 中央病院の名医に話はつけてあるはずだ、急げ!」

 「はい!!」

 ヤンは冷静だったが、ラウは涙を流していた。アズラエルが廊下の向こうに走り去るのと同時に、ヤンは携帯電話に叫んでいた。

 「救急車を! 人が刺されたんです」

 

 

 

 『ひと仕事してもらいたい。グレンの件で』

 

 かつて、クシラにそう言われて、役員の資格を取った。アズラエルが講習に通いはじめると、グレンも通いはじめた。クシラたちの言うとおりだった。

 グレンは、L18に帰るために、役員の資格を取るだろう。そして、シュステーマ・ソーラーレ突入を狙って、地球行き宇宙船を離れる。

 時期も経由するルートも、クシラの読みどおりだった。もっとも、ここまで来ると、かぎられたルートしかないのだが。

 アズラエルは、トイレの洗面所でグレンの血にまみれた手を洗い、顔も洗った。

 鏡の向こうで、なさけない面をした男が、こちらをにらんでいた。

 

『おまえも分かってるはずだ。“すべてが終わった”んだってことは、魂がわかっていても、まだ心は引きずられてるってことがな』

 

アズラエルもそうだった。そのおかげで、ラグ・ヴァーダの武神との対決直前に、自分は逃げた。ルナとの宿命から。

 

『無理なんだ。なぐさめも、生きてくれという懇願も、説教も理屈も、意味などない。グレンはドーソンから逃れられない。L18にもどろうとするだろう。おまえが、ルナから離れようとしたように』

アズラエルは、おおきく息をついた。全身で息をしていたことに、いまさら気づいた。グレンの身体に埋め込んだ、ナイフの感触が、まだ手に残っている。みっともなく震えている、この手に。

(これは俺の、最後の傭兵仕事だ)

そして、いっしょに暮らしてきたものを手にかけるという、最初の「殺し」だった。できるなら、これが最初で最後でありたいと、切に願った。

 

『おまえにしかできない。解放してやれ。ドーソンから、グレンを』

クシラはそう言った。

『おまえが、グレン・J・“ドーソン”を殺せ』

 

 

 

 「グレンが、刺された……!?」

 アルベリッヒはあやうく、アツアツのシチューが入った鍋を足元に落とすところだった。クラウドは、あわてて人差し指を唇のまえに立てた。アルベリッヒは、絶叫を押しとどめた。サルーンがくちばしでもって、鍋敷きをテーブルに敷き、アルベリッヒはようやく、シチュー鍋を置いた。

 けれども、シチュー鍋をつかんだ手はなかなか離れなかった。彼は泣くのをこらえていた。

 「リサたちは、アンの入院で神経が高ぶってる。いまはだまっておこう」

 このことは、キッチンにいるメンバーのあいだだけで周知されることが決まった。

 「グレンの容体は」

 ロイドは、切羽詰まった顔でヤンにすがった。

 「生きてるんだよね……!?」

 ヤンは、「生きています」とはっきり言った。みんなの肩から、こわばっていた力が抜けた。

 「A012の病院から、さっき宇宙船の中央病院に搬送されたばかりです。意識はないですが、医者の処置が的確で、しかも早かったんで、あやうく一命はとりとめました」

 いまは、ラウが事情聴取のために呼ばれ、チャンがグレンにつきそっている。

ヤンはいっさい口にしなかったが、すべては任務のうちだった。医者は最初からA012の病院に待機していた。事情聴取も型通りで終わるだろう。グレンを襲ったのは、ドーソンに恨みを持つ傭兵として処理され、捜索は、そこそこで打ち切られる。

 

 「あンの……バカヤロっ!!」

 メンズ・ミシェルはキッチンのクローゼットを蹴飛ばし、あまりのいたみに足を押さえた。

 「目覚めたら、お尻のひとつもぶってやらなきゃね」

 セルゲイは、本気でそれをしそうだった。

 「屋敷じゅうのカーテンとシーツと布団カバーと枕カバーを、ひとりで洗濯させてやる」

 セシルは憤然たる様子で、

 「三階から一階までの廊下、雑巾がけ100往復の罰則!!」

 シシーは泣きながら怒鳴り、

「ソーセージにハバネロをまるごとうめこんでやる」

 いつもおだやかなアルベリッヒも、険しい顔でそう言った。

 

 グレンが、身内や、傭兵擁護派の仲間を見捨てられないがために、こっそりL18にもどろうとしたのだということは、だれにも分かった。グレンがあまりにも急いで受けていた講習――単に、アズラエルと競争していたのではなく、このためだったのだ。

 シュステーマ・ソーラーレに入ると同時に、みなの、担当役員の目を盗んで、宇宙船を離れるため。

 そして、彼はエリアA012の駅構内で、暴漢に刺された。暴漢か刺客かはわからない。調査中だということだ。なにしろ、ヤンとラウ以外に、目撃情報がない。

 

 「……ドーソンを、恨んでいないと言ったら、ウソになる」

 ツキヨが、そっと涙をぬぐった。

 「でもねえ、あの子を……グレンさんを憎たらしいと思ったことなんて、一度もないんだよ?」

 リンファンとエマルが、ツキヨの背をさすった。

 「あたしたちは、そんなそぶりを見せていただろうか? グレンさんは、あたしたちがいることで、居心地の悪い思いをしていたんじゃないだろうか」

 「ツキヨさん、それなら、グレンはもともと、アズラエルのいるこの屋敷に、住んだりなんかしませんよ」

 セルゲイはそう言って、ツキヨの手を取った。

 「そうです、ツキヨさん。グレンはただ……エセルさんや、ほかの親戚たちが心配で飛び出したんだ」

 サルビアがあれだけ反対したのに、エセルの話をしてしまったことを、クラウドはふかく後悔していた。

 「ツヴァーリ凍原で死んだ、血の近いいとこたちだけじゃない。グレンには、心を砕くべき甥や姪、またいとこたちが大勢いる。グレンとおなじ傭兵擁護派でも、監獄星にいる親戚はたくさんいるんだ。グレンは、彼らを見捨てておける性格じゃない」

 沈鬱な表情をした。

 「……優しい子だものねえ……ドーソンだというのが、信じられないくらい」

 ツキヨはついに、ハンカチで顔をおおって泣き出した。あまり感情を高ぶらせるのは、ツキヨの持病に悪い。リンファンは、ツキヨの背を撫ぜながら、悲しそうにつぶやいた。

 「グレン君は、この宇宙船で、あたらしい人生をはじめたのではなかったのね……」

 



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