黄金の天秤に、最後の玉がはめ込まれたと同時に――ルナは、目覚めた。 熱はすっかり、下がっていた。 ルナのそばには、リンファンがいた。椅子に座り、こっくりこっくりと頭を揺らして寝ている。枕もとのデジタル時計を見ると、5月26日を指していた。 まだ午前中だ。 「ママ、ママ」 ルナは身を起こし、リンファンを揺さぶった。 「ん……」 「ママ、ピエロは?」 そばのベビーベッドに、ピエロはいなかった。 リンファンは、はっとして飛び起き、あわててルナの額に手を当てた。 「下がってるわね……」 「ママ、ピエロは入院したのね?」 リンファンはベビーベッドをふりかえり、それから、 「ルナに言わなきゃいけないことが、たくさんあるの」 とあらたまって言った。 「ピエロも入院して、アンさんや、アダムおじいちゃんや、バクスターさんや……グレンもだよね?」 リンファンは、口をつぐんだ。ルナはすっかり起きて、ベッドから下りた。 「あたし、病院に行かなきゃ」 数日間寝こけていたルナが目覚めた。アルベリッヒが「良かった、熱が下がった、よかった」と泣きながらルナを抱きしめた。アズラエルがたいそうな誤解をして、無理やりふたりを引きはがすまで、アルベリッヒはルナから離れなかった。ついでにサルーンもだ。彼女は、兄とルナのあいだでつぶされた。おそらくアントニオは誤解しないだろうが、アンジェリカも起きたらこうなるだろう。 「ルゥ、もう平気か」 アズラエルはルナの額を大きな手のひらでつつんで、聞いた。 「うん! だいじょうぶ!」 元気な返事にアズラエルは小さく笑み、「そうか。なら、集会場で待ってる」と言って、先に向かおうとした。 「アズ」 ルナは言った。 「ありがとうね」 ルナのめずらしく真剣な顔に、アズラエルは目を見張った。ルナの言葉がなにを指すのか、アズラエルにはすぐにわかった。グレンのことだ。 (まったくこいつは、どこまで分かっているんだか……) アズラエルは、ルナとアンテナで会話をする気はないが、ここでグレンの名を出すことができないことも分かっていた。アズラエルはリンファンとアルベリッヒの手前、苦い笑みをひとつこぼして、部屋を出た。 ルナはアルベリッヒが持ってきてくれた白湯を飲み、それから軽くシャワーを浴びて服を着替え、病院に向かった。 シャイン・システムで中央病院ロビーへ。真っ先にピエロの病室へ行った。乳幼児ばかりならんでいる病室の廊下に、ルナはツキヨとピエトを発見した。 「ルナ!!」 目を赤くはらせたピエトが飛びついてきた。 「ピエロが……ピエロがミルクを吐いたんだ。俺、ちゃんとやったのに……」 「ピエトちゃんが悪いんじゃないんだよ」 ツキヨはいっしょうけんめいなだめていた。 「ピエト、あたしが寝てたあいだ、ピエロを見ててくれて、ほんとにありがとう」 ルナはピエトを抱きしめ、そして言った。 「だいじょうぶ。ピエロは大丈夫だからね」 それからルナは、ピエロの病状を医師から聞き、様子を見に行った。ピエロは数十分前のルナ同様、スヤスヤと寝ていた。まだ、ルナがいなければ大泣きするだろうか。 「ピエロは、全然起きないんだ」 ピエトはぐしゃぐしゃの顔で言った。 「お医者さんは風邪をひいただけっていうけど、起きないんだ。ほとんど」 「うん……」 ルナはピエトを抱きしめた。 「でもね、お医者さんは風邪だって言ったからね。だいじょうぶだからね。すこし熱は高いけど、おおきな病気ではないからね」 「ピエロが死んだらどうしよう」 「そんなことにはならないよ。だいじょうぶだよ」 ルナはいっしょうけんめいなだめたが、ピエトの不安は消えないようだ。 無理もない。ピピとピエロを重ねているのだ。 ピエトはいつしか、ルナの膝で寝ていた。ルナはツキヨに預けて、みなの見舞いに向かった。 アン、アダム、グレンの病室とまわって、やはり病状やケガの具合を医師から聞いて、つきそっていたオルティスとメレーヌやカナリア、チャンを励ましたり、なぐさめたり、あるいはふたりで文句を垂れ、グレンが目覚めたらチャンと一緒に頭突きをすることを誓いながら、最後にピエロとピエトのところへもどって、ふたりとも眠っているのをたしかめてから、ロビーにもどってきた。 リンファンは船客なので、携帯電話はつかえない。グレンを見舞ってから、先にロビーへおりてきたリンファンは、公衆電話で屋敷に電話をしていた。 もどってきたルナの顔を見て、リンファンは言った。 「一度帰って、グレン君の着替えを持ってこようかしら――そうそう、アル君が、ルナの好物をつくっておいてくれるって」 「たらこおにぎり? それともたまごごはん?」 「アル君がつくるのよ? いちばん簡単でもオムライスのレベルよ」 リンファンはため息をついた。 「ルナって、アホね」 「アホっていうママだってアホなんだ!!」 ミニチュア親子はちいさなけんかをし、 「いますぐ帰ったら、たまごごはんになっちゃう気がするから、ケーキでも食べて帰ろうか」 「ケーキはママが食べたいんだ!」 「そうだよなにか悪い」 ペンギンは、ぴこぴことカフェに直行した。うさぎもぽてぽて、後をついて行った。カフェはずいぶん混んでいたが、空き席はあり、すぐ案内された。 「アンジェがいなかったね」 一足先に、アンジェリカは退院していた。 「そうだったわね」 リンファンはうなずき、 「ずいぶん、落ち着いた顔をしてるのね」 と言った。 「ママだって」 「ママはほら、いっぱいしゅらばをくぐりぬけてきたから。こんなときに慌てたってどうしようもないことは知ってる」 「……」 グレンの着替えもそうだが、リンファンは、ピエトとツキヨの着替えを用意して、こちらへ来ようとしているのだろう。 医師の話によると、ピエロはすこし風邪をひいたのだとわかった。 なにか、とてつもない、意味の分からない不治の病などではなさそうだった。 しかし、ピエトが言ったように、ほとんど起きない。 「ピエロのそばには、ツキヨさんとピエトちゃんがいるって。お医者さんが心配ないって言っても、ピエトちゃん、一度も帰ろうとしないのよ」 リンファンは言った。 「うん……ピエトはね、ピピ君っていう弟を、一度アバド病で亡くしているから」 ルナはウサギ口になった。 「すごく不安だと思う」 ウェイトレスが注文を取りに来たので、ルナは、あたたかいミルクティーを注文した。リンファンはチョコレートケーキと、コーヒー。おそらくリンファンは、昼食をそれで済ませる気だ。 「ルナは大丈夫なの」 「え? うん――それは、不安だけども、」 「そうじゃなくて、お熱」 ルナは両手を額に当て、「もう下がったよ」と口をとがらせた。 「そういえば、熱を出したルナのそばにいたのなんて、はじめてだわね」 「うん」 「ルナはかぎっ子だったからね」 ルナが小学校に入ったあたりから、リンファンはお弁当屋さんに勤めはじめた。そうそう贅沢をしなければ、父親の稼ぎだけで暮らしていくことはできたのだが、リンファンは働きに出た。 身体が弱かったルナは、よく熱を出して学校を休んだ。共働きの両親は、夜にならないと帰ってこなかった。それで寂しい思いをしたことはあるが、むかしのことだ。リンファンはそのことを言っているのか。 ルナはそういえば、リンファンと二人だけで話しているのは、ほんとうに久しぶりだということに気づいた。 |