L03の、ユハラム邸宅にいたマクタバは、掃除の手を止めて、窓の外を見やった。 カーダマーヴァ村では、雪が降っているころだろうか。目の悪いマクタバには、外の光景をはっきり見ることはできなかったが、においや空気のつめたさで、雪の気配を感じ取ることができた。 王宮で鞭うたれ、ユハラムのもとで暮らせと言われてから、一年以上経った。 マクタバは不思議なほど、心穏やかに過ごしていた。 最初は恐ろしいと感じたユハラムだったが、まったく恐ろしくはなかった。住処は便所のとなりと言われたが――たしかにとなりだったが、この邸宅は広いのだ。便所の隣の、糞尿のにおいがする倉庫などを連想していたマクタバは、便所からいくばくか離れた、まったく清潔な、ベッドさえある広い部屋をあてがわれて、拍子抜けした。 そればかりではない。マクタバの身分はたしかに最下層まで落とされたが、あまり意味はなかった。マクタバは、使用人とはいえ、かなり親切にもてなされたからである。屋敷に連れられてすぐ、こきつかわれるものと踏んでいたのに、背中の傷が治るまで、仕事は与えられなかった。しかも、手厚く看病された。 治った今、邸宅の掃除がおもな仕事だ。肉体を酷使するような、つらい仕事はない。食事は三度、ちゃんと食べさせてもらえる。 おまけに、週に一度、ユハラムの供をすることが許された。 彼女は、ユハラムについて、王宮を出入りすることが多くなった。最初におとずれたときは、入り口にすらたどりつけなかった王宮に。 しかも、王宮の書庫にある書物を、自由に読んでよいと言われ、最初はポカンとしたものだった。禁書の棚以外は、読んでいいと。 ユハラムが王宮の仕事に精を出しているあいだ、マクタバは書庫に置き去りにされた。そして、読んだことがない書物をむさぼるように読んだ。 週のうち六日は屋敷で掃除や雑用をして過ごすが、一日はユハラムの供をして王宮に来られる。そして、書物を読ませてもらえるのだ。 不思議だった。マクタバはかつてないほど、心穏やかだった。 かつての自分であれば、やはりサルディオーネになるべきマクタバよと、自分の幸運にほくそ笑んでいただろうが、なんとなく、そんな気分にさえなれないのだった。 宇宙儀のサルディオーネに、傲慢をたしなめられたからではない。 いまのマクタバには、サルディオーネになるということが、それほど価値があることのように、感じられないからだった。 掃除や雑用は苦ではない。マクタバは、ユハラムや周囲がおどろくほど、勤勉にそれらをやった。それも、宇宙儀のサルディオーネに怠惰を指摘されたからではなく。 サルディオーネになるため、あたらしい占術をさずかるため、イシュメルの祠を三年間も掃除してきた悲壮にくらべたら、ずいぶん楽な掃除だったからだ。 マクタバはなぜ、こんなにも自分が落ち着いているのか、最初は分からなかった。 そのうち、カーダマーヴァ村にいたころの自分は、ずいぶん追いつめられていたことに気づいた。 カーダマーヴァ村は閉鎖的である。 自分の両親が、村から出て手術をすれば死なずに済んだことを、マクタバは「運命」とは受け入れられなかった。 村のしきたりゆえ、出たものは二度と帰ってはならぬ。村から一歩も出てはならぬ。 もちろん、村外の者はだれひとりとして入れない。 医者でさえ。 そのしきたりに、両親は殺されたも同然だった。 両親は、見殺しにされた。治る病でありながら、しきたりによって、治癒が叶わなかったのだ。 マクタバは、村のしきたりすら自在にあやつれる権力者になろうとした。 それゆえに、マクタバはサルディオーネになろうとしたのだった。 カーダマーヴァ村にいたころは、常に威勢を張っていた。だが、いまは威勢を張る相手もおらず――その必要もなかった。 窓の外を、こんなふうにぼんやりと眺める余裕は、自分になかった。 自由とは、ひとの心を、こんなにもおだやかにするものだろうか。 マクタバは、もうどこへでも行けるのだ、自由に。 高い塀に囲まれたカーダマーヴァ村から飛び出してきた、あのときに、もっともかけがえのないものを手に入れたのだ。 あの、窓の外を飛ぶ鳥のように――マクタバは、どこへだって行けるのだ。 そう思っていたマクタバは、ぼんやりと見えていた鳥が、窓のすぐ外に羽根を下ろしたのを、びっくりして見つめた。 これは、ハヤブサか。 ハヤブサも、マクタバを見つめている気がした。 「マクタバよ」 ユハラムの声がした。 「いますぐ、こちらへおいでなさい」 主人の声は、どこか焦りと、歓喜を含んでいる気がした。常ならぬ声色だった。 マクタバは、ほうきを壁にたてかけ、あわてて声がしたほうへ向かった。ふと、振り返った。ハヤブサは、もう窓の外にはいなかった。 マクタバは、おかしいと気付いた。自分は、目が弱い。窓越しに鳥を見て、あんなにもはっきりとハヤブサだとわかるわけもなく、ぼんやり輪郭が見えるだけのはずだった。 だが、さっきは、たしかにあれがハヤブサだとわかった。 図鑑で見た、ハヤブサの姿だった。 マクタバはゴーグルを外して目をこすったが、やはり視界は変わってなどいない。なんの錯覚だったのか。ぼやける視界はそのままだ。 「マクタバよ」 ふたたび呼ばれ、「はい! ユハラム様!」とマクタバはおおきく返事をして大広間へ向かった。 息を切らせ、大広間に飛び込んだマクタバは、広間が煌々としたあかりに照らされているのを見た。部屋の真ん中に、なにかある。それが光を放っているのだ。ただでさえ見えにくいマクタバの目には、それがなにか、分からなかった。 そして、その光を見つめるユハラムの目には、涙が光っていた。 「そなたは、サルディオーネになるであろう」 「え?」 「マクタバさんが?」 ルナは思わず言った。 「マクタバさんが、つぎのZOOの支配者になるの?」 「そうだ」 ペリドットはうなずき、「異論はないか?」と聞いた。 「い、いろんもなにも……」 マクタバは、一度も会ったことも話したこともないが、ロビンの地獄の審判が行われたとき、たすけてくれたひとりだ。イシュメルのリハビリとリカバリをしてくれたのは、彼女だった。 しかし、アントニオやカザマの話によれば、彼女は一時期アンジェリカを敵視していた。張り合っていたともいえる。新聞を通じて、アンジェリカを揶揄するような言葉を投げかけたことも。 ルナは思わずアンジェリカを見たが。 「あたしも、異論はありません」 彼女は言った。 「真砂名の神のみとめたZOOの支配者です」 と、同意を示した。 彼女の顔に、迷いはなかった。それでルナも、決意した。 ペリドットがルナを見つめてうながしたので、ルナも、「いろんは、ありません」とうなずいた。 「では」 三人の――いや、四人のZOOカードボックスが同時に展開した。そこから、黄金と白銀と、空色と黒いきらめきの光をまとって飛び出してきた四枚のカード。どれもが、“盲目の子ザル”のカードだった。 「オリヘン(原初)」 ペリドットの呪文で、四枚のカードはすべてが“サルの女帝”に変化した。 「おまえを、あらたなZOOの支配者に任ずる」 カードの中にある、目を閉じた女帝に、王冠がかぶせられた。 |