「ルナちゃんはどうだった?」

 クラウドはからかいのつもりで聞いてみたのだが、カブラギはぬるいお茶で唇を湿らせながら、ぼそりと言った。

 「ルナちゃん以上のトラウマが存在したぜ」

 カブラギの顔はちょっぴり青ざめていた。いつも完璧にセットされている前髪は、ところどころほつれ、メガネは歪んでいなかったが、シャツは襟元が裂けて、サスペンダーも片方、肩から外れていた。しかし、なぜか革靴だけは無事でピカピカだった。

 シャツが裂けたのは雷のせいでなくて、となりのデレクがカブラギにしがみついた際に、ビリリとやったのである。

 

 結論から言うと、オルティスたちは、五段目に天秤を上げることに成功した。

 

 意外なほどに親切な夜の神が――かの神は大変にやさしいのに、それがなかなか、伝わらない悲しみはあったが――早まりすぎたためである。

 なにしろ、ルナの困憊ぶりに、過保護な兄神は黙っていられなかった。うしろで、「あにさま!!」とまたプンスカしている月の女神はともかく、夜の神は、はやく出てきすぎたのである。

 

 「いい男にキバが生えると怖いんだよ」

 カブラギは、本気で怯えていた。

 「フランシスにキバが生えたってよ、ゴリラが入れ歯してるくらいにしか見えんが、顔だち整った男にオプションつけると、ああも怖いものになるんだな」

 夜の神が降臨したセルゲイを見て、真正面にいたオルティス、デレク、カブラギ、フランシス、ヴィアンカたちはもれなく悲鳴をあげた。

 悲鳴をあげられたセルゲイのほうは、慣れたものだった。

 「なるべく怯えないで」と地を這うような声で言い、ダブルでトラウマを植え付けた。

 だが、おかげさまで石炭は恒例、二分の一になり、それほどがんばることなく五段目に上がったのである。

 「怖くなきゃ、魔よけの神は務まらんからのう」

 ナキジンは苦笑いだ。

 

 「しかし……12時間経って、まだ五段目か」

 カブラギの言葉に、クラウドもナキジンも黙った。そうなのだ。階段を上がりはじめて12時間が経過したが、まだ、やっと五段目にあがったばかり。

 ふたたび真砂名神社商店街の連中が、セルゲイをおともに、六段目にあげようとがんばっているが、この調子では。

 「四日間で上まであげるのは、到底無理だな」

 カブラギも言った。

 「いやったアああああ!! 六段目ェ!!」

 歓声が、紅葉庵のなかまで聞こえてきた。なんとか、六段目に到達したようだ。

 「なにか、いい方法はないのか」

 カブラギは聞いたが、クラウドは、すぐに返事ができなかった。

 今のところ、ルナを含め、十二人でローテーションを組み、神の加護がありそうなセルゲイやアントニオ、カザマを入れて、コツコツ一段ずつ上げていくしか、方法はなさそうだ。

 しかし。

 (どう考えても、間に合わないぞ……)

 

 「おい、メシだ。メシ食え」

 紅葉庵内にあるシャイン・システムから、クシラとアルベリッヒ、シシーが出てきた。三人は、ワゴンに大量のおにぎりやらサンドイッチやらを乗せていた。

 「長丁場だ。メシと休息だけは取らねえと、もたねえぞ」

 クシラは言った。

 「悪いな、勝手に上がり込んで、メシつくらせてもらったぜ」

 「いや――助かるよ」

 そこまで気が回っていなかったのは事実だ。クラウドはおにぎりを手にして、本気で感謝した。

申し合わせたように、もうひとり、紅葉庵に駆けこんできた。どうやら、向かいの吉野のシャイン・システムから出て来たらしい。椿の宿の女将、マヒロだった。彼女も、ワゴンに大量の惣菜を乗せていた。椿の宿の従業員が、次々と入ってきて、食事の支度をはじめていく。

 「急ごしらえで、これしかできませんけれども」

 「マヒロさん、助かるわい!」

 「そういや、もう朝なのか」

 カブラギはつぶやいた。12時間たったのはわかっていても、朝だという感覚はなかったらしい。

 「ずっと宇宙の空だと、時間の感覚がなくなるな」

 「“地獄の審判”のあいだは、この調子じゃ――ああ、外のモンも呼んで、とりあえず朝めしを食わせちゃれ。焦ってもどうにもならん」

 ナキジンは、紙皿にサンドイッチとおにぎり、総菜を山積みにしてカブラギに渡した。

 「どうも」

 カブラギはサンドイッチをくわえて言った。

 「俺も店から、食えそうなモン持ってくるか」

 「コーヒーと茶くらいなら、ここにあるぞ」

 「椿の宿もヒマでしてね――フル回転でつくらせていただきますから、お食事のご心配はいりません」

 マヒロは、総菜が乗った大皿や紙皿を、テーブルにひろげながら言った。ナキジンも、魔法瓶をたくさん持ってきて、紙コップにお茶やコーヒーの粉を入れて湯を注いでいく。

 「おおーっ! メシだ!!」

 疲れ切って腹が減っていた若者たちは、いっせいに群がった。

 

 「ルナちゃん、休憩して」

 「うん……」

 くたくたで、目が半開きのルナは、アルベリッヒが口元にミネラルウォーターを持っていってやると、一口飲んで、こてん、とアズラエルの腕の中で意識を失った。

 「ルゥ!」

 「つぎに起きたら、サンドイッチかおにぎりを持ってこよう」

 アルベリッヒは、ルナの口元を拭いてやりながら言った。ルナは寝てしまっても、天秤棒から手を離さなかった。

 「アズラエル、12時間たっているんだ」

 「――は!? そんなに経ってたか?」

 アズラエルもあわてて腕時計を見たが、午前八時を過ぎている。日付は、5月27日になっていた。

 「マジかよ」

 アズラエルは、あまりに遠い拝殿を見上げた。

 「どうやって、四日で上まで上げるんだ……」

 まだ、たったの六段目である。あと、百二段もあるのだ。

 

 「アル、アズラエル、紅葉庵か吉野で休息しろ」

 クシラが、ふたりを見下ろしていた。階段すぐ下の紅葉庵と吉野の店舗は、休憩場として解放されている。集会場の二階もある。

 「そろそろ俺も、働かなくちゃ」

 「ルナを置いていく気はねえ」

 アズラエルはここで食事を取るつもりだったが、クシラは苦笑した。

 「俺と交代しろってことだ。心配ない、天秤は、おまえらが休息しているあいだに上げといてやる」

 ふたりは最初、聞き間違いかと思った。

 「君、ひとりで?」

 「ああ――十段はかたいな」

 「!?」

 ニッと笑ったクシラに、アルベリッヒとアズラエルは目を見開いた。

 

 



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