はっと天秤を見ると、石炭が、皿の上からひとかけらも残すことなく、消えていた。
「――え?」
ずっとまえから消えていたのではない。たった今、消えたのだ。それを証拠に、皿の上から消滅した黒石は、ふたたびうずたかく積み上がった。それらも、まるで雨のしずくが先端から溶かしていくように、くずれていくのだった。
石炭が、勝手に消えては、積み重なり、くずれていく。
「しょっぱい」
アニタが、口に入った雨に、顔をしかめた。まるで海水のようにしょっぱかった。
「地球の涙だ……」
アントニオが、ぽつりとつぶやいた。
「はあ……は、くそ……」
ソルテも電子腺をつかいすぎて、手が震えていた。うまくコントロールできなくなっている。彼の足元には、ちいさな牛の死体がいくつも転がっていた。
「俺に触るなよ、感電死するぞ」
弾も尽きた今、全身武器であるソルテに頼るしか、術はない。皆は、洞窟のすみに縮こまりながら、待っていた。
「ステーキ食い放題だな。ちょっと小さめだけど」
黒い石柱のようなアリの足は、三本も鍾乳洞に突き刺さっていた。ゴリゴリと壁面が削られていく音。動物はすでに集会場をすり抜け、間近まで迫っている。
そのとき、すさまじい崩落の音ともに、天秤の祠があるほうの天井が、くずれた。瓦礫に、天秤は祠ごと飲み込まれていく。
「ああ――青銅の天秤が!!」
ママレード博士の悲鳴がいちばん大きかった。
「もう、終わりだ……」
悲鳴よりも、すすり泣きのほうが強くなっていた。首長とカナコ、アダム、そして戦士たちは、動物たちがなだれ込まないように、必死で扉を押さえていた。
「ユキ、トおじーちゃんと、ツキ、ヨ……おばあちゃんの、心に……気づいて」
ルナのかすれ声とともに、滴が――空から尽きずこぼれ落ちる雨のしずくが、石炭を溶かしていくのを、皆は見た。
「ルゥ!!」
「ルナちゃ――」
セルゲイは、心臓マッサージをやめた。アズラエルがすかさず抱きかかえる。
「ルナあ!」
リサたちも、駆け寄った。
「アダムさんや、アズたちの、家族の、……」
――アダムさん、メレーヌさんたちの悲劇を。アズたちの家族の、あたしのパパとママたちの、苦悩を。
「え?」
ルナがなにか言ってる――リサは、耳をそばだてた。
「グレンの、心に、気づいてください、」
――ずっとずっと、あきらめずに、仲間や皆を守ろうと、自分を犠牲にしてきたグレンの想いを。
「ルゥ」
アズラエルが、目を見開いた。
「バクスターさん、の、こころ、を」
ジュリさんを失った、バクスターさんの悲しみ。ひとり孤独に苦労してきたローゼスさん、エセルさん。アンナさん、子どもたちを守り、すべての責を負ったトレーシーさん。
グレンに代わって、一族を変えようとしたレオンさん。ツヴァーリ凍原で死んだいとこのひとたち。
アランさんを守り切れなかった、ユージィンさんの悲しみを。
カレンとアランさん、ミラさんの想い、アミザさんの決意。
家族と引き裂かれたカナリアさんの悲しみを。
両親とお姉さんを一気にうしなった、カナコさんの悲しみを。
たいせつなひとを失い続けてきた、アンさんの悲しみを。マルセルさんの死を。オルティスさんとニコルさんの二十年間のがんばりを。
アンさんを守った、みんなの心を。
ルナが名前をあげていくたび、滴はあふれて、石炭を溶かしていく。涙の海にでも溺れるように。滴の深海のなかへ、消えていく。
「ルナちゃん……」
ミシェルは、言葉を失っていた。ルナの言葉は、ようやく皆にも聞こえてきた。
「みんな、それでもあきらめずに生きてきたの……」
ルナは、ぐっと天秤を握りしめた。
「あきらめ――ません――だれも」
アニタは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「今だアアアアアアア」
アニタの絶叫が轟き、皆は、はっと顔を上げた。
「ホゴアアアアアアみんな行くよォオオオオオオオ」
アニタひとりで、天秤を担いでいた。全員あわてて、最後の力を振り絞って参加した。
「せーのッ!!」
「お兄ちゃんたち、少年空挺師団のみんな――エリックさんたち、ユキトおじいちゃんの仲間――それから、それから、」
皆は無我夢中で進んだ。重いと感じる余裕もなかった。動いているのか、それも分からなかった。ただ、天秤を持ち上げ、叫び続けた。声がかれるまで。
「ロメリア――バブロスカ監獄へかけこんだ、みんな――せんせい――プロメテウスさん、エピメテウスさん――ロビンさん――みんな、みんな」
ルナは思いつくままに、名前を上げていく。石炭が消えていく。呼応するように。
「そして、天秤をかつぎつづけてきた――ハトさんの、」
ひときわ大きく、水滴が、石炭を溶かした。
「――ルナ?」
ピーターは、だれかに呼ばれたような気がして、顔を上げた。
「ピーター」
オルドが、驚いた顔で見つめていた。
「おまえ――泣いてるのか」
「え?」
気づかなかった、ピーターの頬は、涙で濡れていた。
不思議だった。なにかが終わった気がしていた。世界か、それとも――。
(ルナ、ありがとう)
喉から込み上げるような嗚咽を、ピーターはぐっとこらえた。
「いま、ここで天秤を運びつづけた、みんなの想いを……」
石炭の塔は、一気に消えうせた。銀色の光さえほとばしらせて――汗なのか雨なのか、涙なのかわからない。ただ、天秤をかついで、皆は進んだ。
「ルナちゃアアアアアアア」
「泣くのはあとだアアああああああああ」
「ホオゲエエエエエエ」
「うおおおおおおおおおおおおおおお」
「上げろォオオオオオオオオオ」
黄金の天秤を運んでいるチームは、だれひとりとして気づかなかった。最後の奇跡が、すぐそこまで近づいていることを。
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