「――月だ」
つぶやいたのは、だれだっただろう。
「月じゃ」
その言葉を聞きつけて、ナキジンは、ベンチから立った。
「着いた」
カンタロウも、ふらふらと、身を起こした。
真砂名神社の拝殿頂上に、太陽の光を反射した、白く――丸く光る月が現れた。それからすぐ、濃い青にまっしろな羽毛を流し込んだ、うつくしい球体が見えはじめた。
――地球だった。
「着いた――今期も」
カンタロウが、口を開けてくりかえした。
「今回はまた……なんて、美しい……」
マヒロも、バンダナを解いて、その光景をうっとりと見上げた。
待ち焦がれた青い星が、その全容を現わそうとしている。
四年間の旅路を経て、ついに到着する――惑星が。
ルナから、銀色の閃光がほとばしった。
皆はおもわず目をつむって、天秤から手を離した。階下の皆も同様だった。あまりに眩しすぎる光に、だれもが身体をそらして目を覆った。
「まぶしい――」
やっと目を開けた皆の目に映ったのは、黄金の天秤を肩に担いで、階段をあがっている、月の女神の姿だった。
黒く長い髪を階段まで垂らし、細く白い肩に、天秤を背負って。
ルナはどこにもいない。
月の女神が、地球に向かって、天秤をかつぎ、階段を上がっていた。
月の女神は、大きかった。アズラエルたち人間の、倍以上はあっただろう。天秤も、巨大化していた。右の皿には、いままでの比にならないほどの黒い巨石が積み上がっていた。
だが、それらは銀の光につつまれながら、たちどころに消えていくのだった。
地球と月のきらめきを得て。
銀の光を放ちながら、月の女神は一歩ずつ、階段を上がった。
あまりの重さゆえか、月の女神は身を折り曲げていた。
その姿は、いま、めのまえでその形をはっきりと現しつつある地球に、頭を垂れているようでもあった。
一歩――また、一歩。
月の女神は、踏みしめるように上がっていく。
そのたびに、黒石は、銀色の砂となって、消えた。
皆はその背を、しずかに――ひどくおごそかに、見つめていた。
やがて、女神が拝殿に足を踏み入れると同時に、寿命塔が「0」を表示した。
地球はすっかり、拝殿上空の宇宙に、その球体を現わしていた。
月が、その手前で光り輝いている。
女神は、ゆっくりと、寿命塔の上に、天秤棒を乗せた。
右の皿に、もう黒曜石は落ちては来なかった。かわりに、一枚の羽がふわりと落ちてくる。左の皿のプリズムが、逆三角錐から、正三角錐に変化した。
トリアングロ・デ・ムエルタは終わったのだ。
罪は消え、すべては終わった。
月の女神は、故郷にもどるように、眼前にかがやく球体に消えていく。寿命塔も――左右で錫杖と剣をたずさえていた、ラグ・ヴァーダの女王もバラスの石像も、もはやそこにはない。
ルナは、黄金の天秤のまえに立っていた。
「ルナ」
レディ・ミシェルとサルーディーバが、本殿のほうから駆けてきた。
「ミシェル、サルーディーバさん」
ふたりの目は、潤んでいた。
「ルナさん……」
「がんばったね」
「うん、ふたりも」
――みんなも。
ルナとミシェルとサルーディーバは、もとの大きさにもどった黄金の天秤のまえで、階下の皆に、手を振った。
「――終わった」
クラウドがつぶやいた。ふと気づけば、声が出るようになっていた。
「ルナーっ、ミシェル、サルちゃんさん!!!!!」
リサとキラが金切り声を上げて、階段を駆け上がり、ふたりに飛びついた。アニタもシシーも、ルシヤもあとを追った。ピエトは、アズラエルの腕の中で、「よかった」とこぼして、気を失った。
「ありがとう――ございました」
ナキジンたちは涙を流して、拝殿と地球、月に向かって額づいていた。フランシスの、吠えるようなうれし泣きが、大路に響きわたった。
咆哮と、泣き声と、「よかった」と「ありがとう」がそこかしこから聞こえはじめた。
ある者は、抱き合って泣き、ある者はひざまずき、ある者は、ぼうぜんと星々を見上げた。ルナたちを迎えに階段を駆け上がり、滑って転んで、座り込むものもいた。
皆のすすり泣きは、いつまでもつづいた。
また、だれかが言った。
「月だ」
――ねえ、地球に、着いたのね。
「アンさんが起きたの!!」
「覚悟してください」と医者に呼ばれてアンの病室に行き、つきそうこと数時間後――いきなりアンが目覚めて、「治ったわ」とはっきりした声でいうものだから、さすがののんきなリンさんも、椅子から転げ落ちた。
「わたし、治った」
アンの言葉はウソではなかった。アンの身体から、病巣がすべて消えていたのだ。
リンファンはおどろいて、アンを励まし、それから励まされ、アダムの病室に転がり込み、こちらも起きたアダムの笑顔を見て、壁に激突しながらピエロの病室へもどった。そして、冒頭の言葉を叫んだのである。
「ピエロちゃんも起きたわ」
ピエロが、楽しげな笑い声をあげながら、エルウィンの指をつかんでいる。
「ホント、力の強い子!」
エルウィンはあきれ声を漏らし――へなへなと、うれし泣きに泣き崩れたリンファンを、あわてて助け起こしたのだった。
「地球に、着いたのね」
エルウィンの声に、リンファンは、窓の外を見上げた。
「あれが地球――」
夜闇の宇宙には、うつくしくも青い宝石が、おおきく輝いていた。
青銅の天秤は、がれきによって、祠ごと下敷きになった。けれども、人々が固まっている方は、無事だった。その、耳を覆う大崩落から数分――ケヴィンとアルフレッドが抱き合って目を瞑り――そして、おそるおそる開けたときには、世界は静かになっていた。
鍾乳洞に差し込まれた黒い石柱は、なくなっていた。
動物たちの咆哮は、聞こえない。めのまえには、まともな大きさの牛が、倒れ伏していた。
ケヴィンは、手の甲を這っている、ちいさなアリを見て、「はは……」と笑いをこぼした。
泣き笑いだった。アルフレッドも、ソルテも、それを見ていた。さっきは、コイツの足につぶされるところだったのだ。
「どうやら、助かったみたいだな」
ソルテが、ようやく電撃の消えた腕で、双子の頭を撫でた。
ケヴィンは、そっとアリを、地面に降ろした。アリはチョコマカとさまよい動いて、やがて瓦礫のすきまに消えていった。
|