二百二十七話 はじまりの物語 ~サルーディーバと船大工の兄弟~



 吸い込まれそうな青空が、幾日も続く楽園。

心まで曇り空になるような雨の日など滅多にありません。輝くエメラルドの海には、宝石のような魚たちが泳いでいます。つやめくオリーブ畑。真珠をくだいたような、昼は日の光に、夜は月の光にきらめく砂浜。男も女も、夜にはその砂浜で楽器をかき鳴らし、ゆかいな音楽を奏でながら、あふれんばかりのお酒の樽がいくつもいくつも空になるまで、笑って歌って、踊りあかすのです。

 

 マーサ・ジャ・ハーナは、楽園の島と呼ばれていました。

 

 実りは多く、人々が食べ物に困ることはありません。雨はすこし降り、船大工がちょっと作業の手を休めなければならないくらいで、洪水になることなんてありえませんでしたし、津波なんてきませんでした。火事もなかったし、地震だってありません。

 人々はみな、明るく笑って過ごせました。笑いすぎて涙が出ることはあっても、かなしみはこの島にはありませんでした。島で最長寿のおばあちゃんが死んだ時も、みんな、よく生きた、と拍手喝さいで送り出したくらいでした。なにしろ二百十歳だったのですから。だれも病気にはかかりませんでしたし、つらい気持ちになるひとなどひとりもいません。とにかくみんな幸せだったのです。

 島に立ち寄ったひとびとは口々に言いました。「なぜこの島は、みんな豊かで、平和で、幸せなのだ」と。

島の人々は口々に言いました。「それはマーサ・ジャ・ハーナの神の賜物」だと。

 

 マーサ・ジャ・ハーナの神は、小高い山の、神殿に住んでいました。滅多に人前に姿を現すことはありません。太陽と昼を司る神がいて、夜と月を司る神がいます。彼らが、この島に恵みをもたらしていました。

 夜の神と月の神は兄妹でした。

 オリーブ色の髪をした、美しい兄妹神です。夜の神である兄は妹を慈しんでいましたし、妹は兄神が大好きでした。でも、ふたりきりの暮らしは、妹神にはすこしさみしかったのです。

 昼の神と太陽の神は、みんなが起きている時間に姿を現します。

 しかし、夜の神と月の神が起きている時間は、みんな眠っている時間のほうが長いのです。

 

 楽しそうな、砂浜での宴会が毎夜神殿から見えます。月の神である妹神は、いつもそれを羨ましそうに眺めていました。「行きたいのかい?」兄神は言いました。「でも、それはいけないよ。私たちは神様なのだから」不用意に、人びとの前に姿を現してはいけない。そう、優しく言いました。でも妹神は、寂しかったのです。一度でいいから、あの楽しそうなお祭りに参加して、自分もあの楽しそうな歌をみんなと歌ってみたい。そう思っていました。

 

 ある日、妹神は我慢できなくなって、兄神の目を盗んでそっと山を下りてしまったのです。夜の神である兄は、昼の神がでている日中は眠っています。その間に少しだけ。

 

すこしだけ。すこしだけだから。みんなの様子を見てみたいだけ。

 

山を下りたすぐの綺麗な砂浜で、二人の若い船大工が、父親と一緒に船を修理しているところでした。妹神は、その家族のことを知っていました。

 

 いつも、一番に供物を持ってきてくれるひとたちだわ。

 

 島の船大工、サルーディーバは、島一番敬虔でした。海で取れた魚を、畑で取れたオリーブを、朝、だれよりも早く神殿に捧げました。月が沈み、朝日が昇る、そのわずかな時間。だから、妹神は彼らを知っていたのです。

 妹神は、話しかけたくて仕方ありませんでしたが、そんなことをしたら、兄に怒られてしまいます。妹神は、ただそっとオリーブの木陰から、家族の様子を見ていただけでした。

 

 女神に気づいたのは、陽に焼けた肌と、焦げ茶色の髪をもつ長男でした。

 兄は、木陰にたたずむ美しい娘を見て、一瞬で心を奪われました。

 気付かれたと悟った妹神はあわててその場を去りますが、船大工の兄はその美しさに魂を抜かれたように立ちつくしました。そして、その娘のことが胸に焼き付いて、離れなくなってしまったのです。

 島では見たことのない、透きとおるような肌の可憐な娘です。

 惑うような美しい娘と聞いて、「あれは、マーサ・ジャ・ハーナの月の神だよ」父親のサルーディーバは息子をさとしました。

「あきらめなさい。あれはわれらの女神なのだ」

 

 兄は諦めきれません。おのれの運命を恨めしく思いました。

 「なぜ俺は船大工なのだろう。世界一の漁師になって、珍しい魚をたくさん釣りあげたら、あの女神にもう一度会えるのか。オリーブを、神殿が埋まるほど高く積み上げたら、女神は俺に振り向いてくれるのか。西の砂漠から来た商人のように金銀財宝を積み上げたら、兄神は俺に妹をくださるだろうか?」

 「愚かなことを」

父親は嘆きました。そのころには、息子はまるで熱に浮かされたように女神のことばかり思い続け、仕事もしなくなっていたからです。

 

 その夜、父親は、たくさんのオリーブと、色とりどりの魚を携えて、神殿へ向かいました。

 

 「夜の神よ、月の神よ。畏れ多くも私の息子が、月の神である貴女様に心奪われてしまいました。どうか、わたしの息子の目をお覚まし下さいませ。できることならば、今一度お姿を」

 

 兄神は、妹神がひとに姿を見られたことにたいそう怒りましたが、それは妹の落ち度です。あわれな父親に向かい、兄神は姿を現してこう言いました。

 

 「おまえの息子は気の毒だが、わたしの妹を妻にやることはできない。われらが人と契れば、神ではなくなってしまう。月の神がなくなれば、夜に足元を照らす光がなくなる。月がなくば、夜の神である我もここにはおられまい。夜がなければ、人も生きものも眠りに就くことが叶わぬ。豊饒は、この島から失われるであろう。あきらめるのだ」

 

 父親の言葉を聞き、兄は一層苦しみました。この恋心が叶わないものならば、いっそ、この恋に焼け焦がされればいい、そう思いました。

 

 月の女神に恋焦がれ、おかしくなってしまった船大工の兄の噂は、すぐ島中に知れ渡りました。あの、生真面目な船大工の兄が我を忘れるほど恋をした月の女神。ひとびとは、口々に言います。

 

 月の女神とは、そんなに美しい神なのか。

 ひとめ、見てみたいものだ。

 

 そんな人々の噂を、面白く思わない者がひとりいました。

 この島には、月の女神とは別に、美しい人間の娘がいました。彼女は、島いちばん美しい娘と評判でした。

 月の女神と同じオリーブ色の髪と目を持ち、娘は島の若者すべてを虜にしていました。彼女が男たちに囲まれていないときはありません。そして、娘もそれが当然だと思っていました。世界には、私以上に美しい者などいない、彼女はそう思っていました。

 それが、ある日を境に、急に島のみんなは月の女神が美しいと騒ぎ出し、娘には見向きもしないようになってしまったのです。

 

 なんだというの。神がなんだというの。

 私より美しい娘が、ほかにいるものですか!

 

 娘は、たくらみました。船大工の弟に、月の女神の居場所を教えたのです。

 月の女神は夜になると水を浴びに行く泉があります。男子禁制の場所ですが、神殿に仕えている女なら入れます。娘は、神殿の女にその場所を聞いたのです。

 船大工の弟も、兄の恋煩いに心をいためていました。

 銀色の目と髪をもつ弟は、兄を連れて、神殿のある山奥へ入って行きました。兄の熱は、今一度、月の神に会えば覚めるだろう、そう思ったのです。神は神、ひとではない。きっと、自分の畏れおおさに気がつくだろうと。

 

 島いちばん美しい娘は笑いました。

 ほんの、いたずら心だったのです。

 男子禁制の泉へ入れば、船大工の兄弟もただではすまないでしょう。

 娘は以前から、美しい自分に見向きもしない真面目一徹の船大工の兄弟が恨めしかったですし、この兄弟のせいで村の皆までも月の女神が美しいと言い始めた、それに、自分より美しいと言われた、月の女神も恨めしかったのです。見知らぬ男たちに裸を見られて、恥をかけばいい、そう思っていました。

 

 取り返しのつかない事態になるともしらずに。

 

 人びとが寝静まった夜、兄弟は、島の民は入ってはいけない森の奥に、忍び込みました。神殿の裏の、少し離れたところに妹の神が禊をする美しい泉があります。

 そこでは、かの可憐な女神が水を浴びていました。色とりどりの花が、水に流れて泉にそそがれます。オリーブ色の艶やかな髪、ミルク色の肌を小さな花たちが水と一緒に撫でていきます。

 同じオリーブ色のつぶらな瞳、薄桃色の頬、果物のような潤いのある小さな唇。

 兄はとりもなおさず、弟もその美しさに心を奪われてしまいました。

 兄が、最初だったか、弟が最初だったか。兄弟は、気付いて逃げようとする女神を、腕にかき抱いていました。

 

 思いを遂げた後、兄弟はかわるがわる女神の豊かな髪に口づけをし、白魚のような足にキスを捧げました。

 

 お許しください、お許しください。わたしたちは貴女の美しさに心ひかれてしまったのです。

 貴女を愛しています。わたしたちをあわれとお思いください。夜な夜な、身も焼けるような苦しみでした。この思いが遂げられたからには、もう死んでもかまいません。

 

 のろわれるがいい!

 

 涙にぬれた女神の、兄弟が何度も口づけた愛らしい唇からこぼれたのは、恐ろしい言葉でした。

 

 私を最初に汚したものよ!

 

 女神は兄に向って言いました。

 

 おまえは未来永劫、想い人と結ばれることはない。想い人に憎まれ、さげすまれ、想い人を失うことになるだろう。その手で、想い人を死に至らしめるであろう!

 

 それでもいいのです。兄は叫びました。貴女と未来永劫あれるのなら。

 

 私を汚し、聖地を汚し、父親の祈りを汚したものよ!

 

 女神は弟に向かって言いました。

 

 おまえは未来永劫、家に縛られ、父親に縛られ、すべてに縛られ、自由を奪われるだろう。

 

 それでも構いません。弟も叫びました。貴女とともに、いつまでもあれるのなら。

 

 わたしが、おまえたちを愛すると思うのか!

 

 女神は叫び、彼らが愛しんだミルク色の肌は、みるみる干からびて、老婆になってゆきます。ひとは老いるもの、朽ちるもの。砂浜に打ち上げられた枯れ枝のようになった女神を抱いて、兄弟は号泣しました。自分がしたことの恐ろしさに気付いたのです。

 

 兄弟は、炎に包まれました。兄神の、怒りの火が兄弟を焼き尽くしました。

 

 兄神は嘆きました。その嘆きが嵐となって島を襲いました。

 

 わが妹よ。あわれな私の妹。

 わたしがこの神殿からおまえを出さなければ。

 わたしがよく見ていれば。

 かわいい、わたしの妹神よ。

 もう二度と、おまえを外には出さぬ。おまえを人の目に触れさせはせぬ。

 わたしの妹。

 

 島は数々の災厄に見舞われました。島いちばん美しい娘も、己のしたことを悔いましたが、もう遅かったのです。

夜の神の神官は、なんとか夜の神をなだめようとし、昼の神と、太陽の神が夜の神を止めようとしましたが、だめでした。

二柱の神々は、島いちばん敬虔であったサルーディーバだけは、なんとか守りました。

たった一日で、島は滅びました。

 

神殿の入り口で、一人の老人が目を覚ましました。サルーディーバでした。彼は、一日で、老人になってしまいました。老人は崩れかけた神殿を後にし、なにもなくなってしまった砂浜にたたずみました。もう、だれも残ってはいません。

 

 楽園の島、マーサ・ジャ・ハーナは、なくなってしまったのです。

 

 



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