二百二十八話 マーサ・ジャ・ハーナ遺跡



 

 「ルナさん? だいじょうぶですか?」

 はっとして、顔を上げた。向かいに座ったカザマが、ハンカチをルナに差し出していた。

 知らないうちに、泣いていたのだ。

 「はじまりの神話ですね」

 カザマは、ルナが読んでいる箇所をのぞき込んで、コーヒーにノンカロリーシュガーを加えた。ルナのまえにも、湯気を立てた紙コップが置かれていた。

 いつのまに来たのか――ルナは気づかないでいた。

 「サルーディーバという老人は、百十二歳まで生きるのです。太陽の神に導かれて、マーサ・ジャ・ハーナのよみがえりを願い、別の島に渡ります。その名は、神話の中では、何度も出てきます。偉大なもの、という意味で、ずっと受け継がれるのですよ」

 カザマは、ルナの涙の心配はせず、話をつづけた。

 「これは神話ですが」

 カザマは立って、本棚からべつの本を、二、三冊、持ってきた。雑誌や、手におさまる文庫本をだ。

 「こちらは伝承や口伝、史実研究の冊子です。いろいろな説があるようですね。このマーサ・ジャ・ハーナの兄弟の神話ひとつとっても、」

 本を開く。

 「たとえば、こちらの本ですと、この兄妹神は神ではなく、マーサ・ジャ・ハーナの神に仕えた神官ということになっています。巫女である妹を汚したとして、マーサ・ジャ・ハーナの兄弟は神から罰を受けたと。そういう伝承もあります。あるいはこちらですと」

 パラパラとページをめくる。よどみがない。かなりカザマは、この本を読んでいるようだった。

 「この兄妹神は夫婦だった、という説もあるようです。地球のこの時代には、兄妹で結婚するのは普通のことでした。妻である妹を兄が留守の最中に、船大工の兄弟が、汚したことで、兄神が怒り狂った――というのは、この神話と同じ結末です」

 ルナも、本を受け取って、その小さな記事を読んだ。

 神話とのちがいが、書かれている。

 「月というものは、通常、昼には見えません。昼の月は新月と呼ばれます。船大工の兄弟が昼間、目にした月の女神は新月であり、ふつうならば目に見えぬものを受け取った、手に入れた、悟りを得たのだ、という独自の宗教的解釈もあれば――ほかにも、あまりにも膨大な解釈があります。古い、古い物語ですからね……」

 カザマは、手元の本を閉じた。

 「マーサ・ジャ・ハーナの神話はとても長いです。さまざまな話があって、この兄弟の話もそのひとつですし、また、お話はただのきっかけで、冒頭にすぎません」

ルナは、じっと挿絵のページを見つめていた。

 

「この兄弟は、罰を受け、生まれ変わりを繰り返すのですが、その人生ひとつひとつが呪いのとおりになります。兄は、想い人に憎まれ、さげすまれ、あるいは、その想い人を死によって失ったり、自分で殺す羽目になるのです」

 

 ルナは、しずかに、装丁のイラストを見つめた。

 枯れ枝になった、月の女神を抱いてなげく船大工の兄弟の絵。

 ルナがルーシーだったころ、農家の手伝いをしていたミシェルが、描いた絵だ。

 ララの前世であるビアードが譲り受け、地球行き宇宙船に乗った。そして、グレンの前世が、サルーディーバ記念館へ持ち込んだ。それは百年以上の時を経て、百五十六代目サルーディーバの遺言によって、ルナに贈られ、ララの手に渡った。

数奇な運命を経て――地球行き宇宙船に帰り、真砂名神社の奥殿ギャラリーに飾られている。

 

 「弟は、生まれ変わるたびに、自分が生まれた一族に縛られつづけます。父親に圧迫されたり、あるいは罪をなすりつけられたり、父親の残した借金を返すために一生をふいにしたり――結婚する相手も、人生も、父親や一族の支配を受けます。自分には選択の余地がありません。自由がないのです」

 

 アズラエルとグレンの呪い――かけたのは、ルナ自身だった。

 

 「しかし、妹神もまた、かなしいですね」

 カザマは、ルナの心中をわかっているかのように、告げた。

 「こちらは――口伝のほうがはっきりその理由が書かれていますが、神話のほうはあいまいです」

 カザマは微笑んだ。

 「この妹神は、兄弟をのろったせいで、自分も同じ罰を受けるのです。……想い人と結ばれない、未来永劫、兄神に縛られつづける、と」

 

 カザマは一番厚い本を開いた。ルナが最初に持ってきたほうだ。

 

 「兄神が、目を離したすきに妹は兄弟に凌辱されてしまった。それを悔いた兄神は、生まれ変わるたびに、妹神を自分の手元に閉じ込めようとするのです」

 

 もう二度と、おまえを外には出さぬ。おまえを人の目に触れさせはせぬ。

 わたしの妹。

 

 ルナの目から、一滴の涙がこぼれた。

 

 「ずっと――でしたね」

 挿絵の兄神は、黒髪を振り乱し、慟哭している。

 「ずっと、ずっと……長かった、なあ」

 

 「そうですね」

 カザマが、そのとてつもない長さに、万感の思いを込めて、首を振った。

「終わりましたね」

 「はい」

 ルナがうなずくと、カザマはひどく優しい目をした。

 「終わらぬものはありません。変わらぬものも、ありません。生まれ変わり死に変わりして出会うたびに、兄弟は、女神は、すこしずつ相手を許し、愛していきます。兄神も、妹を許し――あの時目を離してしまった、という自分をも、許していきます」

 

 「あたし、アズたちが大好きです」

 ルナは、はっきり言えた。

 「アズラエルを、愛してます」

 カザマは、涙ぐんでいた。

 

 「地球に降りたら、マーサ・ジャ・ハーナに行ってみましょうか」

 「いいんですか?」

 ルナは思わず聞いた。

 「じつは、ツキヨさんに頼まれたのですよ。ルナさんに、この神話を見せてやってくださいと。だから今日、お呼びしたんです」

 「えっ」

 「ツキヨさんはもちろん、なにもご存じないのですが――地球に着いたら、マーサ・ジャ・ハーナ島の遺跡を見せてあげたいと願っていたようです。そのまえに、この神話をルナさんに読んでほしいと」

 「……」

 ルナは、本の表紙を指でなぞった。でこぼこの、エンボス加工のタイトルを。

 「ルナさんは読書家ですから、もしかしたらもう読んでいるかも、と言っていましたけれど」

 「あたし、このお話は、生まれてはじめて読んだかもです」

 「そうですか」

 カザマは、微笑んだ。さまざまな感情の入り混じった微笑みだった。

 

 「地殻変動で、遺跡も海に沈んでいますので、遊覧船か、豪華客船で、遺跡のうえを通ることになります。近くの島に、博物館もありますし――小旅行には、いいと思いますわ」

 カザマは、ふたりしかいないのに、こっそりと耳打ちした。

 「じつは、ララ様をおだてまくって、私有の豪華客船を貸し切れないか、交渉中なのです」

 ルナは口を開けた。地球に、専用の豪華客船を持っているなんて、ララの富豪ぶりはどこまでものすごいのだろうか。

 「まだ本決まりではないので、皆には内緒で」

 「はい!!」

 ルナの元気な返事に、カザマは、にっこりと笑った。

 

 



*|| BACK || TOP || NEXT ||*