「夜の神さん、夜の神さん、……これはルナちゃんの危機ではないですよ」 アントニオが、セルゲイの耳元でぼそっと言った。とたんにセルゲイが、目をぱちくりとさせた。目をぱちくりとさせたあとは、すっかり表情が、いつもの彼に戻っている。 「セ、セルゲイ……!」 元に戻った。ルナは、なんだかわからないがそう思って、思わずセルゲイの腰元に抱きついた。アズラエルが別の意味で突進しかけたのを、カレンとルーイが全力で止める。 「……あっ。君たち、早く帰りなさい!」 セルゲイは、思いだしでもしたかのように、目の前の連中に向かって言った。それはおとなが聞き分けのない子を叱る口調で、いつもの彼そのままだ。 ルナはほっとして、――へなへなと、腰から力が抜けた。 「あ、あ、ルナちゃんだいじょうぶ?」 セルゲイとアントニオが慌てて、しゃがみこみそうになったルナを両側から支えた。 不思議と、セルゲイが元に戻ったとたんに、曇りかけていた空も日光が差し始めた。 びっくりした。本当にびっくりした。なんだったんだろう、さっきのは。 さっきのセルゲイは怖かった。 別人みたいだった。 ――大魔王だった。 「言ったろ! 早く金払って帰れ!!」 アルフレッドが、セルゲイに続くように再び怒鳴った。 アルフレッドとナターシャには、セルゲイとアントニオのやり取りは聞こえていない。セルゲイの変化は知る由もなかったし、コンロが弾けたのも偶然の産物で、ざまあみろとは思ったが、異変とは、受け取っていないようだった。 でも、ルナには分かった。 さっき、コンロが弾けたのは、セルゲイの仕業だ。 彼が「黙れ」と言った途端に炭が弾けた。ものすごい勢いで。 セルゲイ自身は、さっきのことをなにひとつ覚えていないのか――気にかけていないのか、ルナの腰を抱いたまま、「早く帰らないと、役所に通報しますよ!」ときわめて常識的な脅し文句を口にした。 一体、さっき何をしたのだろう? セルゲイは――。 イマリたちは、セルゲイやルナを気味悪そうに睨んだが、「帰ろ」と口々に言い合い、立ち始めた。顔に炭が当たった女の子は泣いている。 「救急車呼んでよっ!」 だれか叫んでいるが、アルフレッドが「そこらのタクシーで勝手に行けよ!」と叫び返す。 「――ナターシャ! 帰るよっ!!」 ブレアが叫んだ。苛立ちが頂点に達したときの、裏返った声だった。だが、いつもその声を聞けば怯むナターシャは、今度は怯まなかった。 「帰ればいいわ!!」 「――は!?」 「帰ればいい! 宇宙船から降りるならそれでもいいわ! あたしは帰らない! あんたの好きにすればいい!! でも、あたしはあんたの言うことは聞かない!!」 ブレアが、わなわなと震えた。 「ふざけんな……っ!!」 絶叫したかと思うと、なにか訳の分からないことをわめきだし、手当たり次第にナターシャへ投げつけはじめた。紙皿や紙コップ、ビールの缶からなにから。周りにあるもの、全部。テーブルも蹴り倒し、食べ物があたりに散らかり、草むらの上にべっとりとカレーがこぼれ、カレーの匂いが漂った。 ブレアの剣幕を、イマリたちまで呆気にとられて眺めている。ともだちだと言っていつもいっしょにいても、ブレアの暴れようは初めて見たのか。 「あ、あれはまずいわ。止めなきゃ、」 ヴィアンカが慌てて言った。 「仕方ないから救急車呼んであげなさいよ、チャン」 「しかたないですね……」 チャンが携帯を手にしたが。 後ろを向いたとたんに、見覚えのある人物を見かけて、反射的にお辞儀をした。後ろにいたバグムントやラガーの店長も、軽く会釈の体勢で固まっている。 特別派遣役員と、SPを引き連れたVIP船客が、なぜこんなところに。 役員は、だれもがそう思った。 「いい加減にしなさい!! ブレア!!」 ナターシャは怒鳴った。涙目で怒鳴った。 「あんたがいくらわめいても、あたしはもうあんたのわがままは聞かないからね! 言うなりにもならない!!」 ブレアが何か奇声を上げて、カレーの入った皿を、ナターシャに投げつけた。アルフレッドが思わず前に出て庇った。 ルナも、ぎゅっと目を瞑った。 べちゃっと、嫌な、音がした。 けれど。 ルナが恐る恐る目を開けた先には――とんでもない光景があった。 ナターシャも、アルフレッドにも、カレーはぶつかっていなかった。 そのかわり、しなやかなシフォンのフードを被り、アクセサリーをじゃらじゃらとつけた、L03の民族衣装の人物――背はかなり低く、こどもにしか見えない身長の主――。 サルディオネ。 彼女の胸元に、べったりとカレーの皿が引っ付いていた。 サルディオネは、無表情で、その様子を見つめている。皿が、重力に耐えかねて、どろっと地面に落ちた。 「その女を捕えなさいっ!!」 厳しい、男のような声がサルディオネの後方からした。その厳しい声と同時に、黒服の男性が、――SPのような集団が現れて、瞬く間にブレアを拘束した。興奮状態のブレアは、ますますひどくわめきだした。SPは、イマリたちをもむりやり立たせ、拘束する。 手錠をはめられたイマリは叫んだ。 「な、なんなのよっ! あたしら何もしてない、」 「名前はっ!」 厳しい声の主――ほんとうに男のような声だ。だが、正体は、黒髪を三つ編みに束ねた、声と同じく厳しい顔の女性だった。彼女――サルディオネの担当役員であるメリッサは、拘束されてわめくブレアの横っ面を、一度、強烈に引っぱたいた。ビシイとか、バシっとか、ものすごい音がして、ルナは肩をビクッとさせた。 ブレアは、呆然として自分を殴った女を見上げた。それから、「訴えてやる」とか「役員にいいつける」と騒ぎ、また殴られた。 「お黙りなさいっ! 見たところ、L7系あたりの小娘でしょうが、そこまで分別がないのか! 名前を言え! 今自分が何をしたのかわかっているのか!!」 「メリッサ、メリッサ、落ち着いて!」 ヴィアンカとカザマが、慌てて間に入ってきた。 それと同時に、乗用車が、この騒ぎの場所に横付けされた。中から出てきたのは、メンズ・ミシェルと、おそらく派遣役員であろう、数人の、スーツ姿の男性たちだった。 「間に合った、……わけでもなさそうだな」 ミシェルは、この状況を見て、肩をすくめた。 彼が消えていた理由は、役所にイマリたちの担当役員を呼びに行ったのだった。 ミシェルは、最初のうちに彼ら十人組に話しかけていた。「コンロ二つも持って行かれると困るんだよ。みんな一緒にバーベキューしよう」と声をかけたが、あっさり無視された。マタドール・カフェでのことをリサから聞いて「ああ、あの連中か」と思いだし、この分では、ひと悶着はありそうだと見据えたので、担当役員を呼んで引き取ってもらおうと考えたのだ。 だが、戻ってきたら、コトはひと悶着どころではなくなっていたようだ。 彼が連れてきた役員たちは、カレーがべっとりついたVIP船客、SPたちに拘束されている自分の担当客、メリッサにヴィアンカにカザマと、特別派遣役員――つまり、自分たちより地位が上の役員が三人もいることに、蒼白になった。 「も、申し訳ありませんっ!!」 「いますぐ、帰らせますので……!」 イマリたちの担当役員は、蒼白のまま、駆け寄ってきたが、 「帰ってもらうわけにはいかなくなりました」 カザマが、気の毒そうに彼らに告げた。 「……VIP船客のサルディオーネ様にカレーを投げつけてしまったのです」 |